第15話 知らなかった

「——おおっ! また流れた!」


 星が流れるたびに誠司は興奮した様子で空を指した。


「ははっ、流れるときって音しないんだな」

「音?」

「ほら、きらーんってさ」


 おどけた誠司の隣で雪菜が笑う。


「ふふ、赤城くんってそんな冗談も言うんだね。なんか意外かも」

「俺もだよ。白井がこんなに話せるやつだったなんて、全然知らなかった」

「え〜そう? うん、でもそうかもね。あんまり話す機会もなかったし」

「なにげに初めてじゃねえか? 小学校の時も含めて」

「アハハ、かもね」


 笑い合うふたり。それから誠司はまた興奮気味に空を指し示す。


「なあ、あれはなんて星なんだ?」

「あれはね——」


 そんな誠司の様子を微笑ましく見つめながら、雪菜は星に関する知識を披露していく。


 拓海はふたりから離れた位置でその様子を眺めていた。


 いつもなら誠司と同じように興奮して眺める流星のことも目に入らない。


 暗闇に慣れた瞳はふたりのシルエットだけを鮮明に映し出していた。


「雪菜さん、頑張ってますね」


 拓海の側でその様子を見るともなしに見ていた楓が呟く。


「あの姿を見てたら、応援してあげたい気もします」

「……応援しろよ。それが目的なんだから」

「そうですね。もしも私が何も知らない第三者なら、きっと素直に応援していました。でも残念なことに、私は恋に不器用な人をもうひとり知っていますから」

「……」


 拓海は視線を上げる。流れ星が落ちている空。十二月の夜空はひどく冷たい瞳で拓海のことを見つめている気がした。


 風が髪をなびかせる。拓海はポケットに手を突っ込んで夜空を見続ける。


 だけど、どれだけ目をそむけたところで、現実は変わらない。


 雪菜の弾むような声が屋上に響いていた。


 その声がほんとうに嬉しそうで。


 拓海は耐えられなかった。


「……俺、ちょっとトイレ行ってくるよ」


 そう言って返事も待たずに、拓海は逃げるように屋上から離れる。


「あ、待ってくださいっ! 私も行きます!」


 そんな拓海の後を慌てたように楓が追いかけてきた。非難を込めた視線を肩越しに送ると、楓は「実はずっと我慢してたんです。ひとりで行くのは怖いですから」とうそぶいた。


 しばらくふたり無言で階段を降りていく。三階、二階と降りて、一階にあるトイレの前で立ち止まる。けれど楓が行こうとする気配がないので、拓海はそのまま昇降口を出た。


 屋上よりも優しい夜風よかぜが吹いている中庭。自動販売機の明かりが夜の静寂な空気に場違いなほど煌々こうこうと輝いている中庭で、拓海は立ち止まる。


 そうして自動販売機の前に立った拓海は小銭を入れ、炭酸飲料のボタンを押した。ガタン、と荒々しい音を立てて落ちてきたペットボトルを取り出すために腰を屈める。そのときだった。


「……ほんとうにいいんですか、センパイ」


 ずっと黙って拓海のあとを付いてきていた楓がぽつりと呟いた。


「なにが?」


 ペットボトルを取り出しながら拓海は訊き返す。その冷たい感触にやっぱり温かいものにすればよかったと後悔するが、今さらどうしようもない。


「なにが、って……分かってるでしょ?」


 少しだけ語気を強めて楓は拓海の方を見る。「誤魔化さないでください」


 ……分かっているよ、でもどうしょうもないだろ。


 声にならない言葉を出して、拓海は無言のままキャップを回す。冷たい口当たりが夜の空気と混じって鼻腔びこうを抜けていき、喉の奥で炭酸の泡が弾けて消えていった。


「このままじゃ本当に雪菜さん、あの人と付き合っちゃいますよ!?」

「……」


 深まる夜。楓の息遣いが八月の花火のようにのぼっていく。そよとした風は高まった興奮を和らげるには力不足で、ただいたずらに感情をあおってくるだけだった。


「……楓には、関係のないことだろ」


 思わず出てしまった言葉に、けれどすぐに失態を悟る。でも遅かった。


「……関係ないって……先輩、それ本気で言っているんですか?」


 楓は怖い顔をして睨みつけてくる。気まずさから逃げるように拓海はまたペットボトルを傾ける。オレンジの風味が炭酸に負けまいと舌の上で踊っていた。


「諦めるんですか!?  先輩、雪菜さんのことずっと好きだったんでしょ!?」

「……だから、何度言わせるんだよ。もう決めたことだ」

「なら今日、実際に雪菜さんと赤城さんが話しているのを見て、先輩はどう思いました?」

「……」

つらいから! こんなところまで逃げてきたんじゃないんですか?!」

「……」


 静寂が言葉もなく耳たぶに触れて駆けていった。固く握りしめた拳にペットボトルが悲鳴をあげている。こぼれ落ちそうな天幕の下。拓海は地面に落としていた視線を楓に向ける。


「……もう、いいんだよこれで。ほら、もういくぞ。雪菜が……赤城たちが待ってる」


 ぐっと飲み干したペットボトルをゴミ箱に捨てて中庭を離れると、さっきまでは普通に思えた夜の校舎が、とても暗い場所のように拓海には思えた。


 それに気がつくと、もうダメだった。壊れた星のように拓海は動きを止めて立ち止まる。頭では戻ろうとしているのに、足が動かない。


「……先輩?」


 屋上で見た雪菜の笑顔が頭を巡っていく。楽しげに笑う声が遠雷のように轟いた。


 拓海は星空を仰ぎ見る。傷ついた何かを癒してくれることを願って。


 しかし自動販売機の煌々とした光におかされた目は何も映さず、ただ闇だけが白くモヤのように広がっていた。


「…………知らなかったんだ」

「え?」


 言葉が夜に溶けていく。吐き出された息がまるで狼煙のろしのように空へと消えていった。


 そう。知らなかったんだ。俺は何も。


 好きな人の笑顔が他の誰かに向けられるということが、こんなにも苦しいものだったなんて、想像もしていなかった。


 雪菜の恋を応援する。


 それが自分の選んだ道。


 本当に、大丈夫だと思ったんだ。


 それなのに。


 ……何が大丈夫だ。


 全然、ダメじゃないか。


 もう帰りたい。


 アイツに微笑みかける彼女の姿を見るくらいなら。


 もう二度と星が見れなくなってもいい。


 そう思った。

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