第35話 恐れていたもの

 嵐のような食事が終わり若者の家に帰るとソファに倒れこむように座りこむ。


 「ここで寝ないで。今日はベットに運ぶ体力がない」

 若者が缶ビールを渡しながら言った。

 「若いパワーに体力を吸い取られたね。ご両親とちゃんと話ができなかったけど、このまま付き合っても良いんだよね?」

 「大丈夫な理由を話す気力がない」

 不安な気持ちを吐露した私の口を若者が手で押さえた。



 時間が経つと精神的肉体的疲労を忘れ、アクシデント的要素に助けられお互いの両親に若者と付き合っていることを伝えることができて良かったと思えた。

 一つのイベントが終わった気でいた。




 ゴールデンウイーク初日、若者と一緒に友人の結婚式に参列し結婚証人という大役をこなした。

 帰国子女の新郎は外国人の知り合いが多く、神父様の言葉の後に一斉に膝をつき十字を切る様子に私たち新婦側の参列者はざわついた。本物の教会式に戸惑ったのだ。その雑音をかき消すぐらいウェディングドレス姿の友人は美しかった。



 翌日、夕食に若者と会う約束をして、夕食までの時間にお互いの用事を済ませることにした。朝から掃除に勤しみ昼すぎに買い物に出る。スーパーからの帰り、横断歩道で信号待ちをしているとジャスミンの香りが漂った。

 「いい香り。若者にかがせてあげたい」と呟く。

 「花に興味があるタイプじゃないけど彼女の前だと違うのかしら」

 デジャヴだと確信して横を見た。


 「こんにちは」

 若者の母親を何と呼んでいいのかわからず、ただ挨拶をした。


 初めて息子の家を訪ねたが不在で帰るところだと言う。私がスペアキーを使って彼の母親を若者の家に入れる勇気はない。葛藤の末、私の家で待ってもらうことにした。


 「綺麗にしているのね」

 私の部屋に入った若者の母親から賞賛の言葉をもらう。午前中に掃除をしておいてよかった。

 「何もない部屋なので、そう感じるだけですよ」いつものセリフだ。

 珈琲を出して向かい合って座った。何もない部屋でも若者と一緒に写っている写真があると自然と踏み込んだ話になった。


 喫茶店やカフェだったら気まずくなかったかも、いや、そうとは思えないと頭の中で自問自答を繰り返した。


 「うちの次男はあなたに夢中みたいだけど、あなたはどうなの?」

 一瞬、呼吸ができなかった。大きく深呼吸して言った。


 「怖いぐらい、好きなんです。すみません」


 「なぜ、謝るの?」

 「私の方が五歳ほど年上なんです。それだけじゃなくて、私にはもったいないぐらいで……」

 うまく説明できず言葉が続かない。


 少しの沈黙の後、若者の母親は彼にそっくりな目で私を見つめてから「お似合いよ」と笑った。


 私は嬉しいのに泣きたい複雑な感情のまま若者の母親に頭を下げた。



 その静寂を電話音が破った。若者からだった。家の前まで彼の母親を送って、私は自分の家に戻った。この感情を消化できないまま、無心になるため夕食の準備を始めた。








 夜、私の家で若者と食事をして、若者の家に移動してバルコニーでお酒を飲む。


 お酒と軽いおつまみを用意して縁台に座ると若者がスマートフォンから音楽をかけた。


 ドビュッシーの月の光だ。




 「おー、柄にもなくクラシックね」


 「ほら、月が綺麗だから」


 見上げると、どんよりとした空には星一つなく二人で笑った。




 音楽のせいか、お互い無口になり私の脳内は若者の母親の「お似合いよ」という言葉がリフレインする。




 やっと私が何を恐れていたのか、わかった。若者の両親に認めてもらえないのではないか、それが怖かったのだ。


 釣り合わない恋愛の王道、親の反対。経験のない新たな痛みに耐えられるか不安だった。その不安から解放されたのだと実感した。




 若者からグラスを取り上げ私からキスをした。若者は少し戸惑った様子だったが、直ぐに目を閉じた。








 音楽は月の光からショパンのノクターンに変わっていた。ノクターンは夜想曲。月は出てなくても、ピアノの甘い旋律が思考を麻痺状態に 落とし入れる効果は十分にあったようだった。

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