第22話 スパイスの効いた日

 日常が戻ってきた。

 京都旅行が遠い過去のようだ。



 仕事に追われ、息抜きに若者と食事をして海外ドラマを見るそんな毎日だ。

 海外出張中の友人も仕事に追われ私と同じような状況だとメールをもらう。彼女も私も馬車馬のように働かせる運命のようだ。




 金曜の夜、夕食を持って若者の家に向う。


 10月の初旬にもなるとバルコニーの縁台は風が冷たい。

 若者が食後に京都で買ったウイスキーを出してくれた。京都の写真を見ながらウイスキーを舐めるように飲む。


 若者が酔ったと言って私の膝を枕に寝転んだ。

 数分しても動かない。


 最近はスキンシップが多い。手をつなぐのは銀座に行ったあの日で終わったが、今日は膝枕だ。最近の若者は皆こんな感じなのだろうか。

 膝枕の感覚に懐かしさを覚え、記憶をたどる。


 そうだ、実家で飼っている犬だ。

 六歳になる雑種で四十キロもある大きな女の子だ。子犬の頃から膝に顔をのせて甘えてくる。私の靴だけをボロボロに引きちぎる姿は悪魔の使いかと思うが、撫でてほしくて頭を摺り寄せてくるのが可愛いくてたまらない。

 愛犬に会いたくなった。



 私の日常で若者と過ごす時間が多くなってきている。

 気を使わないし楽しい。友人とも今まで付き合った男とも何かが違う。これって何だろうと考えていた。


 無意識に若者の髪を撫でているのに気付き、慌てて手を止める。若者と目が合った。


 「気持ち良かったのに」

 「この感触が実家の愛犬に似てて無意識で……ごめん」

 恥ずかしい「お水持って来るね」この場から逃げようと試みる。


 若者を起こし立とうとした時、若者が私の手を引いて私を座らせ手を握ったまま身を乗り出してきた。


 「近い近い、なぜ目をつぶる」と思った時、若者の唇が私の唇に触れた。


 「アクシデント?」にしては長かったがいちおう聞いておく。

 「違います」

 「じゃ、正気?」

 「正気じゃないです。でも恋愛は気が狂ってないと始まらないでしょう」

 まさか正気じゃないと答えるとは思わなかった。でも今は心臓の高鳴りでそのことを言及する余裕がない。


 「僕たち、お互い好きだって認めませんか。不意打ちのキスなのに僕は無傷です。あなたの性格だと嫌だったら殴るか蹴るかしてますよ」


 私の性格を完全に把握している。

 確かに私は殴りも蹴りもしていない。それどこか止めることも拒むこともしなかった。


 強引なキスではなかったのだ。やんわりと止めさせることはできたと思う。何が起こったのかわからなかったわけでもない。驚いて目を見開いていたせいかスローモーションで再現できるほど記憶は鮮明だった。



 私は防衛本能で好きという気持ちを押さえていたのだろうか。居心地の良い若者との関係を壊したくないから何も考えないようにしてたのだ。


 「この関係が変わりそうで怖い」

 「もう、どっちにしても元には戻れませんよ。僕の彼女になってくれませんか。きっと大丈夫」

 私の手を握った若者の手が少し震えていた。



 若者がいない生活を想像してみる。

 親しくなる前の生活に戻るだけだ。でも記憶は戻せない。存在が大きくなっていることを確信した。


 「私のポリシーは人に嘘をついても自分には正直でいることなのに。嘘をつかないために考えることを放棄する私って……天才?」

 若者が「ポリシーも発想も奔放すぎる」と呟いた。

 「彼女にするのやめとく?今なら間に合うけど」

 若者が私を二度見し「もう取り消せませんよ」と言った。



 幸せの真っ只中にいるのにマイナス思考が頭をよぎる。幸せに慣れてない自分を憐れむべきか、励ますべきか、悩ましい。


 私の不安をよそに若者は思案顔で言う。

 「さっきのあれはキスかな」

 「はぁ?他に何がある?」

 「皮膚と皮膚の接触」

 「はいはい」と受け流す。

 「やり直しましょう。濃厚なやつを」と顔を近づけて……


 そのまま顔を素通りして顎を私の肩に乗せ「いっぱい話して笑い飛ばしましょう。大丈夫」と耳元で言った。



 キスするのかと思ってドキドキした自分が恥ずかしい。

 「ありがとう」と言うかわりに「珈琲を淹れて。濃厚なやつを」と答えた。

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