第14話 特別な桜
久しぶりにちゃんとした夕食だったと言う若者と一緒に後片付けをする。
まるで友人との恒例ランチのようだ。気楽さも手軽さも。違うのは並んでキッチンに立つときの圧迫感だけだろうか。私も友人も身長は160センチ前後だ。若者は私より多分20センチ以上背が高いと思われる。いままで付き合った男性はそこまで背の高い人はいなかった。広いキッチンが自慢だったのに狭く感じるじゃないかと思ってしまった。
食後の珈琲を飲もうと片付けが終わるタイミングに合わせて珈琲メーカーをセットする。カップを出そうとしたら、若者が珈琲を飲みながら夜桜を見ようと提案してきた。紙コップも水筒もない。マグカップと珈琲メーカーからステンレスサーバーごと取り出してエコバックに入れ家を出た。
歩きながらふと不安がよぎる。ここ文京区で多いものと言えば……
「まさかお寺や神社の桜じゃないよね?」
「ダメですか?」
「怖すぎるでしょう!」
「お化けや幽霊より生身の人間の方がよっぽど怖いですよ。気が強いのに怖がりですよね」
若者は笑いながら平然と言う。言いたいことはわかる。確かにいるか、いないかわからない存在のお化けや幽霊より人間の方が怖い。でも嫌だ。適切な言葉でないならと心の中で言い直す。気持ち悪いでしょう!
不安が拭えないまま歩いて若者が連れてきてくれた場所は近くの商業施設だった。
その商業施設の裏手に5本の桜の木があり、桜の下にちゃんとベンチもあった。犬を散歩中の人が休んだり、スーパーで買ったものを食べている人もいる。空いているベンチに座り桜を眺めた。商業施設だけあって、間接照明の淡い光が満開の桜を下からぼんやりと映し出しているような効果を出していた。
「高級スーパーが入っているのは知っていたけど、こんな場所があるなんて知らなかった。しかもここの桜は何ていうか、スタイリッシュね」
満開の夜桜には他の花にはない怪しい美しさがあった。幻想的なこの雰囲気に今なら私も惑わされるかもと思えた。
何を考えているのかと聞く若者の言葉で我に返った。くだらない事と言って急いで珈琲の入ったマグカップを渡す。それでもずっと桜を眺めていた。
「そんなに桜が好きなんですか?さっきのくだらない事を教えてくださいよ」
「特別桜が好きってわけじゃないけど。夜桜の怪しい美しさに我を忘れるほど惑わされてみたいなと思ってね」
「本当に変わってますね。桜じゃなくて僕が惑わしてもいいですか」
そう言ってポケットからキャラメルを出して私にくれた。今の失言で思い出した。
「こら、若者。ちょいちょい失言が多いぞ」
「どれですか?」
「私は気が強くて変わり者って言ったでしょう。そういうことはオブラートに包んで言うものよ」
「僕が惑わすって言葉はスルーですか」
「キャラメルを渡しながら言われると正直……かわいい」
若者はショックだからキャラメルを返してと言ってきたが、口の中に入ってしまったものは返せない。キャラメルは珈琲にすごく合ってたが、キャラメルをもらうって小学校低学年以来だ。
気を取り直した若者が話しかけてきた。
「奈良にある吉野の桜を見たことありますか」
「ないけど、万葉集出てくる吉野の山でしょう。一度見てみたい。宿坊に泊まって早朝千本桜を見るの」
「仕事で行ったんですけど、圧巻でした。今度一緒に行きましょう」
「えっ、仕事って、珈琲屋じゃないの?」
「主に古民家再生を扱っている設計事務所に勤務してます。珈琲屋は友人の家で学生時代にアルバイトしていたから実家のようなものです」
食いついてほしいところはまた無視されたと若者は小声で言った。
それにしても久々に素敵な夜桜を見た。上野公園も墨田川も千鳥ヶ淵も夜桜を見に行ったことがあるが人が多くて素敵だと思う余裕がなかったのかもしれない。
平凡な毎日には今宵の桜のような特殊な感情を引き出すものが必要なのだ。いつもと違う特殊な感情が。たまにスパイスの効いたエスニックが食べたくなるように身体が欲するものなのだ。
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