第134話 ラーメンフォーク

 僕の故郷には熱心な菜食主義者で、完全に動物性タンパク質の摂取を拒む人もいたよ。

 菜食に拘る余り、その裏で犠牲になっている動物には目もくれない人はお笑いだけどね。

 畑を耕すときのミミズの巻き込みにも、駆除される害虫にも、畑仕事には付き物な事象を無視してるんだよ。


 そもそも人類が生活環境を広げるということは、生活環境を奪われた生物がいるということ。

 それは生産者の駆逐に始まり、消費者たちの生活環境の圧縮へと繋がる。そこでは苛烈な競争が生まれ、死するものも少なくないだろうね。

 肉食──牧畜をやめれば農地が減り、人類の生活環境は減るよ。結果として他の生物の生活環境は増えるさ。競合相手と捕食者と共にね。

 肉食をやめるだけならまだしも、“動物を殺さない”という選択肢の行く末は先述の通りさ。

 増えすぎた人類を粛清しようとでもいうのかねぇ?



 話が脱線したね。

 得てして他の動物が身の回りから居なくなることになり、植物が周りを満たすことになるわけだ。

 意思の疎通が出来るということに端を発して、動物の殺害・肉食を忌避した未来の可能性として、人類の衰退があるわけさ。

 此方を害そうと爪牙を向けている相手に、友愛の心は通用しない。戦わずに何でも譲ってくれるなんて都合の良いカモ、逃す手はないからね。


 バカバカしいとは思うけれど、そういった未来に備えて森エルフも海エルフも、動物に頼らないタンパク質の入手──合成機構を確立してあるのさ。

 あくまで精神的負担を和らげるための措置だけどね。

 だって植物と意思疎通が出来ないかというと、アディ、モイラたちが既に存在しているんだもん。かなり特殊な例だとは思うけどさ。

 そちらの道を突き進むのなら、手を下す最低限の人員で回せばいい。咎人に刑と称して労役に就かせるのも一つだよ。

 オスカーたちに守られた大森林や浮上都市ラヴィアンローズの様に、隔絶した環境を用意したのも“生態ピラミッドの外”を意識した結果だね。


 スーなら分かると思うけど、こういう世界ってさ、ドラゴンは大抵喋るんだよね。意思の疎通が図れちゃう。

 ドラゴンにはまだ遭遇したことがないから、確認が取れているわけじゃないけどね。

 ドワーフたちは“ドラゴンの鱗”を持っているけれど、果たして真にドラゴン由来の物かは分からない。“アラクネーの糸”は巨大蜘蛛の糸だったし。人と蜘蛛の融合体かと思ったんだけどね。


 他種属と意思の疎通が図れるという仮定は、早い段階でしてあって、結局滅びに向かうのかというと、必ずしもそうとは限らない。

 ドラゴンに限らず言えることだけど、まず生活環境が重なっていない場合。クジラのような陸上生活が出来ない海棲生物なんかがそうだね。

 接触するにあたり、物理的な障壁が守ってくれているわけだ。


 あとは相手が生態ピラミッドの外にいる場合が考えられる。

 原則不干渉だけど、干渉するときは大なり小なり様々だね。

 生態系の維持として増えすぎた種を間引いてくるかもしれない。人類が他種属に対して行うようにね。

 詰まるところ人類の辿る道は、家畜として飼育されるか、野生生物のように狩猟の対象となるか、害獣として適宜駆除されるか、対等な存在として対話を行うか、あるいは戦うかかな。

 一方的に害されるのは論外として、対話を行うにしても、戦う力があることは示し続けなければならない。直接相手をするか、間接的に誇示して見せるかの違いはあるけどね。

 今回の半人半馬ケンタウロスの場合は前者しか選びようがなかった。

 連絡の途絶えた子たちが、言葉の通じない相手に武装を渡すわけがないからね。



 長くなったけど、声帯言語が通じる、意思の疎通が図れることを前提とした考究なのだから、そこが崩れてくれれば良いだけの話。

 だから“根本的に言葉が通じない”相手であれば、悩む必要がないんだよね。

 僕やクローさんの様な存在がいることから、そっちの可能性が高いハズなんだ。

 人類が滅ぶ流れにある世界に“渡り人”を送り込むなんて労力の無駄。

 異世界の知識を持ち込ませる意義が感じられない。

 そういうものだというのなら、此方もそういうものとして扱うだけさ。


 ウシやブタが話しかけてくるのなら、話し方を学ぶ前にツブしてしまうか、繁殖用の親にするように声帯除去手術を行ってしまうか。

 ペットの去勢やウシの角落としと同列。サラブレッドの血統選別や家畜の品種改良なんかは遺伝子レベルでの介入だから、それよりマシかもね。程度の比較に意味があるかは知らないけど。

 逆説的ではあるけれど、優生学は人類を家畜として扱う行為と言えるね。


 結局のところ、言語が通じようが通じまいがやるべき行動はさして変わらない。

 繰り返しになるけれど、「此方を害そうと爪牙を向けている相手に、友愛の心は通用しない」し、「対話を行うにしても、戦う力があることは示し続けなければならない」だ。

 相手を家畜化するにしても、礼節は必要だ。すべての命に感謝し、「いただきます」なんだ。

 人は生きているだけで業を背負ってしまうんだ。食事への感謝の念さえ無くなってしまえば傲慢と言わず何と言おうか。

 むやみやたらに命を奪ってはいけないのさ。


 僕の故郷では家畜を屠殺するのはちゃんと学を修めた獣医だった。可能な限り苦痛を与えないように。勿論供養もしてね。

 反対に人間は安楽死さえ認められるものではなかった。

 一つの線引きとも取れるけれど、苦痛の中生き続けなければいけないというジレンマもある。QqualityOofLlife──“生活の質”のあり方へ目を向ければ、自ずとQqualityOofDdeath──“死の質”にも目を向けなければならなかった。

 本人は死にたいと願う病であっても、家族は生きていてほしいと願う。

 本人はどんな姿でも生きたいと願っていても、家族が介護の負担を厭うが為に死を願う。遺産目当てもね。


 死生観については各々に任せるよ。

 それぞれの解釈があってしかるべきだし、他人へ強要するようなもんじゃない。

 麺を食うのに箸かフォークか拘る人もいれば、どちらでもいい人もいる。要は食えればいいんだとね。それこそ「先割れスプーンこそ至高」と言う民もいるだろうさ。

 地域や文化で考え方は異なるし、十人十色と言うだろう? 人が違えば考え方は異なるんだ。

 


 社会の一部足り得る者は独りで生きているわけではないし、死ぬときも独りではない。死後を任せる誰かが居るはずさ。

 その人物へは死生観を伝えて理解してもらう必要がある。

 独りで生きて独りで死ぬことは可能だよ。人里離れた山の中で暮らしていればいい。亡骸の処理は獣や腐敗微生物がやってくれるさ。

 自死するに当たっては、所有者のいない土地で済ますなどして、骨が風化するまで見付からなければいいだけさ。

 沖で身投げするのも一つさ。船がなくなったと騒がれないことと、浮かび上がってこないようにすることだ。

 亡骸が見付かれば、事件か事故かを探るべく、もしくは過去の歴史を振り返るため、捜査・研究の対象となってしまう。

 最終的に誰かに弔われてしまえば、独りで死んだことにはならない。ただの自己満足な死だよ。

 どの様な生き様・死に様を選ぶのかは個人の自由さ。

 ──そう、選べる人生を歩んで欲しい。「こんな風にしか生きられなかった」、「こんな死に方しか選べなかった」と嘆くような人生にはしないで。

 それは皆に対してもそうなんだ。

 生き方を押し付けないで。

 生き方を否定しないで。

 誰かを害する権利なんて、誰にも与えられちゃいないんだ。

 キミたちには理解し寄り添ってあげられる人間になって欲しい。

 ──ああ、生き方を押し付けるなって言っておきながらこれじゃあカッコがつかないな。

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