第79話 春を愛する人

 以前外洋を回っているときに見つけた木を持ち帰った。

 北の森の中、街には向かわずに海へ注ぐ川の辺りに移植した、春に薄桃色の花を咲かせる木だ。

 数多の花弁が花吹雪を作り、秋には落葉もする。柔らかい葉は虫が好み、手間の掛かる木だが、故郷の情景を思い出すのだ。

 大事にしてくれるとありがたい。


 あれから何年経っただろうか。

 ちゃんとあの場所で花を咲かせているだろうか。

 君たちの原風景になっているだろうか。

 もし原風景になっているのであれば、思い起こして欲しい。

 満開のあの花を。


 黒みがかった光沢のある幹には横筋が走り、年を重ねれば節が重厚感を演出することもあるだろう。

 蛇行する枝が傘上に広がり、伸びた先では花柄が分かれ、半球状に花開く。

 枝ごとで見ると歪に感じるかもしれないが、引いて全体を見渡すと艶やかさに心を奪われる。

 黒と白のコントラストに薄く桃が加わり、青空と下草が彩りを加える。

 そう、この木は花が咲くときに、自らの緑──“葉”がないのだ。



 多くの草木では、花が咲くときには葉がある。

 根から水を吸い上げ、葉で大気の二酸化炭素を取り込み、太陽光を受けて糖を合成する“光合成”を行うのが、植物の大きな特徴の一つである。

 そうして出来た糖を体内の諸反応に利用して、からだを作り上げていく。

 それは次代を残すための“花”の形成も含まれる。

 葉で光合成を行い、花をつくる。

 そしてそのまま冬を越すものもあれば、葉を落として春に再び葉をつけ直すものもある。

 いわゆる一年草では、種子を残した後は枯死してしまい、出来た種子が代わりに冬を過ごして、春には次世代が芽吹く。

 植物により一年の過ごし方は様々だ。


 この木の場合は、秋に葉を落とすまで光合成を行って養分を貯め込み、冬を越えて翌春に、貯めた養分を使い先に花をつけるのだ。

 『花開く』と物事の成果が現れることの表現に用いられるが、この木は花をつけるために、夏から秋に貯蓄をつくり、冬を耐え忍んでこその姿である。

 その姿は故郷で生活をする人々の心に響き、とても愛される木だったのだ。

 春に新しい生活をはじめる者は、冬の寒々しい姿と春の華やかな姿に自らを重ねてしまうことが多く、この木の下で祝いの席を設けて花を愛でることは、春の風物詩でさえあった。

 郷愁の思いもあったが、この国でもそうなってほしい思いで植えた。

 重ね重ね、長く愛でてやってほしい。



 この国の植物──木本類は一年ごとにその生長を『年輪』としてからだに刻み込む。

 それは樹木の横断面にみられるほぼ同心円状の輪。

 幹の“形成層”の肥大生長が、季節で異なるために生じる模様だ。


 気候が穏やかで安定している春には大きく生長するため、細胞は大きく育つ。

 夏から秋にかけては降雨と日照、気温のバランスが優れないこともあるため、緩やかに生長する。

 冬に葉を落とすものは、その生長を完全に休止させる。

 この生長の差が、植物の特徴の一つである“細胞壁”の密度の差を生み出す。

 細胞が大きく生長する春は細胞壁は粗となり色は薄く見え、夏から秋にかけては細胞壁は密になるため色が濃く見えるのだ。

 一年の間に粗と密の輪が出来、これらを数えることで、その樹木の年齢──樹齢を知ることができる。


 また『年輪』の生長度合いを調べることで、過去の気候を探ることも可能となる。

 たとえば旱魃が起これば、人々に飢饉をもたらすくらいである。

 植物の生長も悪く、粗な部分が少ない層が出来ることになる。


 では外洋をさらに進み、比較的気候が安定した南洋地域ではどうであろうか。

 南洋に広がる熱帯多雨林では、一年中安定した生長を続けるので、細胞壁の密度の差が生まれず、普通『年輪』は認められない。

 乾季と雨季がある地域であれば、乾季には生長が休止するため、『年輪』が形成されることになる。

 もし観察する機会に恵まれたら、ぜひ確認してほしい。


 面白いもので、生長が悪いときに密になる細胞壁は、その植物体をより強く揺るぎないものにする。

 もちろん、悪いときがあまりに続けば、その木は耐え切れずに枯死してしまう。

 メリハリが植物を大きく育てるのだ。

 植物は自らの力だけで大きくなっているのではない。

 周りのさまざまな要素によってその生長は支えられている。


 動物にも『年輪』は存在する。

 貝の殻や魚の鱗には“成長線”と呼ばれる線が見られる。

 植物と同じく、成長著しいときに間隔は大きくなり、悪ければ小さくなる。

 この成長線でその個体の重ねてきた歴史を垣間見ることが出来る。


 人の場合はどうであろうか。

 よく『人生の年輪を感じる』というが、この『年輪』はどのように形成されていくのだろうか。

 やはりこれも成長著しいときと伸び悩むときの繰り返しによって積み重ねられていく。

 “苦”・“楽”の繰り返しである。

 “楽”ばかりでは軟になる。“苦”ばかりでは駄目になる。

 “楽”は“苦”があって初めて輝く。

 “苦”は“楽”があって初めて感じることができる。

 どちらかだけではいけないのだ。

 どんなに魅力的であろうとも、“楽”ばかりを求めてはいけない。

 低きに流れるのはひどく容易い。

 “楽”に慣れてしまうと、少しの“楽”を感じられなくなり、些細な“苦”にさえ立ち向かえなくなる。


 “苦”と“楽”は『喜怒哀楽』を生み出す大切な土壌。

 その土壌を豊かなものにし、その上に立つ『喜怒哀楽』の感情の樹を大きく育てるために、積極的に“苦”に立ち向かいなさい。

 そうすれば、『年輪』はしっかりとその身に刻まれ、豊かな表情を生み出してくれるだろう。


 この手紙を読む君は、春に新たな旅立ちを迎える者だと思う。

 ただ無為に歳月を経るのではなく、誰に見られても胸を張れる『年輪』を積み重ねていくことを切に願う。



 筆:トモオ=ミクラ・ウェルマーチ



 末筆ではあるが、一つの学を記しておく。

 『南側から太陽光が差し込む地域では、植物の南側の生長が著しく、年輪の幅が広くなっている』というのは、根拠に乏しい流言であるので注意すること。

 山中で迷っても切り株の『年輪』を当てにしてはいけない。


 植物には“重力屈性”といって、重力に対して反対に、すなわち水平に対し垂直に伸びようとする性質をもっている。

 斜面に植えた種子が芽吹き、均等に生長すれば、その植物は斜面に対して垂直に育ち、水平面からは斜めに育つことになる。

 山を見渡した時にそのような木があるとすれば、風や土砂により倒され、見失った生長方向を修正している最中だろう。


 木々は重力に対して逆らうように伸びるため、斜面に立つ場合は谷側の生長を大きくする。

 そして垂直になった後も、谷側に倒れないように根を大きく伸ばす必要がある。

 また、山側は斜面が邪魔をするのに対し、谷側はその邪魔するものがないため、枝葉を伸ばしやすいこともあるだろう。

 以上のことから、谷側の生長が比較的大きくなりやすく、年輪の幅が広くなるのだ。

 日照は関係ない。

 日照方向に応じて生長度合いが変わるような進化を遂げるのであれば、枝葉はすべて南向き(太陽の上る向き)に生える植物ばかりとなるだろう。


 そもそも遭難したときは、食料としても植物を当てにしてはいけない。

 人間が口にできる植物は、何十、何百年とかけて品種改良を重ね、ようやく食せるようになったものである。

 イヌやネコがタマネギで中毒を起こすのがいい例だろう。

 ヒトが問題なく消化できるように品種改良されただけで、他の動物のことは考慮されていないのだ。

 野生の植物ではヒトに対してすら対象外。

 一口食せば、思いがけない副作用で苦しむことになりかねない。

 食中毒で寿命を縮めたくなければ、遭難しても野生のものは極力口にしないこと。

 旅立つ前には準備をしっかりすること。

 【収納】の熟達に励むことを推奨しておく。

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