第72話 ありまぁす!
奇跡の結晶を再生するにあたり、考慮すべき点はまだあった。
臓器や組織の一部を再生する場合、残された周辺の組織が“
移植手術などでうまく元のかたちに再生される場合、移植片が正しく分化を行えたことになる。
しかしながら、分化には制限があり、一度分化してしまうと、別の細胞には分化し直すことができないこともある。系統として近しい場合は、適応することもあるが、通常は不可逆と思っていい。
このため、体内には損傷したときために、未分化の細胞が残されており、これらを用いて失われた細胞を再建し、傷を塞いでいる。
【回復魔法】はこの未分化の細胞にはたらきかけ、活性化させて傷を修復しているのだ。
だがこの未分化の細胞にも限界はあり、いくつもいくつも使えるわけではない。
細胞の分裂回数は有限で、使い切ってしまえば、次の損傷には深刻な疵痕を残すことになってしまう。
年老いてからの怪我が尾を引く理由は、この未分化の細胞の不在が理由の一つに挙げられる。
そしてこの未分化の細胞もまた、万能ではない。
前述の通り、どの細胞に分化できるかは選択肢が絞られているため、もし分化できない細胞が損傷し、その機能を取り戻すことが出来ないときは“後遺症”が生じるのだ。
これを解決するために、開発されたのが“ES細胞”──
母親の卵と父親の精子が受精して出来る受精卵は、一つの細胞でありながら、肉体を構成するすべての細胞に分化することが出来る“分化全能性”を持ち合わせている。また細胞の増殖能力も、生物としての一生を全うすることが出来るほどに潤沢だ。
これを移植してやれば、どのような細胞の損傷も修復することが出来る。その考えの下に研究が行われたのだ。
しかし問題は大きかった。
一つは受精卵を用いること。
つまり、一個の生命として成立する存在を、既存の生命のために犠牲にしてもいいのかという倫理的な問題があった。
この倫理的問題を含む技術の研究において、論文の捏造が行われたことは誠に度し難い。
もう一つの問題は技術的な問題。
この問題を解決するため、ES細胞側で拒絶反応のきっかけになる原因を
次いで考えられたのが、患者の遺伝子をES細胞にもたせる。
つまり細胞核移植を行い、患者と遺伝子的に同一なES細胞を作ることが議題に上がったのだ。
ここで更なる問題が生じる。
遺伝的に同一であるならば、拒絶反応は起こらない。
であるなら、個体として成長させ、既に確立された臓器移植を行う方が、簡単、確実ではないか?
生まれ、生かされる個体は当然、臓器移植に耐えられるまでの大きさに成長を待つ必要がある。
部品取りのためにこの世に誕生した生命にとって、産み落とされた目的を果たすまでに得られた経験や知識、喜怒哀楽といった感情はどうなるのか?
所謂”クローン”の人権問題である。
どうしても倫理面の問題がつきまとう技術だったのだ。
勿論クローン移植の場合、クローンが成長しきるまでに多大な時間を有すること、その間に患者が寿命を迎えないかといった時間的な問題も含んでいた。
一部の心ない権力者は、いついかなる病傷を受けても大丈夫なように、莫大な費用を投じて、既に予備の肉体をつくらせている──といった
だが人類の科学は空想の先に進む。
患者の、既存の細胞は受精卵から始まり、細胞核に含まれる遺伝情報は、その個体内では原則同一のものである。
遺伝情報は“生命の設計図”。
そもそも“分化”とは何か?
細胞の役割分担が何故生じるのか? どのように生じるのか? 延いては分化の不可逆性のメカニズムを考えた。
“分化”とは、特定の機能を細胞にもたせるために、細胞の形状や特性を変化させること。
そのためには不要になる設計図があるはずだ。
分化した細胞には不要な設計図に鍵が掛けられ、使用不能になってしまうのではないか?
この場合、分化した細胞に別の細胞になってもらおうとすると、鍵の掛かった設計図は参照できないため、不完全な分化となってしまう。
ではこの鍵を開けることが出来れば、分化した細胞に“分化全能性”を取り戻すことが出来るのではないか?
そうして生み出されたのが“iPS細胞”──
いくつかの因子を導入し、“分化全能性”と増殖能力をもたされた細胞だ。
患者の既存の細胞から生み出すため、遺伝的にも同一で、受精卵を用いないため倫理問題も当たらない。
“分化全能性”に対してクローンの可能性を論じるのであれば、一卵性多生児が示すように、全ての生命は誰かの遺伝子的クローンと成り得たのだ。論じるほどに論点がズレるため割愛する。
しかし課題もあり、増殖性をもたせているため、何かの拍子に制御できない増殖──細胞のガン化を引き起こさないか、慎重に検証を進めなければならない。
iPS細胞に用いられる因子を回復食や回復浴中にも加え、【回復魔法】でその因子のはたらきごと細胞を制御することで、細胞寿命を無視した治療を可能としている。
閑話休題。
今回の眼球の再建に当たり、丸っと眼球が摘出されているため、付近の組織が形成体として作用することが期待できない。
このため、可能な限り完全な形の物を作りだしてから、移植してやるしかないのだ。
眼球形成──人体の発生を追い掛けた。
はたらく
アミノ酸配列からα-
細胞の分化、成長。
眼球の形成は脳を形成する脳胞から眼胞、眼杯を経て網膜に分化する。
その一連の流れで眼胞が表皮から水晶体を誘導し、出来た水晶体が表皮に作用し、角膜を誘導する。
正しく脳の一部である眼球、視神経を切り離し、イーディスに移植する。
定着すれば眼球を動かす筋肉──外眼筋のリハビリへと移る。
どうやって移植するか。
この日のために練習させた【収納】を使う。
容器の内容物を【収納】し、容器内に戻す。
初めは硬い固形物から。
徐々に軟らかくし、最後はゼリーを壊すことなく出し入れ出来るようになるまで、反復練習を行わせた。
使用したゼリーはその後、
古く、機能を失った視神経を取り除き、脳までの経路をクリアにする。
眼窩から脳に至るまで、眼球と視神経のための容器とみなし、【収納】から取り出しピッタリと収める。
他人の体内への【収納】の取り出しは、【巡廻】をしてもマナの反発が起こるかもしれない。
本人の手で行うことが最前だと判断した。
果たして体内を容器と見なせるのかは分からない。
だがそう思えるように、何度も眼の周囲でマナの鬼ごっこをした。
どこにどう神経が通っていたか、本人も確と学んだ。
人事は尽くした。あとは
「──入った? たぶん、出来、ました。でも、これで見えるように、なるのでしょうか?」
「少し待って下さいね。神経末端の接続を導きます。外眼筋の再建後、全体に【回復魔法】を掛けて馴染ませます」
自分たちに出来ることには限界がある。
それでも管理者の加護がない分、更に人事を重ねる。
『天は自らを助くる者を助く』
足掻くだけ足掻くのだ。
あとは【回復魔法】に期待するしかない。
不思議物質マナを過大評価してやる。
使用者の願望と、被験者の魂のカタチに沿った振る舞いをマナに実行させていく。
「いいですよ、ゆっくり、目を開けて──」
ゆっくり、ゆっくりと、瞼が開き、取り戻された眼が本来のはたらきを行おうと光を受ける。
「また世界を見られるとは思っていませんでした。凄いです。涙もしっかり流れるんですね」
頬を伝う輝きが、この世界に美がひとつ取り戻されたことを告げた。
「ここまでよく頑張りましたね」
「獣王様のお陰です。私のために頑張ってくれていることが伝わってきたから、私も頑張らなくちゃって。滅茶苦茶にされた私の身体も綺麗にしてもらって、本当に夢のようです」
自らの身体をあらため、視覚と体感覚との差異をすり合わせ、馴染ませている。
「傷んだ靱帯も、筋肉も元通りになっているかと思いますが、眼と同じ様にゆっくりと慣らしていきましょう」
「はい。本当にありがとうございます。最後にひとつ、いいですか?」
「何でしょう?」
「獣王様、ご存知ですか? 眠り姫は目を開けた後、初めて見た王子様と結ばれるんですよ?」
イーディスが髪と同じ薄茶色の瞳を向けて微笑む。
「感謝してもしきれません。私に残されたのはこの身ひとつです。全てを捧げます。貰ってはいただけませんか?」
とかく、この世はよく割れる──。
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