第433話

 しかし――。

 分身には実体がないものの、その泳ぎには水の抵抗なども再現されている。それでも分身のほうが前に出て、差は開く一方。

 部員の声援も徐々に気まずいものになる。

「もうあんなに離されちゃった……」

「あっちも菫さんなんでしょ? なんで?」

 理由のひとつは、分身は疲労しないこと。25メートルをスタートからゴールまで最速で泳ぐことができる。

 しかし理由はやはり菫のメンタルにあった。


   特待生として、大会で結果を出さなくてはならない。


 そう意気込む一方で、


   皆の期待に応えられなかったら?

   これが自分の限界だったら?


 不安やプレッシャーもある。菫のレベルになれば、そういったメンタル面の不調が実技にも如実に表れるのだろう。

(感情のコントロール……かあ)

 ふと『僕』は、ここ数ヶ月のSHINYの活躍ぶりを思い出した。

 巽雲雀のレッスンを通じ、里緒奈たちは飛躍的に成長している。もちろん、それは技術面だけの話でなければ、メンタル面だけの話でもない。

 技術の成長にはメンタルが、メンタルの成長には技術が不可欠なのだ。SHINYの場合はまさにそのバランスが取れていた。

 反面、菫の場合は技術とメンタルのバランスが取れていない。ゆえに不調に陥り、安定したタイムを出せずにいる。

 分身とのレースで三連敗を喫したところで、菫が休憩に入った。

「コーチ、あの……あれは本当に私なんですか?」

 とはいえ先ほどまでの焦燥感はない。純粋な驚きが勝っている表情だ。

「そうだよ。今の菫ちゃんがベストの泳ぎをすれば、あのスピードになるんだ」

 同じく休憩中の恋姫が口を挟む。

「だとしたら、技術的には充分ってことじゃないかしら? 焦ることないわ」

「え、ええ……」

 里緒奈も放っておけないとばかりに混ざってきた。

「難しいのよねー、『本気を出す』のって。言葉にするのは簡単だけどさあ? 気合ひとつでベストな自分を出せるかっていったら、違うでしょ?」

「里緒奈ちゃんの言う通りね。本気を出すだけで何でもできるのなら、里緒奈ちゃん、赤点なんて取らなかったはずだもの」

「練習行ってきまーす!」

 赤点JK、再びプールへ。

 菜々留がバスタオルを肩に掛けながら微笑む。

「菫ちゃん、本当はほかにも何か理由があるんでしょう? 特待生だから大会で成績を残したい、だけじゃなくって……もっとこう、競争したい相手がいるとか」

「そう……ね。あなたの言う通りよ」

 菫はスポーツドリンクに少しだけ口をつけ、嘆息した。

「実は私、ケイウォルス学院へ行った幼馴染みと、夏の大会で競争しようって約束してるんです。それで、友達もレギュラーが決まって……」

「ま、待って! 待ってったら」

 その告白を、恋姫が慌てて制する。

「戻ってきて、里緒奈! またP君の恋人候補が増える案件だわ!」

「陽菜ちゃんが恵菜ちゃんを連れてきた、なんてパターンがあったものねえ」

「あなたたちの恋愛悩で、菫の目標をブチ壊しにしないで」

 見かねたらしい妹もスクール水着の生地ごと爆乳を揺らし、合流。

「その幼馴染みに勝ちたい一心で、兄さんの変態指導にも耐えてたのね」

「ねえ、美玖? 分身と競争させる練習の、どこが変態なの?」

 菫はコーチの『僕』を見詰め、言いきった。

「勝ちたいんです、どうしても。あの子……芙蓉(ふよう)に」

「フヨウ? ああ、お花の名前ね」

 幼馴染み同士、スポーツを交えての友情。

「ちょっと羨ましいなあ。僕にはそういう馴染みのライバルがいないし」

「易鳥はライバルじゃなくて恋人ですもんね。ふん」

「恋姫ちゃん? もう少しツンデレを勉強しましょう?」

 そんな友情の在り方に感心していると、赤点JKが戻ってくる。

「わかったわ。百合ね? 百合なんでしょ?」

「え? あの……」

 その発想が『僕』に新たな世界を垣間見せた。

「なるほど。じゃあSHINYもメンバー同士でちゅっちゅすれば、もっと……」

「ぎゃあああっ! ななっ、何言ってるんですか、P君!」

「ギャアって言うほどに? ナナル、ちょっぴり傷ついちゃったわ」

「ミクはカップリングに混ぜないで」

 百合企画については一度、メンバーと真剣に話しあうべきか。

 とにもかくにも、これで菫が水泳の大会に入れ込む理由はわかった。

 水泳部のコーチとして『僕』は彼女に発破を掛ける。

「その友達と全力で戦いたいんだね。じゃあ、なおのこと練習しないと」

「はいっ!」

「でも無理はしないでネ。僕も協力するからさ」

 結局『僕』にできることなど知れていた。応援するか、練習を手伝うかだけ。

 それでも菫は『僕』たちに本音を打ち明けたことで、少し楽になったようだ。スポーツマンらしい勝気な笑みを浮かべ、ガッツポーズに気合を込める。

「ありがとうございます! コーチ」

 『僕』のほうもモチベーションが漲ってきた。

「よぉーし! 泳ぎには欠かせない『腰』の特訓、やろうか」

「え? ……腰の?」

 初めての練習に一年生のエースが息を飲む。

「クロールだってバタフライみたいに全身で反動をつけて、前へ進むわけだからね。ただしこの練習はハードだぞ? 菫ちゃん」

「の……望むところです!」

 練習のやり方そのものは簡単だ。

 まず、ぬいぐるみの『僕』がプールサイドで仰向けになる。

 その上に水泳部員が跨り、両手を頭の上や背中の後ろへ(要は地面につけない)。

 あとは、真下の『僕』がリズムよく身体を揺らせば、

「ひはあっ? コ、コーチ……これ、んあぁ、激しいです……っ!」

「体力もつくからさ。菫ちゃんは何分くらい耐えられるかな?」

 股座を間断なく突きあげられながらも、菫は器用に腰を捻り、追いすがってくる。

 これこそが『僕』のもっとも得意とするレッスンだ。不安そうに『僕』に跨るスクール水着の彼女を、これでもかと揺さぶってやる。

 そう、練習の一環として――。

「騎乗位の練習じゃないですかっ!」

「んばぶぅ?」

 そのはずが、恋姫に水平の方向へ蹴り飛ばされてしまった。だるま落としみたいに。

「お風呂でもよくリオナに練習させてるわよね? それ。えっへっへ~」

「すっかり舞いあがっちゃってるわねえ、里緒奈ちゃんったら。……ナナルとセンター交替にならないかしら……」

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