第386話

 ふたり一緒に水面から顔を出し、青空を仰ぐ。

「ぷはあっ! はあ……大丈夫だった? キュート」

「うんっ! 面白かったね、お兄ちゃん」

 あっという間の十秒だったが、爽快感で身体が丸ごと入れ替わったみたいだ。

 キュートも無邪気な笑みを咲かせる。

「帰ったら、里緒奈ちゃんたちに自慢しちゃおーっと」

「それはちょっと……」

 ウォータースライダーを滑っても、キュートのアイマスクは健在だった。それを惜しいと思いながら、『僕』は安心もする。

 まだ彼女の正体に踏み込む時ではない。

 それは『僕』と妹の関係に確実な変化をもたらすのだから――。

「っと。次のお客さんが待ってるよ、離れないと」

 『僕』は妹の手を引き、スライダーのゴールから距離を取る。

 するとキュートが水面をかき分け、『僕』の右半身に飛びついてきた。

「ねえ。お兄ちゃん」

「どうしたの? キュート」

 アイマスク越しの瞳が『僕』をまじまじと見詰める。

 そして、それは一瞬の出来事。

「――んむっ?」

 妹の唇が『僕』の唇を塞ぐ。

 プールの中で、突然のファーストキス……だった。

 唇が離れても数秒ほど『僕』は呆然として、沈黙。これがファーストキスだという自覚が驚きとともに込みあげ、おたおたする。

「きゅきゅっ、キュート? な、なんで今……キスしたよね? 僕に……」

「エヘヘ! お兄ちゃんの顔見てたら、したくなっちゃったんだもん」

 キュートはぺろっと舌を出し、悪戯が大成功とばかりに微笑む。

(こんな可愛い女の子、やっぱり妹じゃない……!)

 もちろん、ここは大勢のお客さんがいるプールであって。

 間近でキスを目撃したらしい陽菜と恵菜が、顔を真っ赤にして抗議してくる。

「おおっお兄さん先輩! キュートさんと何やってますの?」

「エナたちにはあれだけ仰っておいて、人前で堂々と……し、信じられませんわ!」

「ま、待って? 今のはキュートが……」

 『僕』はうろたえるも、懲りない妹は得意満面に。

「お兄ちゃん、だぁーい好きっ!」

 こうしてプロデューサーのキス争奪戦は幕を閉じることとなる。

 ……え? この後のこと?

 SHINYの隠しボスたちが大激怒に決まってるじゃないですか、やだー。 


                  ☆


 靴を舐めるような心境で『ほっぺにチュー』を山ほど繰り返し、SHINYのメンバーにやっと許してもらえたのも、一昨日のこと。

 日曜を挟んで、またSHINYの新しい一週間が始まる。

 その朝もぬいぐるみに変身して、『僕』はメンバーに発破を掛けた。

「いよいよ今週はファーストアルバムの収録だネ! みんな、頑張ろう!」

「とーぜん! リオナに任せてっ!」

 センターの里緒奈がウインクで気取る。

 菜々留や恋姫も期待に胸を膨らませている様子で。

「巽さんのおかげでナナルたち、随分と上達したものねえ」

「早くファンのみんなに聴いて欲しいわ。レベルアップしたSHINYの歌を」

 美香留が朝ご飯の締めに牛乳を流し込む。

「よぉーし! ミカルちゃんも頑張って、おにぃにキスしてもらおーっと」

 メイドの陽菜がむっとした。

「お兄さん先輩? ヒナも順番待ちなんですけど……」

「そ、それより陽菜ちゃんも制服に着替えて」

 朝の時間が気になってくるタイミングで、ケータイが鳴りだす。

『今日はKNIGHTSの仕事だ、遅れるんじゃないぞ? お兄ちゃま』

『易鳥ちゃん! イクノちゃんもにぃにぃに挨拶したいデス』

『そんなわけだから、またあとでね。あにくん』

 向こうで易鳥、郁乃、依織と慌ただしく声の主が変わり、電話は切れた。

 里緒奈たちの視線が冷ややかになる。

「朝っぱらからおアツいわねー、お兄様。幼馴染みは特別ってわけ?」

「み、みんな特別だよ。特別」

 プロデューサーの『僕』がそう主張したところで、疑惑は晴れない。

 何しろ一昨日は白昼堂々、プールのど真中でキュートとキスをしたのだから。

「夏休みはナナルともキスよ? お兄たま」

「ちゃ、ちゃんとムードとか考えてくださいね? お兄さん」

 今なお『僕』の唇は狙われているゥ……?

 マネージャーが物静かにノートパソコンを畳む。 

「兄さんがどこの誰とキスしようと、ミクには関係ないことだわ。それより兄さん、女子校ライフにウツツを抜かしてないで、プロデューサーの仕事をして」

「う、うん……」

 ぼんやりと応じつつ、『僕』はその唇を眺めていた。

 土曜のプールで『僕』とキスを交わしたはずの、妹の――。

 にもかかわらず、美玖は今朝もご機嫌斜め。

「何よ? いやらしい目でミクのこと見て……いい加減、気色悪いんだけど」

「きしょっ? そ、そこまで言うの?」

「これでも我慢してるほうよ? ミクは。兄さんの変態ぶりに」

 どんなにキュート(妹)と仲良くなったところで、美玖(妹)との溝は深い。

(なんか僕ばかり気にしちゃってるなあ。キスのこと……)

 この妹と、今年の夏は何か進展があるだろうか。

 あって欲しいような、あって欲しくないような……優柔不断な『僕』はSHINYのメンバーとの関係にもヤキモキしながら、プロデューサーとして夏に挑む。

 SHINYが輝くステージを目指して。

「あれれ? 美玖、パンツが見えちゃってるぞ?」

「死ね!」

「んぶっびゃらぶ!」

 眩しい未来を掴むために。

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