第355話

(今ので大分、空気は変えられたか……)

 里緒奈たちはすっかり出鼻を挫かれたようで、おとなしくなっていた。

 『僕』の貞操を狙っているらしいが、あとは入浴さえ無難にクリアすれば、添い寝などという地雷も回避できるだろう。

 しかし入浴中こそ、もっとも危険だった。

 裸ではろくに抵抗できず、主導権を奪われるのみ。

 かといって自宅の風呂に行っては、それこそアグレッシヴな実妹(キュート)とふたりきり。結末はバッドエンド確定の血縁ルートまっしぐらとなる。

 安全かつ確実に切り抜けるなら、ぬいぐるみに変身することだが……。

 この手の思考に慣れたらしい頭が妙案を閃く。

「ごめんね? 陽菜ちゃん。こんなに遅くなっちゃって。あとで家まで送るよ」

「あ、はい。ありがとうございますの」

 脱出の手段は残されていたのだ。

 里緒奈たちもこの展開は考えていなかったのか、唖然とする。

「ええっと……そ、そうよね? こんな時間だし……」

「美玖ちゃんのお家まではゲートで直行できても、そこから陽菜ちゃんのお家まで、少し歩かないといけないものね」

 そもそもこの夕飯も陽菜が作ってくれたもの。材料の買い出しから全部、陽菜に頼りっ放しのため、里緒奈たちも彼女をないがしろにはできなかった。

「続きはお兄さんが帰ってきてから……ですね」

「え~っ? きゅーと、今夜はお兄ちゃんとずっと一緒がいいのにぃ」

 可愛い妹の駄々に後ろ髪を引かれるも、『僕』はオムライスを平らげ、席を立つ。

「みんなは先にお風呂入っててよ。それじゃ行こうか、陽菜ちゃん」

「はいですの」

「早く戻ってきてね? おにぃ」

 懐っこい美香留には悪いが、そのつもりはなかった。

 マーベラスプロで適当に時間を潰し、さらにぬいぐるみに変身して寮に帰れば、完璧。『僕』の貞操狙いのメイド戦線を有耶無耶にして、明日を迎えられる。

(お風呂でニャンニャンもなくなっちゃうけど……これから大事な時期だもんな)

 間もなく陽菜が着替えを済ませて、『僕』と合流した。

「お待たせしましたの」

「別にエプロンだけでいいよ? メイド服に着替えるの、面倒でしょ」

「いいえ。ヒナ、あの服が好きですから」

 そしてゲートの空間転移を経て、こちらの世界の実家へ。

「夏休みの旅行は期待しててよ。ビーチも貸し切りだし。泊まるところも、母さんと易鳥ちゃんのコネで、お城のお部屋を貸してもらえるんだ」

「お城って本当ですの? うふふ、ならメイド服も持っていきますね、ヒナ」

「あー、いいかも。本場のメイドさんごっこができるよ、それ」

 夏の夜も八時を過ぎると、とっぷりと陽が暮れていた。

 『僕』は陽菜を家まで送り、ついでに彼女のママさんにもご挨拶。

「芸能プロダクションでお仕事されてるかたなんですってね? 娘たちがお世話になっております! わざわざ送っていただいて……」

「ち、ちょっとママ? お兄さん先輩はお忙しいんだから、あんまり……」

 SHINYのメンバーには遠慮がちな陽菜も、母親には強気でいられるらしい。

「今後とも陽菜をよろしくお願いします」

「こちらこそ。では、僕はこれで」

 顔立ちの似た母娘を微笑ましく思いつつ、『僕』は帰路につく。

(そうだなあ……じゃあ、マーベラスプロで明日の準備でも)

 ところがシャイニー号を呼ぼうとした、その時だった。

 不意に街灯が消え、赤みがかった月だけが不気味な輝きを放つ。ひとの気配が消え、異質な空気の中に『僕』だけが取り残される。

「な、なんだ? このプレッシャーは」

 全身が総毛立った。

 闇夜の暗がりを抜け、何かが近づいてくる。それは2メートルにも迫る人影。

「見つけたぞ。貴様か? SHINYとヌッポリしとるのは」

「え……ぬっぽり?」

 言葉の意味はわからないが、とにかくものすごい殺気だ。

 魔人の剛腕が『僕』を捕えようとする。

「貴様の身体に残った、JKアイドルの感触……許すまじ! そんなもの、オレのギャランドゥで上書きしてくれるわっ!」

「うわ――うわああああッ!」

 そのあとのことは憶えていない。

 幸いにして、反射的に身体が動いてくれたのだろう。『僕』は魔法も使いながら、夜道を一直線に駆け抜け、どうにか魔人の追跡を振りきる。

 昼間にマーベラスプロで見かけた、あの大男だ。

 『僕』は命からがら寮へ辿り着き、水平に近いダイブで玄関へ飛び込む。

「ただいまぁあーーー!」

 夕飯の片付けをしていたらしい里緒奈が、ぎょっとした。

「ど、どうして外から帰ってくるのよ? お兄様」

「そうだね……なんでゲートを使わなかったんだろーね……」

 まだ心臓がバクバクと鳴っている。

 毛深いマッチョにギャランドゥを擦りつけられそうになりました、などと訴えたところで、信じてもらえるはずがなかった。

(な、なるほど……刹那さんの言う通りだ。セクハラの抑止力として効果的すぎるぞ)

 去年の暮れにイケメン声優が、浮気が発覚するや大慌てで活動休止を発表したのも、アラハムキの制裁によるものかもしれない。

 夜とはいえ夏場の屋外を走ってきたせいで、汗びっしょりだ。

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