第312話
その夜、久しぶりに『僕』はマギシュヴェルトの母親に連絡を取る。
部屋の鏡に鮮明なビジョンが浮かびあがった。
向こうはカントリー調の喫茶店で、利発そうな女性がカウンターに肘をついている。
『どうしたの? アンタのほうから連絡してくるなんて。しかも旦那直伝の変身を解いてるなんて、珍しいじゃない』
「今夜は母さんに聞きたいことがあって……」
『今夜……って、こっちはお昼時なのよ? まったく』
マギシュヴェルトは地球の経度でいうなら、ちょうど英国のラインにあるのだとか。そのため、こちらとは8時間ほどの時差があった。
『手短に話しなさい』
「はあ……」
父親と出会わなければ、どこぞの企業で敏腕を振るっていたに違いない。聡明で、度胸と決断力を持ちあわせており、息子の『僕』でもカリスマを感じることが多々ある。
この母、瑠璃家(るりいえ)はこちらの世界に住む普通の女性だった。
ところが高校生の頃、マギシュヴェルト出身の父親に見初められて、半ば強引にマギシュヴェルトへ連れていかれて……やむを得ず結婚。
その際に報復として、色々と条件をつけたそうで、父親は母の前でしか変身を解いてはならないことになっている。
(父さんって、豆を挽いてるぬいぐるみのイメージだなあ……)
しかし父親をサンドバッグにする以外は、至ってまともな母親だった。
『僕』や美玖にテーブルマナーを叩き込んだのも、筆文字を練習させたのも、母の教育方針によるもの。
非常識な父に散々振りまわされただけに、その人間性は信用できる。
まかり間違っても、下ネタを口にするようなひとではなかった。
そのはずが、最近はエロ枕やらエロ香水やらを送ってくるわ、幼馴染みの易鳥にはラブホテルなんぞを教えるわ。
「母さん、まさか……魔太后が入れ替わってるとか、ないよね?」
『ファンタジー編は放ったらかしでしょうが』
ビジョンの中の母をまっすぐに見据え、問いただす。
「ここ最近の母さん、変だぞ? 僕に何か隠し事してるんじゃないの?」
母は悪びれもせず即答した。
『まあ隠し事と言えなくもない……かしら。アンタも頭が働くようになったのね』
「その隠し事について話して欲しいんだけど」
『それは無理』
しかし内容に関しては取りつく島もない反応で。
(どうやって攻めたら、このひとは口を割るんだろ……)
母親と相対するには準備が足りないことを、今になって痛感する。
ただ、母は少しだけ教えてくれた。
『父さんと結婚する時に私が提示した、条件のひとつなのよ、それ。そのためにアンタに修行させてるし、美玖にも手伝わせてるの』
頭の中で疑惑が膨らむ。
(あれ? 美玖が手伝ってくれてるのは、友達がアイドルになったからじゃ……)
二年ほど前、『僕』は妹ではなく妹の友達をスカウトした。それがきっかけとなって、美玖はマネージャーとして『僕』のサポートを始めている。
けれども、それも母の采配だったとしたら?
「母さんは何を考えてるのさ?」
「さあ? 今はまだアンタが知る必要のないことだから」
この修行には母の思惑が絡んでいる――そう『僕』は腹の中で確信した。
不意にノックの音がする。
「ご主人様、いらっしゃいますの?」
「陽菜ちゃん? まだ帰ってなかったんだ?」
メイドの陽菜が静かに扉を開け、入ってきた。
丁寧に折りたたまれた洗濯物を部屋の隅に置き、お辞儀する。
「洗濯物が乾いておりますので、どうぞ」
「ありがとう。何から何まで助かってるよ、ほんと」
ビジョンの向こうで母親が感嘆の息を漏らした。
『美玖が言ってたメイドね。アンタ、その子とも一緒にお風呂入ってるの?』
「――いいっ?」
口から心臓が飛び出しそうになる。
「ちょっ、母さん? ま、まさか……お風呂のこと知って……?」
『当たり前じゃない。里緒奈ちゃんたちから聞いてるもの。えぇと……スクール水着を着てもらって? ス○タとテ○キ?』
「あんた絶対、僕の母さんじゃないだろ!」
反射的に『僕』は前のめりのポーズで異議を申し立てた。
メイドの陽菜は口元を押さえ、頬を染める。
「ご、ご主人様ったら……道理で毎晩、ご入浴が長いと……」
「待って? 陽菜ちゃん。僕がお風呂に入る時間帯には、もう帰ってるよね?」
さすがに母親に情事が筒抜けでは、居たたまれなかった。純真無垢なメイドにまで知られ、『僕』は後ろめたさに腰が引ける。
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