第281話

 充実のボーカルレッスンを経て、メンバーのテンションも上向いている。

「ん~っ! 巽さんの指導って、マーベラスプロでやるのと全然違うって思わない?」

「今日だけで相当の収穫があったわね。レンキにとっても、みんなにとっても」

 夕飯のあともお風呂の順番を待ちながら、練習の話で盛りあがった。

「ファーストアルバムのレコーディングまで、まだ一ヶ月もあるんでしょう? この調子なら、ナナルたち、すごくレベルアップしてるんじゃないかしら」

「でもミカルちゃん、ほんとにゲームなんかやってていいの? おにぃ」

「巽Pの指示だからね。頑張って」

 美香留本人は半信半疑とはいえ、すでに『僕』のほうでゲームも調達している。

 数ヶ月ぶりに居間のゲーム機に電源が入った。

「そういや恋姫ちゃん、あんまり遊んでないっぽいね。『ムーンライト・ロマンス』」

「た、タイトルを口に出さないでくださいっ! 恥ずかしいんですから!」

 お風呂から上がってきたばかりの恋姫が、いきなり声を荒らげる。

「みんな一緒のリビングで乙女ゲーは、ちょっとねー。ひひひ」

「次はナナルがいただくわね、お風呂」

 そして菜々留が居間を出ていくとともに、妹の美玖が戻ってきた。自宅のほうで入浴を済ませたようで、バスタオルを頭に被っている。

「兄さんも家のお風呂使ったら? こっちは混むんだし」

 その視線がちらっと里緒奈の横顔に差し掛かった。

「兄さん待ちでスタンバイされても……ね」

「ギクッ」

 今さらのように『僕』ははっとする。

 すっかり毎晩のことになってしまったが、プロデューサーの『僕』はお風呂でアイドルたちに背中を流してもらっているわけで。いやはや慣れとは恐ろしい。

「今夜はリオナの番なのに……」

「誰の番でもないでしょ? 常識で考えなさいったら」

 しかし先日、寮と実家をゲートで繋げたのだから、『僕』は実家でお風呂を済ませることが可能となった。

「じゃあ、僕もそっちで入ろうかな」

 そのつもりで席を立つと、

「えっ?」

 恋姫が制止でもするように口を挟む。

「P君は今まで通り、こっちのお風呂でも別に……そ、そうです! レンキたちが浸かったお湯、飲みたくないんですか? 飲みたいですよね?」

「飲まないってば!」

 相変わらずの罵倒に『僕』の心は挫けそうだ。

 里緒奈が楽しげに言い換える。

「そーじゃないのよ、恋姫ちゃん。Pクンはね、今夜は美玖ちゃんの……妹の残り湯を楽しみたいわけ」

「ちょっ、里緒奈ちゃん? 何言ってんの?」

 嘘に決まっているのに、妹の美玖は『僕』に軽蔑の視線を憚らなかった。

「やっぱり兄さんはこっちで済ませてくれるかしら」

「傷ついた! 今の傷ついたぞ? 僕!」

「いいじゃん、おにぃ。美玖ちゃんなんか放っといて、ミカルちゃんと入ろー」

 ゲームを準備中の美香留を、里緒奈と恋姫がYの字で引っ張っていく。

「美香留ちゃん? 順番は守るって約束よねー?」

「え? えっ?」

「ちょっとこっちでお話しましょうか」

 まだ美香留に里緒奈と順番待ちなので、『僕』は実家のお風呂へ。

「それじゃ、ゲームもほどほどにね。おやすみ」

「へ? Pクン、今夜はリオナと恋人ごっこするんじゃ……」

 今度は里緒奈が恋姫と美香留に羽交い絞めにされ、リビングのソファーへ沈む。

「諦めなさい! 本っ当にあなたは抜け駆けばっかり!」

「そーそー! 里緒奈ちゃん、何でもかんでも一番乗りとか思ってるっしょ?」

「だから秘密にしておきたかったのよ! も~っ!」

 女の子同士でニャンニャン……変身中だったら、トキめいていたところだ。

(見境なしだもんなあ、いつも。この機会に気を引き締めないと)

 騒がしいリビングをあとにして、ゲートへ急ぐ。

 ところがその途中で、蹲っているお風呂あがりの菜々留を見掛けた。

 何やら右の足首を押さえ、顔をしかめている。

「菜々留ちゃん? 足、どうかした?」

「あ、Pくん。それが、どこかで捻っちゃったみたいで」

 本人にとってもいつの間にやら、という類の怪我らしかった。

「ボーカルレッスンで少しダンスをしたから、その時かもね」

「多分……でも、そんなに痛くないのよ? ちょっと気になるくらいだもの」

 菜々留はそう言うものの、怪我は怪我。

「じっとしてて」

 『僕』は一旦膝がつくまで屈み、両手でしっかりと彼女を抱えあげる。

 菜々留が大きく息を吸うとともに赤面した。

「おっおぉ、お兄たま?」

「部屋まで運ぶよ。菜々留ちゃんはそのままで、ね」

 お姫様抱っこというやつだ。

 マギシュヴェルトでは幼馴染みの易鳥に散々鍛えられたし、今もジムに通っているおかげで、多少なりとも腕力には自信がある。女の子ひとりくらいなら、軽いもの。

 『僕』の腕の中で、菜々留が祈るように両手を合わせる。

「お兄たまが、ナナルのために……抱っこ……お姫様みたいだわ……」

 つぶらな瞳が妙にきらきらしているような……?

「あの、お兄たま? もう少しだけナナルと、このままで……だめ、かしら?」

「え? もうお部屋の前だけど?」

「むぅー」

 なぜか拗ねられてしまった。

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