第279話

 そのタイミングで本日のコーチがやってきた。

「よう、シャイP。待たせちまったか?」

「おはようございます、巽P。みんなは今、着替えてるところで――」

「げっ!」

 不意に誰かが嫌そうな声をあげる。

 それは『僕』でもなければ、巽Pでもなく……研修生の舘林綾乃だった。

 巽Pが眼鏡越しに目を丸くする。

「おいおい、館林じゃねえか? 元気そうだな」

「ひ、雲雀さんも……お変わりがないようで」

「それよりお前、さっき『げっ』とか言わなかったか? なあ?」

 対する綾乃は、体裁が悪そうにあとずさった。

「おふたりは知り合いで?」

「おう。こいつ、去年までVCプロで働いてたんだよ。うちの社長は舘林の大学卒業に合わせて、採用する気満々だったんだが……本人はメジャー志望ってことでな」

「なるほど。巽Pの後輩なんですね」

 VCプロで実績を積んでからマーベラス芸能プロダクションで就職……といったところか。それだけ綾乃は要領のよい人物らしい。

「まさか雲雀さんと鉢合わせになるなんて……はあ」

「本人目の前にそれを言うか?」

 先輩・後輩という関係に不慣れな『僕』でも、その雰囲気でわかった。

 綾乃は巽Pに苦手意識を抱きながらも、VCプロで世話になったのだろう。ウマは合わないが感謝もしているので、無下にはできない――そんな空気だ。

 しかもVCプロのスカウトを蹴って、マーベラス芸能プロダクションを選んだわけで。なるべく会いたくはなかったはず。

 とりあえず先輩として、『僕』なりにフォローしておくことに。

「巽P、綾乃ちゃんと顔馴染みだってことは、SHINYのみんなには内緒にしておいてくれませんか? 綾乃ちゃんがやりにくくなっても、その……」

「そうだな。あいつらがいないうちに自己紹介は済ませた、ってことにしとくか」

 巽Pも後輩に意地悪せず、二つ返事で納得してくれた。

「シャイPに遠慮するこたぁねえぞ? 舘林。こいつは面倒くさがって、なあなあで済ませるようなタイプじゃねえから」

(褒められてるのかなあ? これ……)

 すると綾乃が、踏ん切りをつけたように『僕』に問いかける。

「シャイP、ひとつお願いしてもよろしいでしょうか」

「もちろんだよ。何?」

「できましたら、シャイPの手掛けた企画書など、まとめて見せて欲しいんですけど」

 正面の巽Pも相槌を打った。

「研修先の先輩が、MOMOKAを大成させて、SHINYもヒットさせてんだ。吸収できるもんは吸収しとかねえとなあ、おい」

 なるほど、と『僕』は心の中で舌を巻いた。

 綾乃は今、この先輩が味方してくれると読んだうえで、『僕』に要求したのだろう。また、同時に『僕』の気質を見極めようともしている。

 無論、返事は決まっていた。

「なら、あとで送るよ。参考になるかどうか、わからないけどね」

「ありがとうございます」

 新入社員とは思えない豪胆な笑みが、巽Pのものと被る。

 その巽Pが人間の『僕』を見詰め、首を傾げた。

「……ん? プロデューサー、お前、なんか変わったか?」

「えーと、少しイメチェンを……」

「へえ。んまあ、私がとやかく言うことでもねえか」

 『僕』が変身を解いたことで、認識阻害に齟齬が生じている。とはいえ影響は小さいようで、巽Pの関心も薄い。

「そうそう。お前の注文通り、KNIGHTSのほうにも斡旋しておいたからな」

「ありがとうございます。助かります」

「……KNIGHTSに? 何の話ですか?」

「ああ、スペシャリストの件でね。宍戸直子さんというかたに――」

「うげえっ!」

 まだ見ぬ宍戸直子という人物には、不安しかないが。

「巽さん、おはようございまーす!」

「お? 来たか」

 間もなくメンバーが集合し、練習が始まった。


 巽雲雀によるボーカルレッスンは『さすが』の一言だった。

 フルメンバーの全体練習を主軸としつつ、それぞれの弱点を個別に補っていく。

「菜々留、お前は声に張りが足りねえ。もう一声出す感じで行け」

「里緒奈は低音域が弱ぇな。今のも下げ過ぎだぞ」

 音楽を専門でやっているからこそ、アドバイスも適切かつ明快だ。

 中には突拍子のない助言も。

「美香留、お前は今日から音ゲーをやれ。『ディーヴァ・プロジェクト』っての、名前くらいは聞いたことあるだろ。あれを難易度ハードで、一通りクリアしてこい」

「え? ミカルちゃん、ゲームするのぉ?」

「リズム感の矯正になる。多分、そのほうが早い」

 巽Pを信じ、『僕』は一切口を挟まなかった。

「安定感があるのは恋姫か……。まずは里緒奈と菜々留、お前らを恋姫のレベルまで持っていく。パートデュエットだのの練習はあとまわしだ」

「は、はいっ!」

 レッスンに程よい緊張感が出てくる。

 メンバーごとに伸びしろを自覚できたようで、意識も高まりつつあった。最初のうちは気がそぞろだった新メンバーの美香留も、真剣な表情で練習に励む。

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