第219話

 そして不可解なのは、壁に立てかけられたゴム製のボート。

「ボート……というよりイカダ、かなあ?」

 遊泳場にあるのなら、まだわかる。小さな子どもが乗って遊ぶ分には、問題ない。

 しかし高校生が乗るにはサイズ的に無理があるうえ、そもそもここはお風呂だ。

「……いや、待てよ? あれって床に敷いて、体操に使うんじゃないか?」

 もっともらしい回答も浮かんだが、『僕』は首を傾げる。

「まっ、いいか。明日にでも聞けば……ん?」

 そのままお湯の中で寛いでいると、仕切り戸に人影が差し掛かった。

「お兄様、入ってるぅー?」

 今日は一番に入浴を済ませたはずの、里緒奈らしい。

「あー、うん。どうかしたの? 里緒奈ちゃん」

「んもう、決まってるじゃない」

 ところが里緒奈のシルエットが、無造作に服を脱ぎ始めて。

「りりっ……里緒奈ちゃん? ちょっと?」

 『僕』はぎょっとしつつ、彼女を真正面から目撃する。

「あはは。お兄様、びっくりした?」

 仕切り戸を開け、里緒奈は悪戯めいた笑みを浮かべた。『僕』がいるのに丸裸であるはずもなく、紺色のスクール水着(水泳部仕様)を着ている。

「驚かせないでよ……って、なんで入ってくるの?」

「だ・か・らぁ、今夜はリオナが、お兄様の背中を流してあげるってこと」

 里緒奈は躊躇いもなしにお湯を浴び、同じ湯舟の中へ身体を沈めてきた。ぬいぐるみの『僕』をひょいっと捕まえ、抱き寄せる。

 驚きはしたものの、『僕』は冷静に状況を受け入れた。

「ま、まあこの短い腕じゃ後ろまで洗えないし……それは助かるけど」

「でしょ? みんなと相談して、交替でってことに決まったの」

 菜々留や恋姫が了解済みらしいことにも、安堵する。

 いつぞやのように、何も里緒奈と秘密のソーププレイにしけこむわけではなかった。彼女にしても、お気に入りのぬいぐるみを洗うくらいの感覚のはず。

「シャンプーを間違えないでネ? 里緒奈ちゃん。僕のは端っこの、青いやつだから」

「え? それは髪を洗うやつでしょ。ボディソープはちゃんとこっちに……ね?」

 そのはずが、どうも会話が噛みあわない。

 ぬいぐるみの『僕』を抱き締めながら、里緒奈が囁いた。

「早く男の子に戻ってくんない? お兄様ぁ」

「……はい?」

「女の子がここまでしてるんだから、恥かかせないでってば」

 『僕』は緊張で声を上擦らせる。

「そ、それってつまり……その、こ、この間みたいなのをご所望……で?」

「そのためのスクール水着よ? わかってるくせにぃ」

 頭の中で、天使も悪魔も悲鳴をあげた。


   天使「いやいやいや! なんで? なんでそうなるの?」

   悪魔「こんなの絶対おかしいぜ? 気付け!」

   僕「気付いてるよ! これは……」


 一度は痛い目に遭っているだけに、恐怖さえする。

 里緒奈、菜々留、恋姫とお風呂でニャンニャンに耽った結果、三股交際のような関係に至ってしまったのは、つい先日のこと。

 『僕』はそれを深く反省し、男子の姿を自ら禁止としている。

 ところが里緒奈は今、異性としての『僕』とスキンシップを求めていた。ほかでもないその里緒奈が、正論を口にする。

「ほら……アイドルにとって、恋愛はご法度じゃない?」

「ソ、ソウダネ……」

 お風呂に浸かっているのに、肝が冷えた。

 SHINYのアイドルたちと一緒にお風呂などと発覚しようものなら、『僕』のプロデューサー人生もそれまで。マーベラスプロが許さないだろう。

「だから恋愛面で満たされない分は、Pクンが満たしてくれなくっちゃ」

「ちょっと待って意味がわからないんですが」

 カタコトの次は丁寧口調で『僕』は否定を続ける。

 それでも里緒奈は譲らなかった。

「菜々留ちゃんも、恋姫ちゃんも、お兄様とのお風呂デートは続けたいって言ってるの。だから……ね? 背中を流してあげるくらい、いいでしょ?」

 縋るように『僕』を抱き締め、本音を零す。

「お兄様にぎゅってされると、元気が出るんだもん」

「いや、背中を流すんでしょ? 後ろにいる相手をぎゅってするのは……む、無理じゃない、かな……?」

 心が揺れる――その自覚はあった。

 同時に情けなくもなる。彼女の弱気な震えが背中越しに伝わってきたからだ。

 ケアは万全のつもりだったが、どこかで無理をさせていたのかもしれない。アイドルと高校生の二重生活は負担も大きいはず。

 そのアイドル活動にしても、日に日にプレッシャーを増していた。

 今やSHINYはマーベラス芸能プロダクションを代表する人気アイドルグループとして、引っ張りだこだ。『僕』の魔法がなければ、気軽に買い物さえできないほどに。

 そんな彼女たちが『僕』に癒しを求めている――。

「で、でもこういうことは、いつか大切な相手のために……」

「お兄様がそれ言っちゃうわけ? お仕置き決定ね」

 必死に絞り出した説得の言葉も、一笑に付されてしまった。

「ほら……早くぅ」

 当然『僕』とて男子だ。水着姿の女の子に迫られれば、生唾も溜まるわけで。

(ごくり……)

 しかも相手は大人気の美少女アイドル。


   悪魔「菜々留や恋姫のお許しも出てんだろ? いいじゃねえか」

   天使「た、確かに……何も最後までやろうってわけでもないし……うん」


 だから天使、お前は反論しろと。

「じ、じゃあ……」

 期待と同等の罪悪感にも胸を高鳴らせつつ、『僕』は人間の姿に戻った。

 里緒奈は安心したように『僕』の背中に抱きつく。

「やっと会えたわね、本物のお兄様。少しだけ……このままでいさせて?」

「いいよ? えぇと、その……里緒奈ちゃんの好きなように」

 このあと、浴室の壁に立てかけられているボートの用途が判明した。

 これはソープマットという代物であって。

「リオナがいっぱいゴシゴシしたげる。動かないでね? お兄様……んっ、あふあぁ」

 スクール水着をスポンジ代わりにした、魅惑のソーププレイが始まる――。

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