第89話 僕らにできるたった一つのこと


「気分はどうだい、杏沙」


「全然、平気よ。むしろわくわくしてるくらい」


 七森博士の研究室に集まった僕らは、『身体を取り返す』作業の第一号となった杏沙の様子を隣の部屋からガラス越しに見つめていた。


「まず最初に、装置のチャンネルをお前の身体から『アップデーター』を吸いだす方向に開く。そして空になったお前の身体に、アンドロイド・ボディから吸い出した意識を注ぎ込む。いいね?」


「大丈夫、うまく一発で身体に戻ってみせるわ」


 気丈な杏沙の言葉に、七森博士は緊張した表情で頷いた。アンドロイドの杏沙は椅子に腰かけており、本物の杏沙はその脇にあるベッドに横たわっていた。二人の間には装置の乗った台があり、『球根』に当たる部分から二本のチューブが左右に伸びていた。


「では、始めよう。まずは本物の杏沙からだ」


 博士はそう言うと、ベッドの上に横たわっている杏沙の頭を軽く持ち上げ、チューリップ型の装置をすっぽりと被せた。


「本物の『身体』から『偽物』を吸い出した後、空の時間が長く続くと危険だ。同時に意識の入れ替えをしようと思うのだが、平気かな?」


「……いいわ。私のことなら心配しないで」


 博士は危険をともなう実験を行うことを、娘にためらうことなく告げた。


「わかった、では同時にやろう」


 博士はそう言うと、椅子に座っているアンドロイドの頭に『花』を被せた。


「七森……」


 僕は装置で顔を隠された杏沙を見て、何とも言いようのない不安を覚えた。


 博士がスイッチを入れ「開始!」と叫ぶと、二人の『杏沙』が同時にびくんと撥ねた。やがて二人は何かにあらがうように手足をばたつかせた後、ぐったりと動かなくなった。


「……杏沙、無事に戻ったのか?」


 博士が呼びかけても、ベッドの上の身体は一切、反応を示さなかった。


「――まさか、まだ『幽霊』の状態なのか?」


 博士は台の上の『球根』に顔を近づけると、「杏沙、早く元の身体に飛び込むんだ、聞こえるか、杏沙!」と叫んだ。


「――七森っ」


 たまらなくなった僕は研究室に駆けこむと、アンドロイドの頭を覆っている『花』を外して自分の頭を突っ込んだ。視界が闇に包まれた瞬間、僕の意識は掃除機で吸い取られるようにどこかへ運ばれていった。


                 ※


 ――七森……七森!


 闇の中を運ばれながら、僕は杏沙の名を叫び続けた。


 やがて闇がトンネル状の空間になり、目の前に黒い触手のような物と格闘している杏沙が姿を現した。


「七森!」


 僕が呼びかけると杏沙は顔をこちらに向け、「――真咲君!どうしてここへ」と叫んだ。


「なかなか身体に飛びこまないから、様子を見に来たんだ。何かトラブルが起きたのか?」


 僕が尋ねると、杏沙は「この人を……助けたいの」と言って黒い触手の方を見た。


「……この人?」


 杏沙が示す方に目を向けると触手に絡みつかれ、どこかへ運ばれようとしている小さな人間が見えた。人間は――杏沙だった。


「七森。そいつはもしかして、吸いだされた『アップデーター』じゃないのか?」


 僕が問いかけると、杏沙は「そうよ。……でも、今はもう侵略者じゃないわ」と答えた。


「侵略者じゃないって……そんなこと、どうしてわかるんだ?」


「うまく説明できないけど、私にはわかるの。……あの放送以来、この人はほとんど私と言っていいくらい同じ存在になったって。このまま放っておいたら、戻る身体のないこの人は装置の中で消えてしまうわ」


 杏沙の言葉に、僕は激しく動揺した。消えてしまう……『偽物』だったとはいえ、僕らにそんなことをする権利があるのだろうか?


「そんな……そいつを助けてどうしようっていうんだ。ひとつの身体で一緒に暮らそうっていうのか?」


「わからない……けど、仮にこの人が私の中にいたとしても、私はもう二度と誰かに乗っ取られたりはしないわ」


 杏沙はそう言うと、今までに見せたことがないような強いまなざしで僕を見返した。


「……わかった、手伝うよ。一緒に助けよう」


 僕はそう言うと、杏沙と力を合わせて『杏沙』を黒い触手からひきはがした。『杏沙』はトンネルの中で小さな身体を震わせると、心細げな顔を僕らに向けた。


「きっとこの先に、身体へ戻るための『入り口』があるはずだ。手前まで送っていくよ」


「ありがとう、真咲君」


 僕らは『杏沙』の手を取ると、これで良かったのかという迷いを抱えたまま、遠くにぼんやりと見える光の方へ進んでいった。 

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