第41話 世を忍ぶ逃亡者と雨の女神


「なあ七森」


「なに?」


「脱出できたのはいいけどさ、これからどうするつもりなんだ?」


 僕の問いに、バギーを運転する杏沙は硬い横顔のまま「わからないわ」と言った。


「少なくともこの『ジェル』の身体じゃ五瀬さんの救出は無理ね。ちゃんとした『人間の』身体を手にいれないと」


「アンドロイドのことかい?無茶だよ、僕らだけでアンドロイドの身体に乗り込むなんて」


「じゃあ真咲君はこの街が……ううん、全人類が奴らに乗っ取られてもいいって言うの?」


「そんなこといってないだろ」


「危険なことぐらいわかってる、でもそれしかないのよ。ほかに方法があるなら教えて」


 杏沙は強い口調で言うと、それきり口を閉ざした。研究所の敷地を出て数分ほど経つと空が暗くなり、やがてバギーの表面にぽつぽつと水滴がつき始めた。


「雨か、ちょうどいいや。シャワーの代わりだ」


「呑気なものね。いいことばかりじゃないわよ」


「どうしてさ、干からびるよりいいだろ」


「このまま雨脚が強くなったら体積が増えて、運転席からはみだしちゃうわ」


 そういうことか、と僕は納得した。この身体は人間と違って水分を勝手に吸収してしまうのだ。


「……ちぇっ、『ジェル』もいいことばかりじゃないな」


「人間だってそうでしょ。大体あなた、文句が多すぎよ」


 君だってやけにつんけんしてるじゃないか、そう言おうかと思ったが、ろくなことにならない気がして僕は口をつぐんだ。


 しばらくするとなんとなく助手席が狭く感じられるようになり、身じろぎをした僕は脇腹のあたり(そんなものがあるとしてだが)が、ドアの外にはみ出しそうになっていることに気づいた。


「やばいよ七森、雨のせいで身体が大きくなってる」


「わかってるわよ、それくらい。……仕方ない、どこかに車を停めて雨をしのぎましょう。ブレーキも踏めなくなったら目も当てられないわ」


 杏沙はそう言うとハンドルを切って歩道に乗り上げ、街路樹の下でバギーを停めた。


「普通なら雨宿りって場所じゃないけど、このサイズならここで十分だわ」


 杏沙がそう言って少しかさの増した身体を伸ばした、その時だった。坂道を上ってきた一台の軽自動車がハンドルを切り損ねて歩道に乗り上げ、そのあおりで僕らはバギーごと横倒しになった。


 僕と杏沙は車体から放り出され、歩道の上に烏に荒らされたごみ袋みたいに転がった。


「痛てて……大丈夫か七森」


「私は大丈夫……それよりバギーを元に戻さなきゃ」


 僕の呼びかけに、少し離れた場所で身体を起こしている杏沙が気丈に答えた。


 僕が歩道の上を這うようにしてバギーのところまで戻ると、ふいに背後から杏沙の「隠れて、真咲君!」という声が飛んできた。


「隠れる?どうしてだい」


 僕が聞き返すと、遅れてきた杏沙が「あそこを見て。こっちに来るわ」と言った。杏沙の示した方に視線を向けると、少し先に停まった車両から人影がやって来るのが見えた。


 僕らが慌ててバギーの陰に身を潜めると、足音が徐々に大きくなりすぐ近くで止まった。


「……これって、五瀬教授が休息の時に遊んでた玩具だわ。どうしてこんなところに……」


 いきなり五瀬さんの名が飛びだし、僕は思わずバギーの陰から顔を覗かせた。不審そうにバギーを見下ろしているのは以前、一度だけ会ったことのある女性――四家さんだった。


「えっ?……まさか『ジェル』?そんな、自分の意思で動いてるの?……信じられない」


 四家さんは驚きの表情を浮かべたまま、身をかがめて僕らの方に手を伸ばそうとした。


「――待ってください、四家さん」


 おもむろに声を発したのは、杏沙だった。


「……今、私の名前を呼んだ?」


 四家さんの目が見開かれ、警戒するように動作がぴたりと止まった。


「お願いです、私たちに手を貸して下さい。研究所が『アップデーター』たちに乗っ取られて、五瀬さんが閉じ込められてしまったんです」


「あなたは……誰?」


「七森杏沙。……こんな身体ですが、人間です」


「七森?……まさか、あの七森博士の身内の方?」


 四家さんは眼鏡の奥の瞳をこれ以上はないというほど見開き、杏沙に問いかけた。


「そうです、娘です。私の身体は『アップデーター』に乗っ取られました。今、動きまわっているのは『偽物』で、本物の七森杏沙はこの『ジェル』の方です」


「……驚いたわ。どうやら私の知らない間にとんでもない事が起こっていたようね」


 四家さんは目を閉じて頭を左右に振り、杏沙に「お願い、詳しく話して」と語りかけた。

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