第12話
「俺に何か用か」
佐々木の殿様といわれた男は、ゆっくり振り返って、房総の笹次郎を虫けらでも見るような視線を向けて訊ねた。
全く感情の籠らない声色だったが、放たれる殺気は尋常一様ではない。
わずかでも隙を見せたら殺される。
笹次郎は背中に冷たい汗が流れた。
笹次郎は十手を持っていなかった。
十手は奉行所で認められた時しか持ち出せない。
特に今日は、香具師の大親分・浅草の矢九郎の賭場に出入りするのが分かっていたので、余計なモノは持たないでいた。
だから武器は懐に飲んでいる匕首だけだ。
武士の扱う大刀と、笹次郎の使う匕首ではまったく勝負にならない。
だから上着を振りまわして対抗する覚悟でいた。
だが最初から舌戦で負ける気もなかった。
少しでも言い負かして、切り合いを有利にしたかった。
「はい、先ほど軍鶏くらべの時にお顔を拝見したのですが、あまりに凄まじい殺気を放たれておられるので、何かの折に仕事を頼もうと思いまして、失礼ながら後をつけさせていただきました」
「ほう、お前は殺し屋の一味だと言うのか?
浅草の矢九郎に隠れてそのような事をして、ただですむと思っているのか?」
何の感情も籠っていたに、全く人情味のない声色だった。
笹次郎が殺し屋の手先だと匂わせても、驚きもしなければ興味も持たない。
それどころか、平然と浅草の矢九郎が人殺しの元締めであり、自分が頼まれて人殺しを行っている事すら認める。
もしこんな事を言ったと浅草の矢九郎に知れたら、大身の旗本でも命はない。
だからといって、直ぐに笹次郎の口を封じようともしない。
もう自分の命にすら、興味を失っているのかもしれない。
そう思ってほんの少し気を緩めた笹次郎に、佐々木の抜き打ちが襲いかかった。
恐ろしいほどの素早さ、抜く手も見せずとはこのような抜き打ちのことだろう。
普通なら、そのまま一刀のもとに斬り殺されている。
それほど凄まじい抜き打ちだった。
だが笹次郎には用心があった。
いや、いい加減に見えて面倒見のいい南町奉行所同心の柳川廉太郎が、口が酸っぱくなるほど、耳にたこができるほど、繰り返し用心を言い聞かせていた。
今回はそれが幸いした。
上着を脱ぐことも匕首を抜く事もできなかった笹次郎だが、右の脇腹に仕込んでおいた鉄板と金網のお陰で、強打は受けたものの、斬られる事はなかった。
一方佐々木は初めて虚を突かれて驚くの表情を浮かべてしまった。
人間の身体を斬るつもりで、斬る場所と呼吸を図って力を入れていたのに、ほんの少し前で想像外の堅い物を斬ってしまった。
その所為で大きく刀を損なってしまった。
その驚きと失敗が、笹次郎に逃げる機会を与えてしまった。
佐々木が二の太刀を振るう前に、目潰しを叩きつけた笹次郎は、眼潰せの効果も確認せず、脱兎の如く逃げていた。
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