第5話 終了

「じゃあ、今日のテストのやり直しきちんとしておいて。また明日。」

「了解です」

 時刻は午後七時を回った。四時半から始めた家庭教師モナカせんせーの指導は二時間半で幕を閉じた。契約では『二時間から三時間』と母に聞かされていたので妥当な時間ではあった。

 玄関にある小窓からは先の見えない一色の闇があった。冬の日の入りは早いのである。これからだんだんと遅くなっていくらしいが、正確に何時とかは知らなくていいことなので今後おぼえることもないのだろう。

「真中せんせーは門限とかないの?」

「うちはそういうの無いかな。弟が早く帰ってこないとごはんが出てこないってうるさいけどね。」

 今気づいたけど大分わたしたちの距離は縮まったようだ。モナカせんせーの表情も夕方とは大違い。頬も温かさに弛緩している。これが外に出た瞬間に縮こまってしまうのがもったいない。

 あとモナカせんせーには弟さんがいるのか。うちにはそういうのいないから少し羨ましい。中学校の頃同じ話した気がする。誰だったかは忘れたけど、その時は『いない方がお得だ。食べるケーキが大きくなるじゃないか。甘党代表のこのあたしにちっちゃいケーキなんて断固拒否だー。』と言われた、気がする。実際そんな性格の人がいたなら覚えていてもいいのに。わたしの脳の処理能力の良し悪しがわからん。

 わたしたちは次の言葉のキャッチボールをどちらが投げるか悩んだしばし無言だった。やはり距離が一日でそんなに縮まることはないのだろう。これから地道に詰めていけばいいのだ。

 そんな二人を見かねたか、運命の神様はこの場に刺客を差し向けた。モナカせんせー背後の扉に鍵を差し込む音が聞こえる。そうして上から順に鍵を開けていく。こうやって歯切れのよい鍵開けから空き巣とかの類ではないことが分かった。というか時間帯からして……。

「たっだいまー」

 元気よく扉を開ける女性は年よりひと際若く見え、その外見相まってか精神年齢も若返っているようだった。母の帰宅。スーツ姿のキャリアウーマン。どこで働いているかは覚えていない。たしか洋食屋? だった気がする。じゃあ、なんでスーツ?

母の性格は明るい。この家で一番精神年齢は子供じゃないかと最近疑ってしまうほどに。若作りではあるが、もう四十超えてしまっている。それでも痛さを子供であるわたししか感じないのはなんでだろうか。

 背後からの先制挨拶に思わず飛びずさったモナカせんせーはその状況をどう捉えたのか、今は落ち着いている。

「お、お久しぶりです。」

「あれ、モナカちゃん? 今帰り?」

「あ、はい。」

 そうか、二人は最初にあっているんだったなと今頃になって理解。申し込んだときにあっているのだ。あと、母の『モナカちゃん』は公認なのか。親子というのは思考が似るからびっくりだ。わたしも将来こんな感じになるのかな。見た目は大分うれしいが思考能力が低下しそうで選択を迫られる。

 二人はそれらしい教師と保護者の会話をしている。主に一方的な質問合戦だが。

 今頃モナカ弟は家の食卓で姉の帰りを待ち侘びているのだろうか。そう考えるといたたまれない気持ちになった。ただでさえわたしの家庭教師で姉の時間を取っているのに、これ以上モナカ弟のストレスをためてはいけない。

 だからわたしは手っ取り早く母を奥に退避させることにした。

「玄関で止まらないで、早く入ったら?」

 わたしの提案に「あと五分」と寝ぼけた朝のような返しで応じる母。

 これで動かないことがはっきりとわかったので、わたしは母の背後に回り込む。そうして背中を押しつつ「まってえー」手近なリビングの扉に「モナカちゃーん」押し込んだ「またねー」。

 リビングの扉は閉めなかったが、母は出てこなかった。多分夕食の準備をするのだろう。あんな母でも料理の腕はすさまじい。さすが洋食屋で働いているだけはある。推測だけど。

 とりあえずわたしも玄関に戻り、台風の過ぎ去った惨状を見る。モナカせんせーは少しお疲れなようだ。母は疲れを知らないから怖い。その場だけ時間が止まっているのかもしれない。

「お疲れ様です。」

「え、いや。全然。」

 顔は笑い、手がか弱く振られてモナカせんせーに否定される。本当にお疲れ様です。

「じゃあ、私は帰るね。しっかり小テストのやり直し、やってください。」

「うん。じゃあね、モナカせんせー。」

 わたしの『モナカせんせー』に若干顔をしかめながらも、モナカせんせーは扉に手をかける。開かれた世界は漆黒の闇に包まれ、その空気が肌をなでると皮膚は反応して小さく隆起する。

 外に出たモナカせんせーはもう一度振り返り、「また明日。」と言ってから帰り道に戻っていった。

 また明日、か。その明日というのはいつのことなのだろうか。学校? 家? 朝か放課後かも定かではないその言葉は不思議とわたしの心に響いていた。

 去りゆく背中に一言「また明日ね。」と投げかけてからわたしはゆっくりと閉まる玄関に追い打ちをかけて、寒さを遮断した。

 まだモナカせんせーの残したかすかな匂いと寒さが停滞するこの玄関は不思議と足をとどめさせた。わたしはまた新たなつながりを手に入れた。それはクラス一の優等生との出会い。そうしてそのつながりが三学期終わりまでの二か月の関係になるのか、その後も続くのか。その答えは将来のわたしに解答権を託し、わたしは一息ついた。たぶん心に残ったぬくもりの残滓を放出するためと勉強を久しぶりにした疲れだろう。そんな疲れも今は心地よく思えた。



 桜木の机の中にある一枚の紙がふいに開いた引き出しから、地面に落ちていった。その紙には二学期の期末考査の結果が記載されていた。誰もいないはずの部屋で動力を持ったその紙は地面で今までの桜木の姿を淡々と語っていた。

『あなたの今の順位

    ……216/ 240』

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