第3話 家庭教師指導
「どうぞどうぞ」
わたしは家に到着してためらいなく家の鍵を取り出し開けた。後ろでモナカさんは「やっぱり」と呟いていたがそこは聞き流した。
冬は外より家の中の方が温かい。マフラーを取る。朝、わたしが出てからずっと行き場を失い停滞を続けていた空気がわたしが扉を開けたとたんに移動を開始する。その空気の移動はモナカさんが家に入った途端に止められ、私の周りにぬるいぬくもりを与えてくれた。
わたしの家は両親共働きのため人はいない。いたら事件だ。女子高生二人でどうにかなる問題ではないし見つかったら人質に出もされそうだ。わたしには抵抗する力は残されているのだろうか。日頃運動しないインドアがわたしの隠された能力を阻害する。モナカさんは体育の成績もいいんじゃないかな。万が一はモナカさんに委ねよう。
わたしはリビングにある炬燵に一目散したい気持ちを抑え自室のある二階へと歩みを進めた。玄関で動けずにいたモナカさんも、とたとたと後をついてくる。いつの間にかマフラーがなくなっていた。カバンの中と推測。カバンから端が覗いていた。
学校とは少し違うモナカさんが見られてわたしは少し気持ちが高ぶっていた。この調子で仲良くなれればわたしも小学生の時に夢見た友達百人プロジェクトに一進できる。あれ、実証できた人いるのかな。世界は広いということにしておこう。今結論を急ぐことはない。
階段を登り切る。左に広がる通路は手前がわたしの部屋。奥が物置と化している。自転車とかは外の倉庫にあるが、使わなくなった母のダイエット用品が奥の部屋には山積みとなっている。
そのくせ、体は引き締まっている母は、何のためにあれを買ったのだろうか。謎だ。女性は形から入って磨きたいのかもしれない。わたしにもわかる時が来るのだろうか。
とりあえずモナカさんを物置に招待するつもりはないので、手前の部屋の扉に手をかける。うう、冬でちべたい。静電気が来ないだけましだな。
扉を開けると家の中に溜まった空気とはまた別のわたしに一番近いにおいがこちらにやってきた。わたしの部屋にはいつもの風景に加えて昨日持ってきておいた場違い感あふれる物置のちゃぶ台があった。
部屋は西側に窓があり、そこから冬に冷やされてしまった緋色の太陽が望めた。夏はまだあんなに威勢が良かったのに冬には負けるのか、太陽。今日はもう少しで睡眠に入るようだ。遠くの山にあと数センチで差し掛かりそうだ。距離感というのはまた面白いな。
その窓の下にはベッドがあり、爽やかな寒色のシーツと掛布団が敷いてある。夏用シーツに冬用掛布団とはここの家主は手抜きなことを、まあわたしですけど。
床には幾何学模様のカーペットが敷かれている。父が近くの骨董店で買い漁った物の中から頂いたもの。たしかタグに『柊千尋』と書いてあったのでその人が作ったのか、元の持ち主だろう。後者が優位だな。
窓の反対には普段私が使う学習机(と言っても昨日までは小物置き場だった)と本棚がある。
これがわたしの部屋です。紹介おしまい。わたしの後ろに立つモナカさんは部屋を何度も見まわしていた。そして「きれいにしてあるんだね」と感想をいただいた。おや、敬語じゃなくなっている。そう思うと「……ですね。」と付け加えられた。また顔を赤くする。よく色が変わるな。わたしなんてサウナに入った時くらいしか変わらないよ、多分。
部屋の入り口でどうこうできるわけもなく、わたしはちゃぶ台の向こう側へと移動した。そうして座り、モナカさんにも催促した。
催促して座布団がないことに気が付く。部屋の中に準備してなかったな。ベッドの上にあったクッションをそのまま手を伸ばしてとる。と、と、取れない。膝立になってから再度挑戦。今度はちゃんととれた。そのまま膝立を継続し、ちゃぶ台を回り道。モナカさんの座るはずの場所にセッティング。「どうぞどうぞ」と再び催促する。
「あ、うん。」
今度はモナカさんもすぐに座りに来る。あ、ちょっと。そのまま来たら……。
ゴン。
「痛っ」「いって」
わたしは前かがみの態勢でクッションを進め、モナカさんはそこに前傾姿勢で座ろうとする。すると必然頭の位置が近くなり、わたしの後頭部はモナカさんの前頭部にしっかりぶつかった。
わたしはとりあえず後ろ頭を押さえモナカさんを見る。おでこに手を当てたモナカさんがこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「うん、なんとか。」
痛いだけで血も出ていない。これだけのことでだめになる頭ではないということだ。でも勉強してないから元の頭の方は危ないのがまた辛い。
とりあえず聞かれたから聞き返してみる。
「だいじょうぶ?」
「た、たぶん。」
退けられた手の奥には赤くなった額があった。血ではなくただぶつけたから。わたしの後頭部も髪の下では赤くなった皮膚が見られるだろう。まあ、髪を剃りでもしない限り気づかないと思うので気にしない。
「ふふ、あははは」
なんとなく目の前でおでこを押さえるモナカさんがおかしく見えてわたしは笑っていた。それにつられてか、キョトンとしていたモナカさんも笑い始めた。なんと初めてみたモナカさんの笑顔はなんともまあ、可愛らしく見えた。今までお固い表情しか見たことがなかった。一年間うんともすんとも言わなかった優等生さんはわたしの部屋でこんなにも綺麗な顔をするんだなと素直に関心。でもそんなこともう一度振り返る間もなくして、わたしたちは二人笑っていた。何も考えずに。
あははという声が、げほげほという咳になるまで笑いつくしたわたしたちは我に返り、わたしは元いた場所に後ずさりし、モナカさんはちゃぶ台の上に持ってきたカバンから何やら白いファイルを取り出していた。
「それは?」
分からないことがあったら聞く。わたしが大事にする先生からの言葉だ。理由はこれから話していいですよという前ふりをしてあげるためというのは秘密だ。
モナカさんはファイルを開けプリントを一枚取り出した。ちゃぶ台に差し出されたそれは何やら文字がいっぱい書かれていた。文字をいっぱい見ると眠くなるのに。これからが不安になる。
「今日から家庭教師を務めます。真中です。よ、よろしく。」
唐突に自己紹介をされた。ということはやはりモナカさんが家庭教師であるのだ。いやはや家に招き入れてまでしておいて『違います』と言われてはわたしもきついので、それでいいのだが。うーん。わたしの中で灰色の靄が蜷局を巻く。クラスメイトが家庭教師なんて誰が想像つくものか。母にも『女の人の家庭教師が来るからね』と言われただけなのに。
わたしの成績は仲の良い二人にも秘密にしてある。徹底しているわけではないが、聞かれたら『まあまあかな』と答える。実際さじ加減によってはまあまあと言える位置だと思う。嘘ではない。
でも見られるのはやはり精神的にくるものがある。さらに優等生モナカさんだ。モナカさんはときどきわたしに対して鋭い眼光を向けているときがあった。
もしかして気に食わない相手だったりするのだろうか。不真面目さが引き金に? だとしたら仲良くする必要なんてないぞと言っておきたいが、たぶんないだろう。あんなに笑いあえば、なんとなく仲良くなれそうだとは思ったからだ。
まあ成績の件は後回しでまずはわたしも自己紹介といこう。
「今日から家庭教師に務められます。桜木です。よろしく。」
モナカさんの自己紹介文のモロパクリだが間違ったことは言っていない。考える手間は極力省くべし。確か数学の先生が言っていた気がする。
「ええーと桜木さん、でいいかな。」
「さん付けはやめよっか。桜木でいいと思うよ。」みんなそう呼ぶし。いや、桜木ちゃんもあるか。
「なら私も真中で。」
「了解です。真中せんせー」心ではモナカせんせー。駄菓子屋に売ってそうだけど人気はなさそうだな。
本人はまだ『せんせー』呼びになれない様子だけど、せっかくだし定着させよう。
このあとに説明でもあるのかなと思っていたが、モナカせんせーは動く様子なし。相手が動かなければわたしから動く。先手必勝。なんと勝負するつもりだ。一人漫才になり始めているのでそろそろやめよう。ツッコミの方を。
「で、これからどうするの。せんせー。」
「え、と今日はまずこれを解いてもらおうかなっと。」
白いファイルから今度は複数枚のプリントが出てくる。解くという動詞から問題集かテスト的なものだろうと推測。わたしは常に勉強姿勢でいるのだ、わっはっは。
ちゃぶ台に広げられたプリントは全部で五枚。国語、数学、理科、社会、英語の五教科分の小テストだった。問題は十問前後ですべてが可愛らしい字体であった。
「手書き?」
「うん、まあ。」
これはすごい。家庭教師がここまでするのだろうか、それともモナカせんせーの個人的配慮だろうか。後者だったらなんかお得感。でも、こんなに準備していて自分の勉強時間に支障はないのだろうか。とりあえずいつか聞いてみよう。
「じゃあ、説明するね。」
「お願いします。」
「これ、全部で五枚のテストを一枚二十五分で解いてもらいます。五分休憩を取りつつ私は採点をして最後解説までしてから今日はおしまい。大丈夫かな?」
「うん、苦は無いよ。頑張ります。」
小テストならすぐに終わらせられそうだ。なにしろ、問題が少ない。
「じゃあ、三十分になったら始めようか。」
わたしは背後の壁に付けられた丸い時計を見やる。今は四時半前をさして秒針がせっせと働いていた。秒針ばっかり頑張ってるけど、みんな見るのはのろのろ歩いている長針や短針だったりするから報われないよなー。社会にもそういう人がいる、とテレビで言っていた気がするが今は秒針のように勤しむべきだと床から立ち上がった。
そしてさっきまで背もたれ代わりにしていた棚を併設させる勉強机に向かう。椅子はコロコロの付いたものでからからと景気良く回る。その真ん中にわたしは体をうずめ机にプリントを広げる。
あれ、一枚足りないや。
振り向こうとしたとこに首元から白い手が伸びてきて机にプリントを残して去っていった。モナカさんの手であったが、いきなり来るとびっくりするな。白く細い指だった。少しだけ頬をこすった手からは優しいにおいがした気がした。
「ありがと。」とりあえず感謝。
「じゃあ、始めようか。」
「うん。」
あと三十秒で開始となる。わたしは机に端に追いやられていた鉛筆を手に取る。手におさまりが効かないのは日頃勉強しないからだろう。
これから頑張っていくことを決意したと同時にわたしは国語の小テストへと向かって走り出した(主に鉛筆がね)。
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