第三十一章 すべてが無に帰す

 翌日、クリスはジョージ親子と初めて朝食を一緒に取った。

 スクランブルエッグにベーコン、サラダにトースト、コンソメスープというメニューだった。

 自分はあまりレパートリーがない。

 ……ファランドに、やはり習おう。

 心は乙女の彼を見直さなければならない。そう思った。

 なんでもやりたがる年頃のルークは、卵を見て面白そうに笑った。

 それではと、ぐるぐる~と言いながら卵をかき回せてみた。

「ぼゆもやゆー」

 そう言うので、菜箸を持たせてジョージと一緒にかき回してもらった。

 体全体で、楽しい! を表現するルーク。

 キッチンは危ないのでジョージに抱いてもらいながら料理をする。

 トーストをオーブンに入れて、タイマーをジョージと一緒にセットする。

 なんでも面白いようだ。

 マメな男児になるかもしれない。それこそファランドみたいに。

 それはそれでいいのかとも思う。

 前に、おしゃべりはごっくんしてから! と言ったのを覚えていたらしい。

 ちゃんと飲み込んでから、あれこれ聞いてきていた。

「今日は、叔父さんも、しーちゃんもお仕事」

 それを聞いて、えーっと言う。

 ルークには本当の名前を教えたが、難しかったらしい。

 グレイシアを短縮して「シア」となり「しーちゃん」になった。

 「シア」の呼び方は、グラントの双子の愛娘も愛用している。

「しーちゃんが帰ってきたら、ご本一緒に読もう。好きな本、決めていてね」

 そんな話をしている間に、ベビーシッターがやってきた。

「じゃあね。行ってきます」

 そう挨拶して、二人は一緒にマンションの部屋を出た。


 ジョージが向かうのはナノエックスフリーダム社。

 クリスが向かうのはこのマンションにあるご近所の部屋。

 それを聞いて、ジョージは顔を顰めた。

「仕方ないでしょう? 私の本来の仕事場はここなんだもの」

 ビューのユニットの指揮所の前で言う。

「別に彼と二人きりではないわ。ほかに九人もいるのよ」

 その人数の多さに驚いた。

「だから、事務所みたいなものなの。いい?」

 昨日からの半日で、知らなかった面もまた見えてきた。

 どうもジョージは思っていたよりも嫉妬深いようなのだ。

「……わかったよ。今日は夕方にこちらに来るんだったな」

 会社へ来ることの確認だった。

「もう隠す必要はなくなったし、このマンションの賃貸の件とかいろいろあるから……」

「じゃあ、待っているよ」

 そう言うと、ジョージはクリスと別れ、車に乗り込むと会社へと向かった。


 それを見送って クリスは指揮所に入る。

「おはよう」

「おはようございます」

 声がかかる。

「状況はどうだ?」

 確認にかかる。部下に甘えっぱなしで任せてしまった。これは反省しなければならない。

「エストンとクラバートのユニットは、すでに引っ越しと称して荷物の撤去完了で、今は掃除状態ですね」

 あらららら……。

 動きが早い。こちらも見習わなければ。

「こちらもファランドのユニットはもう撤去にかかっています。我がユニットだけですね、まだ撤去にかかれないのは……」

 その言葉を聞いて、クリスから出たのはただ一言、「すまん」だった。

 ビューにはそれこそいろいろな面で苦労をかけている。

 公私共々「すまん」状態だった。

「救出された捜査官はどうだ?」

 まさに扉を挟んで生死の境目にいた二人。その後の様子はどうだろうか?

「興奮とショックが重なり合った状態で、今鎮静剤を打って落ち着かせて、医療キャリアで療養中です」

「あとで見舞おう」

 処理積みのデータを、クリスは目で追う。

「研究員たちはどうだ?」

 救助された六人の研究員。地獄を見続けた者たちだ。

「かなり酷いトラウマを受けています。精神崩壊しかかっている者もおりますし、前途多難と言わざるを得ません」

「そうか……」

 救出されたときのマンソンの様子を思い出す。

 あのマンソンが打ち砕かれていた。

 自分の持つ倫理観を根底から否定されたのだ。

 彼もまた、壊れる一歩手前だということがよくわかっていた。

「連邦の療養施設に入れるよう手配を頼む」

 クリスにはこう言うしかできなかった。


 クリスのチームスリーは順調に撤退作業に入っていた。

 そこに、グラントのからの通信が入る。

「お疲れ様です、グラント司令」

 それには片手を上げて答えてくれた。

「そちらの状況はいかがですか?」

「こっちかぁ? まあ、芋蔓式に次々獲物が掛かってくるよ。もう少し時間が必要だな。そっちはどうだ?」

「特許庁に特別司法省からの告発が入りました。内部調査が動かざるを得ないでしょう。管理不行き届きが別の上級官庁から示されたわけですから」

 そりゃそうだ、とグラントが笑う。

「それから、お願いというか、なんというか……」

 クリスは言葉を濁した。だが、グラントには何が言いたいのかわかっていた。

「おお、署名なら、してやるぞ」

 その言葉に破顔する。

「助かります」

 そう言ってしばらく双方の報告が続き、終了後は静かに通信を切った。


 クリスが言葉を濁したのは、サンザシアン星系、ウイグラス星系の連邦特別司法省の支局員の総入れ替えの提案だった。

 これについては、さすがに特別司法省も難色を示すだろう。

 そこで、司令二人の連名に基づいた書類を提出しようと考えたのだ。

 今回の件はどう考えてもお粗末すぎる。

 星系にある支部が正常に機能していたら、ここまでひどい状況にはならなかったはずだ。

 一体何人死んだのだろう。百人? 二百人? いや、もっと多いはずだ。

 都市の人口統計の通知が変わるほどの人々が、望まない実験台になり、死んでいったのだ。

 クレイフィルが選ばれたのは、単にグッズモンドから程よく離れていて隠れ蓑になるから。地元のグッズモンドで被験者を集めたら事件が露呈する可能性が高いから、別の都市が選ばれたに過ぎない。

 能天気に自分の手柄と誇っていた市長も、裏取引に関わっている可能性が出てきていた。

 ただし、この事件は公にならない。

 それを見越しての状況利用だったのかどうか……。

 だが、特別司法省としては見逃す気はない。何らかの対応をとり、責任を負わせることになるだろう。

 人の命はそんな軽いものではない。

 どのような状況であれ、人それぞれの、望む人生があるはずだ。

 それを根底から奪い去ることなど許される行為ではない。

 書類を作成しながら、クリスは悩む。

 もっと早く対応が出来ていたなら、もっと多くの人々を危険から遠ざけられたのではないか。こういえば思い上がりも甚だしいと言われるかもしれない。だが、と考えてしまうのである。

 思考の海に沈みかけたクリスを引っ張り上げたのは、ビューだった。

「人にはそれぞれ、できることと出来ないことがあります。そうご自分を責めなさいますな」

 自分を責めかけていたクリスを責める必要はないと言ったのだ。

「まったく、私にはもったいないほどの副官だよ」

 クリスはそんな彼の背中をポンと叩いた。


 クリス達チームスリーは、本部からの応援部隊が合流したため、大所帯になった。

 そこで、取り調べ等に関しては、本部から借り受けた航宙船内で行うことになった。

 ある取調室には一人の男が拘留されていた。

 メディブレックス社の役員である。

「この拘留は不当なものである。弁護士を呼べ。そもそも連邦特別司法省が私を勾留すること自体おかしいではないか。これ以上、私はしゃべらん」

 男は息まいていた。

 自分が何をしたのかとふんぞり返っている。

 クリスや司令補達はマジックミラー越しに男の態度を観察していた。

 このような態度のデカい男ほど、一度自分の論理が崩れると対応できず、こちらに飲まれやすい。

 それは、ジョージの父、フランク・ベルクもそうだった。

 男は「責任者を出せ、下っ端では話にならん」とわめいている。

「司令が直接話される必要はありません。私が対応します」

 そう言ったのは、クラバートだった。

「やってみます」

 そう言って、彼女は取調室に入って行った。

「貴様が責任者か?」

「責任者その一です」

 クラバートがにっこり笑った。

 その一言に噴き出すもの数名。

「その一?」

 疑問を呈した。

「一体、この組織に何人『責任者』が居ると思っているんですか? 貴方も会社の責任者の一人でしょう?」

 その言葉に、男はむっとした。

「中間管理職に用はない。責任者にしかしゃべらん」

 男はふんぞり返って腕組した。

「あら? 貴方もただの『中間管理職』だと認めたことになりますが、よろしいですか?」

 神経の逆なで方を心得ている。

 感情的な部分を刺激した。

「貴様のような女に用はない」

 クラバートは机に手をついてにっこりまた笑った。

「私が『男』なら対応が違ったと? 今時男女差別ですか? 貴方の会社もそれを推奨していたとは思えませんね。露骨に示したら、雇用均等法に違反しますし、本性隠すのが大変だったのでは? 家庭でもそのような態度を取られていますか? それならば、奥様はパートナーに対しての鏡ともいえるべき存在ですね」

 またにっこり。

 男は言葉もない。

 にこにこ、にこにこ。

 言葉なく男を見つめ、追い詰めていく。

「弁護士を呼べ、直接話す気はない」

 あくまでも強情だ。

 そこで、クラバートは一つ爆弾を落とすことにした。

「弁護士をつける権利は、貴方にはありませんよ」

 その言葉を聞いて、男は目をむいた。

「何馬鹿なことを言っている、弁護士をつける権利は法律で……」

「その権利を放棄していることに気づいていないのですか?」

 クラバートはあくまで冷静だった。

「あなたのもとに入って来ていた金、それはどこから入って来ていたものでしょうか?」

 静かに問いかける。

「私の懐に入っている金など……」

「無いとおっしゃる? 貴方の口座に仮想通貨が定期的に入金されていますね。その出どころを追うことなど簡単なのですよ。他星系からの金が貴方のもとに入った段階で、連邦案件に移ります。地元の捜査機関にコネがあったでしょうが、残念でしたね。貴方のコネは連邦の中央には届いていないようですから。それに、貴方は何の容疑で拘置されていると思うのですか?」

 ここで男の動作が止まった。

 自分の容疑? そんなものはない。

「さっさと開放しろ」

「そうはいきません。貴方は、マネーロンダリングによる収賄容疑と、会社の金を不正利用した背任容疑、五百六十四人の殺害に関与した容疑が掛かっているのですから」

 それを聞いて、男は呆然とした。

「な、なにをバカな……」

 男の顔は蒼白だ。

「何も知らないはずはありませんよね? サッサと白状した方が身のためではないですか?」

 クラバートはスーッと目を細めた。

「ここまでの容疑者は私も初めてです。凶悪犯人さん」

 その言葉に触発されて、男は言った。

「な、なにも証拠は残っていないはずだ。何を言っている!」

「残っていない『ハズ』ですか。何をもってそう言っているのでしょう?」

 ボロが出た。クリスはその状況をマジックミラー越しに見てそう思った。

「証拠を見せろ、証拠を」

 やけにこだわりますね、とはビューの発言だった。

 そこで、クラバートは「classified」と書かれたファイルを開いた。

「これが『証拠』です」

 そこに表示された画像を見て、男は込み上げる吐き気を押さえることが出来なかった。

 クラバートが差しだしたごみ箱に胃の内容物を吐き出す。

 あらあら……と言ったのはファランドだ。

 気の小さい男だったのかな? とはエストンの言葉だ。

「この状態でも意思の疎通ができる方が複数おりまして、情報を得たのですよ……」

 潜入捜査官の報告。それとほぼ同様の被害者たちとマンソンたち研究者の証言……。

「それがどう私とつながるのだ?」

「では、貴方はこの人たちのいた区画の『さらに奥』にある小部屋に入って過ごしていただきましょうか」

 彼女が意図するもの。それは……。

「私を『あんな部屋』に入れるつもりか! わ、私をあんな『虫けら』共と一緒にするな!」

 その言葉を聞いて、クリスは部屋のドアを勢いよく開けた。

 男に近づくと、襟元をぐいと掴み自分の顔に近づけた。

「虫けらか……人間を、彼らを、虫けらと呼ぶか! 彼らからすれば、お前の方が虫けらだ! いや、お前はその虫けら以下だ! それを味わってもらおうか。お前は、ヴェント星の重罪犯罪犯専用の刑務所に移送される。一生出ることはない。覚悟しておくことだな」

 クリスは言葉を吐き捨てた。

 なにをバカな! と相手の男は立ち上がった。

「法廷も開かれずに、決まるものか!」

「決まっているんだよ。お前の処分は……」

 男はまだ理解できていないらしい。

 クリスはそんな男を視界に入れるのも嫌だった。

「連邦加盟星系の住人に社会的に重大な問題と影響を与えると想定される場合、連邦特別司法官の司法判断において五名以上の合意があればそれを連邦司法判断とみなし、特別処置を行う。連邦特別司法執行法に規定されていることです。貴方の場合、八名の連邦特別司法官がその処分を妥当とし、署名している。覆りません」

 クラバートがあえて事務的に言った。

「私の権利はどうなる!」

 男が叫ぶ。

「貴方がこの事件にかかわった時から、その権利は消失しています。悪あがきは見苦しいですよ」

 クラバートはそう言うと、まるで汚らわしいと蔑むような眼で男を見下した。

二人の女捜査官はそのあと視界に男を入れずに、その部屋を後にした。


「あの男、自分が関与しています~って白状したことに気づいているのかしら?」

 ファランドが言った。

「気づいてもいないんだろうな」

 クリスがばっさり切った。

「クラバートが言った『さらに奥』にある小部屋、知っているのは関係者だけなのに……」

「まったくだ」

 ビューも同意する。

 クリスは自分の両手を見て、ぎゅっと握った。

 自分の手は、小さい、小さすぎる。

 彼女の心の内を想像して、司令補達は沈黙を守った。

 その握った手をじっと見て、しばらくすると握りこぶしを解いた。

「さて、サッサとこんな事件は片付けるぞ」

「了解」

 司令補達は、自分の部下たちの元へと散っていった。


 チーム司令の部屋に入って執務を取っていたクリスは、アラーム音に顔を上げた。

 その音とほぼ同時にビューが入室してきた。

「司令、そろそろ……」

「ああ、そうだな」

 航宙艦から地上へ一度降りなければならない。

 今回の件を後始末している部下たちの状態もみなければ……と、クリスの仕事は尽きなかった。

「シャトルで出るぞ」

 そう言って、クリスは先に立って艦の中を移動する。

 その後ろに付き従って、ビューははたと思った。

 ちょっと待て。

 誰が操縦するんだ?

 クリスは操縦士を手配しようとしたビューを振り返って見ると、サッサと来いというジェスチャーをしてシャトルの中に入ってしまった。

中に入ると……彼女は操縦席についている。

「し、司令?」

 ビューは声がひっくり返りそうになった。

「何だ? 私は操縦資格を持つ『航宙士』だということを忘れていないか? サッサと席に座ってくれ」

 わ、忘れていた……。

 これが正直なところだった。

 彼女は「法律家」でもあるが、その前に「航宙士」、船乗りだった。

「管制官、こちらは連邦航宙艦所属シャトル、RB-115、これよりグッズモンド中央宙港に向けて発艦する」

「こちらグッズモンド管制、RB-115、発艦を許可する」

 この声を受けて、クリスが操縦桿を動かした。

 ビューとしては、クリスが操縦するのを見るのは初めてだし、もちろんそのシャトルに乗るのも初めてだ。ビクビクものだった。

 それを感じて、クリスは笑う。

「一応、これでもアカデミーでは操縦法はトップで通過している。資格更新訓練も受けているから、そう恐れるな」

 惑星の防空衛星のすぐ脇を通る。これだけで悲鳴ものだ。

「大丈夫だって。ちゃんと管制の許可を取っているんだから。取ってなかったら、今頃撃墜されているさ」

 ビューの顔が引きつった。

 シャレにならない。

 クリスはちゃんと宙港に着陸して見せたが、ビューの引きつり笑顔は直らなかった。


 捜査拠点にしていたマンションに立ち寄る。

 そこでは捜査官が最終の片づけをしていた。

 モニターやらコンピュータやら……。

 一時避難させていたクリスの私物も一緒に運び出すようにお願いすると、快く了承してくれ、労いの言葉をかけてその場を去った。

「さて、この『買い取ったマンション』をどうするか……」

 マンション自体は良い物件なのだ。立地もいいし、ビューが手を加えたので、さらにセキュリティは向上している。

「前よりも高く売れるんじゃないのか?」

 クリスは本気でそう思ったりもした。

「そのあたりは『シンドロフィン不動産』に任せましょう」

 この物件を売っても良し。このまま所有して賃貸に出しても良し。クリスに異論はなかった。一部を除いては。

「問題はファーガソン親子ですね?」

 ビューが言ってきた。相変わらず、こちらの心の動きを読むのが鋭い。

「その通りだ。ここから我々が退去すると、あの世帯だけが残ることになるんだ。それはそれとして問題があるのではないか?」

 新しい住居を手配しなければならないだろう。

 もうすでに以前住んでいた物件は修復し、売却予定があるという。

 業者に委託して、家具等は貸し倉庫に保管しているらしい。

「シンドロフィン不動産が賃貸とするならば、このまま貸しても良いのでは?」

 それは一般的な意見だった、だが、クリスは「NO」を突き付けた。

「今度の結審で、ナノエックスフリーダム社の勝訴が決まる。そうすれば、家が必要になるだろう。それも相応の」

「どういうことでしょう?」

 ビューには想像できなかったらしい。そういうところが庶民的で好ましいのだが。

「外部の人間を自宅に呼んでホームパーティーなど開かなければならない立場になるということだよ。マンションだと、それはできないだろう?」

「はあ……」

 やはり想像できなかったらしい。

 雲の上の人間の暮らしというものについても勉強する機会を持たせる必要があるな……。

 そう考えさせられた。

 クリスは大統領夫人の警護をしていたことがあるので、そのような世界を知っていた。

 ビューは仕事を離れれば、ただの子煩悩な一般家庭の家長に過ぎない。

 よし、強制休暇が明けたら、ドレスアップが必要なレベルの、ちょっとリッチな立食パーティーを企画して全員参加させるか。そんなことを考えていた。


 クリスは朝、ジョージと別れるときに夕方頃に会社に向かうと伝えていた。

 ナノエックスフリーダム社に向かう車の窓から、クリスは風景を眺めていた。

 しばらくこの風景とはお別れだ。

 そんなクリスの横で、ビューは運転しながら静かに見守っていた。

 会社の外門に着いた。

 内部に構内進入の許可を取ろうと、警備員に身分証を提示した。

 クリスの顔を見て、身分証を見て、またクリスの顔を見る。

 驚きを隠せないようだ。

「入ってもいいかな?」

 それに、一応確認しますと、秘書室に連絡を取ったようだ。

「許可します。許可証はこちらに提示してください」

 そう言って警備員は、車のフロント部に許可証を置いた。

「ありがとう」

 礼を言い、車を発進させる。

 警備員は呆然としていた。

「あの人、と、特別司法官だったんだ……」

 その声が、静かなこの場所にやけに大きく響いた。


 管理棟の正面では、リーグルが待ち構えていた。

 クリスが車に乗っていることに驚く。

「フォードラス……」

 急に姿を消したはずの部下が、ここに居る。

 思わず詰め寄ろうとしたが、その目の前に身分証が突き出された。

 それに驚きながらも内容を確認する。

「連邦特別司法省特別司法官? グレイシア・クリスフォード?」

 ポカンとしていた。

「それが今の私です。よろしく」

「よろしくって……お前……」

 まだ呆然としている元上司に、クリスは声をかける。

「取り敢えず、中に入れてもらえないでしょうか」

「あ、ああ……」

 まだ自分を取り戻せないでいる元上司に、クリスはそんな言葉をかけた。

 リーグルの先導で特別司法官の二人は社内を歩いていく。

 秘書課の前を通る。

「フォードラスさん?」

 女性陣が何事かと声をかけてくる。

 いつもと服装が違う。ビジネスカジュアルに近いながら、カチッとしたジャケットを羽織っていて、胸ポケットには見たこともないバッジが掛かっていた。

 クリスは彼女たちに軽く手を振ると、招かれた社長室の中に入って行った。


「来たね」

 ジョージがそう声をかけてきた。

「社長、私には何が何だかよくわからないのですが……」

 リーグルが戸惑った声で言う。

 それはそうだろう。何も説明していないのだから。

 ジョージは特別司法官の二人にソファを勧め、リーグルにも同席するよう促す。

 そこで、リーグルはまずは……とお茶を入れに行く。

 テーブルにティーカップが並んだところで、クリスは改めて自己紹介をした。

「私は連邦特別司法省特別司法官、グレイシア・クリスフォードと申します」

 そう言って先ほど見せた身分証を見せる。

 Federal Special Justice Department, Federal Special Judiciary Officer

 連邦標準語で、こう書かれている。

 ――連邦特別司法省 特別司法官

 その身分証を見るのは初めてだったジョージは、手に取ってまじまじと眺めている。

「私は同じく連邦特別司法省特別司法官、アーマード・ビューと申します」

 同じ身分証を広げて見せた。

「今日、こちらにお伺いしたのは、今後のことを決めるためです」

「今後のこと?」

 リーグルが疑問を呈す。

「改めて、今回の事件について説明しますが、他言無用にお願いします」

 そこで、ビューはリーグルにも誓約書の記入を求めた。

 これに驚いて、リーグルは思わず自分の社長の顔を見た。

 それに静かに頷いた上司を見て、リーグルは黙って署名をした。

 署名を確認し、クリスに頷いて見せた。

 そこでクリスは口を開いた。

「社長に関しましては繰り返すことになりますが……」

 改めて説明をした。

 メディブレックス社による大きな人権侵害が発生し、それが明らかになっていること。

 社会的重大な問題と影響を与える場合、連邦特別司法官の司法判断において連邦司法判断とみなし、特別処置を行うことが連邦特別司法執行法に規定されており、それが今回適用されること。

 よって、この事件自体は公にならない。

 今回のナノエックスフリーダム社との係争については、メディブレックス社の手続き不備が明らかになっているため、ナノエックスフリーダム社の勝訴となることは確定していること。

 この件に関して、深くたどれば特別司法案件に触れるため、報道管制が敷かれること。

 だが、会社として社会的制裁は必要になる。よって、何らかの行政処分が下されること。

 リーグルは話について行くだけで大変だった。

「ナノエックスフリーダム社には、メディブレックス社に対して深く追及をしないでほしいのです」

 無茶なお願いは承知の上だった。

「人権侵害とは、いったいどのようなことなのですか? それに勝訴が確定とは? 一体何がどうなっているのですか?」

 疑問はもっともだ。

「人権侵害に関しては、聞かない方が良いでしょう。あなたご自身のために」

 ビューが説明した。

 クリスは完全にビューに任せることにしたようだ。優雅にお茶を飲んでいる。

「そして裁判に関しては、メディブレックス社が不正に情報を特許庁から入手したことがわかっています」

「特許庁?」

「贈収賄が絡んでおりまして……」

 ここから先は言わずもがなだが。

「そこから先は、聞くなとおっしゃる?」

 その質問に関して、クリスもビューもにっこり笑った。

 ……つまり、そういうことなのだ。

「他の役員にも話した方が良かったかしら?」

 クリスが言う。

「いや、それはこちらで何とかしよう。我が社に関しては不利なところはないからな。納得してもらうしかない。どうしてもという場合は、『連邦特別司法省』が絡んでいると伝えてもいいかな?」

 それに関しては、二人とも了承した。

「さて、それとは別に、貴方の住居の問題があります」

 ビューは続けた。

「あのマンションにこのまま住まうのはあまり好ましい状況とは言えなくなりますので……」

 マンションの住人が一斉退去することを伝えた。

「あのマンションに住むのは貴方がたの世帯のみとなります」

 ちょっと待て、あのマンションのほとんどの部屋は埋まっていたのではないか?

 疑問が顔に出ていたらしいと、ジョージは気が付いた。

「部屋のほとんどは、連邦特別司法省の捜査関係者が使用していたので、今回の捜査が終了次第退去します」

 唖然とした。

 あそこにいたのは、みんな捜査官だったのか? 管理人も?

「そうなんです。そこはセキュリティが良かったもので、捜査で使うにはうってつけで……」

 クリスがころころ笑って言った。

 笑うところじゃないだろう、そこは。

 ……と思ったのは果たして何人やら……。

「それと、今日までのあのマンションの家賃はお返しします」

 何故かという疑問が湧いた。

「貴方をあのマンションに居住させたのは、貴方を連邦の保護下に置く目的のためです。よって、費用は我々の管轄になりますので、シンドロフィン不動産には我々から伝えておきます」

 ビューによって事務的なことが話され、リーグルが手続きを進めてゆく。

 そんな時……

 クリスは目の端で、何かとらえたように思った。

 何か光ったように見えたのだ。

 傾きかけている太陽のせいだろうか?

 そう思った瞬間、体がひとりでに動いていた。

 クリスがジョージに飛び掛かった。

 その時、何か割れるような「パン」という音を聞いたような気がした。

 ジョージは椅子ごと後ろにひっくり返る。

「グレイス?」

 何事かと問いかけるが返事はない。

 彼女の体が動かない。

「グレイス?」

 再度呼び掛けるが反応がない。

 彼女の体を起こそう。

 そう思ってクリスの肩に手をやろうとしたとき、手が滑った。

 不審に思い、自分の手を見る。

 そこには赤い液体が付着していた。

 これは、なんだ?

 ジョージに本能的な恐怖が走る。

「グレイス! グレイシア!」

 そこには血を流した彼女が自分に覆いかぶさっていたのだ。

 その状態で危険を察知したビューは声をかける。

「伏せてください」

 椅子の背を壁にして伏せるように指示を出す。

「救急と警察、鑑識を呼びます」

 そう言ってビューは通信機を手に緊急通信を行う。

 その間も、クリスの血が止まらない。

 必死に傷口を押さえた。

「血が、止まらない」

 体を伏せながらも、クリスの傷口を押さえて止血を試みる。

「う……」

 クリスから微かな声がした。

「グレイス、気が付いたか?」

 止血しながら、ジョージは問いかけた。

「だい、じょう、ぶ……?」

「ああ、君のおかげでこうして無事だよ」

「そ……」

 そう言うと、クリスは完全に意識をなくした。

「警察と救急が向かっています。もう狙撃の心配はないでしょう」

 ビューもクリスの状態を確認する。

 出血が多い。血だまりが大きくなってゆく。

 どんどん血が流れているのに、為す術がない。

 自分とは、なんと無力なのだろうか……。

 ジョージは自分から血の気が引いてゆくのを感じた。

 そんな時、ビューの通信機が着信を知らせた。

「司令、救急が来ました。いいですね」

 何も反応のない上司に、ビューは内心焦りを感じながらも表面は落ち着いた状態で対応する。これは、司法官として身についたものだ。

「司令を病院に運びます。付き添われますか?」

 ジョージは黙って頷く。

「私は後から向かいます」

 そう言ったのはリーグルだった。

 到着した救急隊員がクリスをストレッチャーに乗せて点滴をし、救急車へと運ぶ。

 その後をジョージとビューが追う。

 社内は以前クリスが救急で運ばれた時と同じように、騒然としていた。

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