第三十二章 さようならの向こう側
手術室のすぐ傍にある控室に男が三人いた。
時間だけがただ流れる、そんな空間だった。
「社長、着替えてください、そのままの姿では……」
社長室の裏にある仮眠室から撮ってきた洋服を差し出したリーグルだった。
「……彼女が、僕のために流した血だ。ぬぐうことなんて、できない」
椅子に座って顔の前で手を組んで、血に濡れた上着を着たまま床をにらんだ状態でジョージが言った。
「その恰好では障りがあります。彼女が目を覚ました時、悲しみます。どうかその血を洗い流して着替えてください」
ビューがリーグルの言葉に重ねて言った。
それを聞いてしまっては、ジョージは動かないわけにはいかない。
リーグルから着替えの入った袋を受け取ると、家族室の奥にあるシャワールームに向かった。
「大丈夫でしょうか……?」
リーグルはそうこぼす。
それに対してビューはざっくり言った。
「それを知っているのはあなたの方でしょう。これくらい乗り越えてくれなければ困ります」
むしろ冷え冷えとしたような言葉だった。
彼女とともにあろうと言うならば、これは避けられないことなのだ。
そこに通信が入った。ビューの通信機だった。
「失礼」
そう言うとその場を離れる。
相手はファランドだった。
クリスが撃たれたと聞いて、現場に駆け付け、その後の捜査を指揮していた。
「入射角と狙撃された標的のファーガソン氏が座っていた位置からすると、狙撃場所は一キロ近く離れた森の中だと推測されます」
「わかった」
ビューはそれだけを言った。
ファランドには何をしなければならないのか、何が求められているのか知っているはずだ。
「ミスター・ビュー……」
リーグルが呼び掛けた。
「今回の目的は何でしょう?」
まだ、どこか現実をうまく受け止められないリーグルが言った。
「簡単です。貴方の社長の命を奪うことが目的だった。狙撃目標は、彼女の撃たれた位置からするとファーガソン氏の額です」
そんな危険な立場に自分たちは居たのだろうか?
リーグルの頭にそんな疑問がよぎる。
「差し出たことを申すようで恐縮ですが、ナノエックスフリーダム社は業務改革が必要でしょう。ファーガソン氏が不在となれば、貴方たちの会社は立ち行かなくなる。違いますか?」
それを聞いて、リーグルはどきりとした。
決裁権が社長に集中しているのは否めない。
この会社には、ナンバー2ともいえるものがおらず、ナノエックスフリーダム社はジョージが居ないと瓦解する。空中分解するのだ。
「今回は間違いなく、ファーガソン氏を狙ったものです。ライバル会社が仕組んだことか、怨恨によるものか……いずれかでしょう。今回の狙撃手はプロです。それをお忘れなく」
つまり、相手はプロを雇えるだけのコネクションも金もあるということだ。
「庇った身とはいえ、我々のトップの血を流させたことに対しては、それ相応の対応をさせていただきます」
実は、ビューは怒っていた。ものすごく怒っていた。
というよりも、自分に腹を立てていたのだ。
常に「可能性」を考えて動くべき自分が、その「可能性」を見過ごしていたのだ。
間抜けとしか言いようがないとビューは、はらわたが煮えくり返りそうだった。
その「間抜け」の結果が、これ……自分の上司が手術室に居るという現実だ。
手術室に入る前に言われたのだ。出血が多くて危険だと。
このまま命を落としてしまったら……。
嫌な予感があることは否定しない。
だが、自分の上司はこんなことで負けはしないと、心を奮い立たせていた。
そこへシャワーを浴びたジョージが戻ってきた。
顔色があまりよくない。
それに対して何か言おうとしたリーグルだったが、結局その言葉を飲みこんだ。
ビューはジョージを観察して、言葉を紡ぐ。
「水を浴びられたのですか?」
血液は温水では落ちない。冷たい水でなければ落ちにくいのだ。
だが、その後暖かい温水を浴びれば済むはずだ。が、その様子はない。
「少し頭を冷やしたかっただけだ、大丈夫だ」
その言葉を聞いて、リーグルは黙ってジョージに毛布を渡す。
それを受け取って、ジョージは肩に毛布を掛けた。
「今回の件は、気のゆるみがあったのでしょう。私にも、彼女にも。忘れていました……貴方の会社の窓が『防弾』でないことに」
それを聞いてぎくりとする。
防弾? 普通、そんなことは考えもしない。
「それを気にしなければいけない立場にありながら、忘れていた。我々の落ち度があったことは認めます。ですが……」
そこでビューは一旦言葉を切った。
「貴方も危険な立場にあると認識すべきです。狙われたのは貴方なのですから」
手元にあったボードを操作して、ファランドから送られてきた資料を表示する。
「今回の狙撃手の位置はここでしょう」
そう言ってボードをジョージに見せた。地図上ではかなり離れた場所だ。
「貴方は今後、『そういう相手』にも対応しなければならなくなります。そこでもう一度確認します。貴方はその上で『彼女』を抱え込めますか? 彼女は恐らく貴方以上に危険な立場にある。それを理解して付き合えますか?」
覚悟を確認したい、そう言ったのだ。
「一度、喪失を経験した。二度と御免だ」
立場など関係ない、彼女が欲しいとストレートに言ったのだ。
ビューの目をまっすぐに見つめる瞳。偽りはないと感じた。
「わかりました」
そう言うと、ビューは手元のボードを操作した。
「彼女の経歴です。『覚悟』があるのなら、知っておいた方が良いでしょう」
表示されているのは、公表されている経歴に少々手を加えているものだ。
「これ以上の情報に関してはご容赦願います」
つまり、これ以上の情報は機密に当たると言っているのだ。
ジョージは黙って手を差し出した。そこにボードが置かれる。
表示された情報に目を通す。
十五歳で銀河連邦航宙士中央養成学校(アカデミー)に入校。卒業時の席次は次席。
その後、連邦大統領夫人SP。銀河連邦宇宙航空局の法務部勤務を経て、連邦特別司法省特別司法官任官に着任。
経歴だけを見ても、超一流のエリート街道を歩いてきていることがわかる。
だが、並大抵の努力ではなかったはずだと、そう思う。
そして、驚いたことが一つ……。
「彼女は、今『二十一歳』なのか?」
ぽつりと言われた言葉に、リーグルも驚く。
「え……」
あまりにも予想外だったのだろう。
彼女は落ち着いているので、もっと年上だと思っていた。
会社に提出された履歴書には二十五と記載があった。
疑いもしなかった。
それに……。
連邦特別司法省特別司法官の任にあるにしては、あまりにも若いのではないだろうか。
「驚くことはありません。連邦特別司法省の特別司法官は実力主義です。そして、連邦宇宙航空局も同様です。力があるものは生き残り、無いものは淘汰される。そんな世界です。彼女は今まで『生き残って』来ている。つまり、そういうことです」
力のないものは自滅するか他にとって代わられる。
そのような世界であり、そのことについて連邦特別司法官は、誰でも自覚しているのだ。
――連邦特別司法官は、法の番人であり、時には法を超越する者。
それは時によって自分をも滅ぼしかねない。身食いすることもあるのだ。
「恐怖を感じましたか? もし、一瞬でもそんなことを感じたのなら、おやめなさい」
ビューの忠告だった。
「怖いとは感じていない。……ただ、悲しいと思った。それだけだ」
悲しい……か……。
なるほどと思う。
貴女の選んだ男は、確かにその辺の男とは違う。
だから、生きて戻ってください。
そう願わずにはいられなかった。
「ここに居るリーグルは、僕の片腕だ。彼にこれを見せても良いだろうか?」
ビューが頷いたのを確認して、ボードをリーグルに手渡す。
リーグルも情報を確認して、ため息を一つ。
……とんでもない人物を、自分は部下として使っていたらしい。
道理で仕事の飲み込みが早かったはずだ。素地からして違うのだ。
経歴を二回読んだ後、リーグルはビューにボードを返した。
ビューは表示された情報そのものを削除する。
「彼女の帰還を、待ちましょう。彼女はこんなことで『命』を諦める人ではない」
その言葉に、ジョージとリーグルは頷いた。
手術が無事に終わり、クリスは集中治療室を兼ねる個室に移された。
傷自体は手術で対処できたが、出血が多すぎたために、手術中に二度ショック状態で心停止したというので、まだ、予断は許さない。意識さえ戻れば大丈夫だと言われていたのだが……。
今もまだ、意識が戻らない。
心電図等の機器の音だけが治療室に響く。
「元々寝不足と過労気味による貧血がありましたから……そこに今回の失血が重なればこうなるのでしょう。……目覚めを待ちましょう」
それがビューの言葉だった。
「僕はこのまま彼女の傍についていてもいいか?」
仮にだめだと言っても、彼はこの場を動かないだろう。
そう判断した男二人は揃ってため息を吐いた。
「病院の許可を取ってきましょう」
「私は一度戻り、社長の出張道具を持ってきます」
この補佐達、良い連係プレイをして見せた。
「頼む」
そう言って、二人を送り出すと、ジョージはクリスの手を握りしめた。
ビューもリーグルも、ジョージを責める気にはなれなかった。
これが自分の妻だったらと思うと……。
彼の気持ちを察するに有り余る。
「取り敢えず、できることをしましょうか」
「そうですね」
二人の補佐は、自分のなすべきことをするために、病院を出て行った。
……誰かが呼ぶ声がする。
そう感じた。
聞きなれた、声。泣きたくなるほどに、嬉しいと思う、声。
その方向に行こうと動いた、いや、動いたつもりだった。
が、動けない。
傍へ行きたいのに、足が進まない。
なぜ?
足元を見た。
自分の足を掴んでいる腕がある。
離して!
もがく、もがく。
だが腕は離れないどころか、どんどん伸びてくる。
離して、離して!
闇をまとった影は、どんどん上ってくる。
自分の体を這うように、腕が昇ってくる。
逃げられない!
闇に包まれてしまう。
自由になる腕で、頭の上にある光に手を伸ばす。
が、動けない。
闇に飲まれてしまう!
そう思ったとき、その影がこちらを見た。
視線を感じて目を合わせ、思わず悲鳴を上げそうになる。
そこにいたのは……自分!
闇を纏った自分が、ニイッと嗤った。
その嗤い顔があまりにも恐怖を感じるもので……。
助けて!
自分は初めて助けを請うた。
――助けを求めても、誰も助けてはくれない。
そんなことは、自分が良く分かっているはず。
だが、人間の本能というべきものが、希求する。
助けて!
誰もが見向きしない「自分」という存在。
でも、だからこそ足掻こうとするのだ。
助けて!
闇に引きずり込まれようとした瞬間、救いの手が差し伸べられた。
――グレイス。
その声は、そう呼んだ。
ああ、私はグレイス……グレイシア。
声のする天井に、光の源に手を伸ばして……、
救いの手が、自分を、グレイシアを引き上げた。
「あれ?」
それが目の前にいた、ずっと眠りについていた女性の第一声だった。
「生きてる……」
目をパチリと開いて、そう呟いた。
人の肉声が嬉しいと思うのは、自分だけだろうか?
男はそう思った。
「グレイス……」
嬉し泣きのような声で男は女性を呼んだ。
彼女の「個」の名前を呼ぶ。
「ジョージ?」
彼はその声に口では返答せず、彼女の頭を撫で続けることで、その答えとした。
黙って頭を撫で続けるその腕に、クリスは右手を添えた。
左腕は、肩を打ち抜かれたせいでいうことを利かない。
右手も正直言えば持ち上げるのが精いっぱいだった。
「無理はするな、今はただ休め」
「うん……」
そう言ってクリスは目を閉じた。
光のできる場所には同時に闇もできる。
自分はその場所をのぞき込んでしまったのではないのだろうか。
ニーチェ曰く――
お前が深淵をのぞき込むとき、深淵もお前をのぞき返している。
自分はその状態にあったのではないだろうか。
自分の深淵をのぞき込んで、闇に居た深淵(自分)がのぞき返してきたのではないだろうか。
底の見えない闇の深さに、恐怖する。
自己というものが闇に消えた時、「ヒト」とは存在するものなのだろうか。
――グレイス
また呼ぶ声がする。
私を「ヒト」たる、存在しうる「個」たる呼称……。
この声がある限り、自分は自分で有ることができるのではないか。
名を呼ぶ声がある限り、答えを返し続ける。
「自分」は「自分」で居られるのだろう。
――グレイス
そう、私はグレイス。グレイシア。
以前私は、マンソンを抱きしめた時に感じた。
人だからこそ苦悩し、人だからこそ絶望する。
そして、人だからこそ希望もあるのだ……と。
私はだからこそ人でありたい。
そう思った……。
「しーたん!」
翌日、小さな子供が見舞いに訪れた。
ベビーシッターの手を振り払い、駆け足でやって来る。
「ルーク、そっとね」
ジョージに抱き上げられて、ベッドの上に座り込んだルークは、クリスの要望通りそっと抱き着いてきた。
「しーたん、いたい?」
それには素直に答えた。
「うん、痛い」
包帯に巻かれた左肩を心配そうに見てくる。
その様子をジョージが見ていた。
いや、ジョージだけではない。
ベビーシッターはもとより、ビューやリーグル、ファランドまでいた。
「しばらく貴女は入院です」
ビューが言った。
「しかし……」
クリスが言い淀む。
「貴女が『寝不足』と『過労』、『貧血』になっていなければ、ここまで酷くはなっていないんです。貧血が解消するまで、そのベッドに居てもらいます」
「そうよ、司令ちゃん。ここは主席ちゃんの言う通りよ」
その言葉に、聞きなれないものはぎょっとする。
「あらぁ、私、普段はこんな感じなんです。心は『乙女』なんです。その点は大目に見てくださいね。仕事はちゃんとしますから」
クリスは苦笑する。
「貧血を何度も繰り返されたら、それこそ迷惑です。いいですね! わかりましたか?」
ここまで上司に言う者も珍しいだろう。
「わかった、わかりました。『貧血』が治るまで大人しくします」
そこで、医師が来る前に機器を細工して早く仕事に戻ろうと思ったが……。
「機械に細工はさせません。警護兼監視役を付けますからね!」
ちっ!
先手を打たれた。
そこで、自由になる右手を挙げて一言。
「わかった。諦めます」
「そうしてください」
こんな上司と部下のやり取りに目を白黒させながら、ジョージは笑いを止められなかった。
彼女が居る日常。
無くしかけたその存在。
二度も自分の手から消える恐怖。
それを味わった。
もう、こんなのは御免だ。
だから、自分も変わらなければならないし、彼女もそうなのであろう。
大人しくベッドに横になっている。
薬の効きにくい体が、今回仇になっている。
リーグルから聞いていた。
以前薬が効きにくい体質だと言っていたことを。
何故かと聞いてみた。
生まれつきなのかという質問だったのだが……。
答えは「ご想像にお任せします」だった。
おそらく、仕事に関係するのだろうなと考えざるを得ない。
グレイスの本来の仕事は、「航宙士」だ。
ただの航宙士なら問題ないだろうが、そこに「銀河連邦宇宙航空局の」とつけば話は変わってくる。
銀河連邦宇宙航空局の航宙士は、通常の航宙士業務のほかに、通訳や場合によっては外交官といった面も併せ持つ。機密情報等も扱うことが多々あり、下手をすれば諜報戦に巻き込まれる。彼女は恐らく、そういった面の訓練を受けている。その一つが「薬の効きにくい体」なのではないのだろうか。
「薬が使われる状況」に置きたくはないと思う。自分の手が届く範囲に居てほしいと思う。だが、それを望んだら、彼女らしさもなくなってしまうとも思う。
今度は別の意味で二背側面(アンビバレンツ)に陥っている。
「ジョージ?」
グレイスが問いかけてくる。
「鉄分を多く補給しないとだめだ」
そう言ってプルーン等を食べさせる。
心は乙女! と言っていた司令補(ファランド)も、時間を見つけては差し入れを持ってくる。
どうやら、レバーが苦手らしいと気が付いたのは、そんな時だ。
食べてはいるのだが、一回一回の量は少なめだ。
臭みが苦手らしい。
それに気づいてからは、ファランドは生姜多めで煮つけたり、ハーブを使って臭みを消してくるようになった。
子供らしいところもあるんだな。そんな面を見つけては、嬉しくなってゆく。
そんな日々を過ごしながら、季節は変わっていった。
桜の咲く季節になった。
多くの捜査官が本部星へと戻る現在、クリスはまだグッズモンドの地にいた。
桜の季節……。
マンソンが誘拐されて監禁されてからちょうど一年ほど経ったことになる。
事件も無事解決し、メディブレックス社とナノエックスフリーダム社の訴訟の件は、ナノエックスフリーダム社の勝訴。メディブレックス社は半年間の営業・活動停止。特許庁グッズモンド支部の幹部数名が告発され現在収監されている。芋蔓式に引っかかってきた『深海魚』は、裁判の上判決待ち、もしくは連邦特別司法官判断の特別処置となった。ベリアーヌ特別特区の会社群は倒産に追い込まれた。今回ひっかけた『深海魚』の数は、過去最高だ。これでしばらくは自分とグラントは針の筵になるんだろうなと思う。
グッズモンドの辺境にあった研究施設は除染作業を終えたのち、秘密裏の内に取り壊しになった。
今はもう何もない、更地になっている。
惨劇の砦は、もう無いのだ。
保護された研究員たちは、全員連邦施設での保護観察の状態にあった。
彼らが社会復帰するには、かなりの時間が必要だろう。それだけの打撃を、心の傷を負っていた。
クリスはそれぞれの最終報告書目を通しサインした後、強制休暇に入った。
今はその休暇を消化中だ。
まだ、左腕を動かすと微かに違和感が走ることがあるが、それも日常生活を送るには支障はない。
医師の許可が出て、航宙士身体検査に合格したら、一度宇宙に行ってみたいと思う。
それは、このゆったりした時間を過ごすうちに、改めて考えたからだ。
自分の在り方について。
それをジョージとも話してみたいと思った。
「貴方は真正面に宇宙を見たことがあるの?」
クリスはそうジョージに問いかけた。
「真正面? それは無いな。横ならあるが……」
航宙船の客室からなら見たことがあるということだ。
「なら、正面から見てみない?」
クリスの提案にジョージは戸惑った。
「さすがに、ルークはお留守番だけど」
ルークはまだ、宇宙に出るには早すぎる。年齢的にも、体格的にも。
「正面からって、どうやって?」
「決まっているじゃない。操縦席に座るのよ」
自分が操縦するから、その横の副操縦席に座らないかと言っているのだ。
「僕が? 資格はないが……」
「機長が許可します。一人操縦用のシャトルを借りるから、それで宇宙ステーションに行ってみない?」
ジョージは彼女が見ている風景に興味を持った。
「いいのかな?」
「ええ、いいんです」
「ただし、医師の許可が出てからだ」
その言葉を受け、病院での身体検査を受ける。無事クリアして、航宙士免許の更新もできた。
「シャトルだけ貸してくれるところなんて、あるのかい?」
素朴な疑問だった。
普通は、パイロットごとのチャーターなのではないだろうか?
「免許保持者でシャトルを保有する財源のない人向けに、ちゃんとレンタル企業があるの。私も驚いたけれど。レンタルで借りたシャトルを操縦するには前もってちゃんと保険をかけなければならないけれどね。どうかしら?」
「その前に、僕は君の腕前を知らないよ」
「それを知ってもらうための旅っていうのもあるんだけれど」
「じゃあ、行ってみようか」
こうして、宇宙ステーションへの短期旅行が決まった。
ルークには駄々をこねられ少々手を焼いたが、もっと大きくなったら行けると説明すると、じゃあ、僕大きくなると、今まで好き嫌いのあった食材まで食べるようになった。
今回は無理だけど、次に行くときは一緒に行けるかな? と期待を持たせ、やる気を出させる。こういうところは、かなわないとジョージは思う。
「ちゃんとお留守番しててね。お土産買ってくるから、楽しみにしていてね」
そう言うと二人分の旅支度を一つのカバンにまとめ、マンションを出た。
宙港まではジョージが運転することになった。クリスは助手席だ。
「緊張している?」
そう尋ねてきた。
「ううん、むしろ武者震いかな?」
それをどうとらえたらいいのだろう。
レンタル会社に赴いて運行管理者から詳しい飛行ルートを確認する。
これは完全に自分の管轄外だ。彼女に任せよう。
壁一面にデータが並んでいる。
……これを理解しなければ、飛行はできないんだな。
きょろきょろしながら観察していた。
「準備はできたわ。さあ、行きましょうか」
そう言ってシャトルへと歩き出した。
「本当ならアストロスーツを着てほしいところなんだけれど……ここは安全だから、そこまではいいかなって……」
アストロスーツは、体にぴったり合った宇宙服だ。普通の宇宙服とは違う。
「どんな時に着るんだい?」
「宇宙戦争時とか? 本来はパイロットに合わせたオーダーメードのスーツなのよ。今は内戦とかが少ないから着ることはほぼないけれど」
……ち、超実戦向きのパイロットスーツじゃないか!
「軽くて動きやすいし、余計なでっぱりもないから、私は重宝しているんだけどな」
いつの話だ?
「連邦所属の小型戦闘機操縦資格者は所有することが義務付けられているから、私も持っているわ」
「それを着なくてもいいことを祈るよ」
そんなことを話しながらも、離陸に向けてスタンバイを進めていく。
「これ、渡しておくわね」
そう言って手渡したのは管制とやり取りするためのインカムだった。
「貴方のインカムはやり取りできないけれど、聞くことはできるでしょう」
そう言われて面白いと思い、ジョージも装着した。
「グッズモンド管制センター、こちらPJ-531、発艦許可願います」
「PJ-531、発艦を許可する。Good-luck!」
滑走路を走り、ふわりと機体が浮いた。
先ほど確認した航路に沿って機体はどんどん上昇してゆく。
ジョージにとって、これは感動だった。
「目の前が空だ」
雲の層を抜けて、もっと上がってゆく。
すると、目前には、空よりももっと暗い空間が広がってきた。
「大気圏を抜けた。グッズモンド管制センターの管制域を抜けたわ。ここは『宇宙』よ」
一帯に広がる闇。
その中にきらきら光るものがある。
「あれは宇宙ステーションね。第五ステーション、私たちの目的の場所」
そう言うと、機首をその方角へ向けた。
無事に宇宙ステーションに着くとホテルに荷物を置いて、観光に移った。
「すごいな、ちゃんとした街がある」
ジョージは宇宙ステーションの利用はトランジットだけで、こうして降り立ったことはなかった。
地上にある都市とはまた違った華やかさがあった。
「私も初めて来たとき、凄いと思った。空に街があるんだもの」
でも、この限られた空間から一歩出れば、そこには真の闇がある。
空気の無い、灼熱の、寒厳の闇がある。
「私、貴方と行きたい場所があるの。付き合ってくれる?」
ジョージとしては「NO」を言うつもりはない。
彼女が指さす方向へさりげなくエスコートして連れて行った。
ここは……。
「ここに住んでいる人のほとんどは知らないんじゃないかしら。古き時代の名残……。ここで昔、天体観測していたのよ。もう使われていないけれど」
自分たちが入っているのは、丸いポッドの中。全面が透明な強化塗板が何重にも重ねられている。
「ここは大丈夫なのか?」
足元に地面がない本能的な恐怖があって、そう問いかけた。
「メンテナンスは定期的に行われていて、ほら、空気もあるでしょう?」
確かに呼吸はできるが…。
ジョージにとっては未知の空間という印象が強い。ここは重力を発生しないエリアで、無重力のため体が浮いている。
無重力の経験のないジョージはただ浮いているしかできなかった。
そんな彼の腕を引っ張って、クリスはポッドの淵にある手すりを掴ませた。
この透明な壁の向こうは、宇宙なのだ。
それを実感させられる。
「私は貴方とここで話がしたかったの」
「ここで?」
「ええ、ここで……」
ジョージに目を合わせた後、クリスは宇宙空間を見つめた。
「今は連邦特別司法省特別司法官なんて仕事をしているけれど……私は航宙士。いつかこの宇宙へ還るわ。貴方は、それでいいの?」
なぜ、この場所に連れてきたのか……。
それが、今はわかる気がした。
「この場所が、恋しいのかい?」
「恋しい……それとはちょっと違うかもしれない。むしろ『懐かしい』の方があっているかしら」
宇宙をただ見つめる彼女の顔は、美しかった。
「大地に足をつけて仕事をして……。でも、いつもどこかで思っていた。『還りたい』って」
そんな彼女の腕を引っ張った。
自分の腕の中にすっぽり入る彼女が愛おしい。
「そんな君の『帰る』場所が僕であればいい。それ以上は望まないよ」
彼女の顔に自分の顔を近づけてそっと口づけした。
ジョージは彼女を抱きしめる。
彼女はそっと抱きしめ返してきて、ただ一言言った。
「うん……」
ここはグッズモンドではない。
よってワイドショーネタになることもないし、そもそもここの住人はグッズモンドには興味もないだろう。グッズモンドは地上の一都市に過ぎない。
以前出来なかったショッピングを楽しみ、カフェでお茶を飲み、いつもの日常でない「非日常」というものを楽しんだ。
夕食は洒落たレストランに入り、いつもは飲まないワインを二人で楽しんだ。
ジョージのマンションにはルークが居るし、クリスも夜更けには自分の部屋に戻っていたので、アルコールを飲む雰囲気にはならなかったのだ。
食事の後はホテルのバーに行ってクリスはカクテルを、ジョージはバーボンを頼んで、新たな一面を見つけては話して飲んだ。
夜半、二人はホテルの部屋へ戻った。
「こんな風に過ごせるなんて、夢みたい」
そう言ってクリスは笑った。
「これは夢じゃない、現実だよ」
そう言いながら、二人は抱きしめあいながら眠りについた。
翌日、クリスの操縦するシャトルでグッズモンドに降り立った二人は、まっすぐマンションに帰った。
そこにはルークがベビーシッターと一緒に待っているはずだった。
「しーたん、おいたん!」
玄関を開けると、小さな子供が駆け寄ってきた、いや、突進してきた。
その体を受け止めて、二人は抱きしめる。
お互い笑いあって、手の届く位置にそれぞれが居ることを喜んだ。
ルークにはお土産の洋服を着せて、同じくお土産のお菓子を与える。
口の中でパチパチ跳ねる感触に驚くルーク。
クッキーの中に小さな星に見立てたパンチキャンディーが入っているのだ。
そんな子供の顔に笑いあう二人……。
そこには確かに未来を見据えた二人が居た。
「……私、明後日の便で、連邦首都星に帰るわね」
その言葉にルークは驚いたが、ジョージには驚きはなかった。
それが当然という表情だ。
「強制休暇後、待機期間に入ったあと通常勤務になるから、その時の週末にはできる限りこちらへ来るわ」
ルークが大きくなるまでは宇宙船に乗れないため、選択肢はこれしかなかった。
「ああ、待ってるよ」
「しーたん、いなくなっちゃうの?」
「遠くに行くけど、通信でおしゃべりしましょう」
「できるの?」
「できるわ。約束」
そう言って二人は小指を差し出した。
これが約束の印……。小指を絡めた。
そして後日、宣言したとおりクリスは連邦首都星への帰途についた。
この時期の航宙船の利用者は少ないらしく、また、星間ゲート利用も少ないとあって、連邦首都星には定刻よりも早く到着することになった。
そしてそのまま特別司法省に足を運び、待機期間に入った。
グラントのチームワンもクリスのチームスリーと同じく待機期間中に入っていた。
大人しくしていればいいのに……。
それをこの人(グラント)に望むのは酷だろう。
「クリス、お前の相手というのはどんな人だ?」
グラントはクリスを揶揄える機会が到来とクリスの到着を楽しみにしていたのだ。
クリスの司令室に遊びに来ては、お茶を堪能してゆく。
だが、クリスはいつもそっけない。
いつもの、表情を読めない笑みを浮かべてこう言った。
「ご想像にお任せします」
それを聞いてさらに騒ぎ立てるグラント。冷静に受け流すビュー。
賑やかな司令室を遠巻きにして通過してゆく部下達。
いつもの変わらない風景が戻ってきていた。
「さあ、今日も仕事を始めるか」
クリスの声が司令室に響いた。
――新しい一日が始まる。
大地に降る宇宙の涙 武蔵 ゆう @yuu-muzou
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