第三十章 星が降る先には

 医療キャリアへ男を運ぶ女の姿を、別の男が見つめていた。

 あの男は見覚えがある。

 ――男――ジョージはそう思った。

 随分と面影は違うが、自分が会社へ引き抜こうとした男……。

 多分、バリー・マンソンだろう。

 そう予測していた。

 「アリスン」が喧嘩したという男――

 彼女は幻ではなく、ちゃんと存在していたではないか。

 ジョージは静かに笑った。

 その男の腕の中で、小さな子供が暴れだした。

 降ろしてほしいらしい。

 そう感じて、静かに子供の体を地面に降ろした。

 すると……。

 子供とは予測のつかない行動をするものだ。

 捜査官が張った非常線の中に入り込み、走り出してしまった。

「ルーク!」

 男は呼ぶが、子供は反応せず、目的に向かって走ってゆく。

「あーたん」

 そう呼ぶと、子供は女に抱き着いた。

 小さな体だ、飛び掛かったというのが本当の表現なのかもしれない。

 思わずその体を抱きとめて、女はしまった! という顔をした。

「あーたん、いなくなったや、やー」

 小さい体で目いっぱい表現する。

「ぼゆ、やー」

 そう言うとワンワン泣き出してしまった。

 これには女も困り顔だ。

 仕方ない……。

 女は子供を抱き上げた。

 ポンポンと背中を叩くと、男の方へ歩き出した。


 女は、小さな子供の体を男に差し出した。

 男と女の間には非常線がある。

 男は子供を受け取ろうと手を差し出すと、子供はさらに女にしがみついた。

「あーたん、やー」

 首にしがみつく。

「あーたん、ぼゆ、きらー? ぼゆ、きらー?」

 それは、僕のこと嫌い? という意味だった。

 どう答えればいいのか。

 クリスは迷った。

 彼らの知る「アリスン」はもう居ないのだ。

 不自然な沈黙がその場を支配しそうになった時――。

 助け舟とも呼べる一人の忠告者がやってきた。

「もう、逃げるのはおやめなさい」

 ジョージに以前忠告した男――ビューだった。

「ご自分の気持ちにお気づきでしょう? わからないというなら、私は相当鈍感な上司を持ったことになりますね」

 そう言うと二人に向かってにっこり笑った。

「貴女が仮の立場とは言え、自分の上司として認めた相手を、その相手の度量を甘く見てはいませんか? 貴女は見切りをつけなかった。それが答えでしょう?」

 その言葉に、クリスもジョージも驚いた。

「もっと自分に素直になってください。そして気持ちを認めてください。ここでその気持ちに封をしてしまったら、貴女はもう二度と同じような気持ちを持つことができない。それから逃げないでください」

 そう言うと、ルークの体をヒョイと持ち上げると、預かりますと言って抱き上げてしまった。

「あーたん!」

 子供はクリスから離れるのを嫌った。

 そんなルークにビューはこう言う。

「あーたんは、叔父さんとお話があるんだ。だから私と邪魔しないようにしようね」

 さすが一人息子を持つ子煩悩な父親だった。

「おいたん?」

 さすがに、不安そうにジョージを見た。

「大丈夫」

 ジョージは子供の頭を撫でた。

「お願いできますか?」

 それにビューは頷くと、ジュース飲もう! と言って子供を連れて行ってしまった。

 残されたクリスは気まずそうに下を向いてしまう。

 本当にどうしたらよいのかわからないのだ。

 そこに居たのは「司令」ではなく、一人の戸惑う女性だった。


 ぽつり。ぽつり。

 雫が落ちてくる。

 ――ああ、雨だ。

 雨が降る。

 空から大地に向けて、

 雨が降る。

 静かに、ただ静かに。

 闇の天井から、雫が降ってくる。

 ――ああ、これは涙だ。

 大地に降る、宇宙の涙だ。

 宇宙が慟哭している。

 言葉を発せず、ただ静かに……。

 哭いている。

 私たち人間の愚かさを見て、哭いている。


 クリスは雨を受けながら天を見上げる。

 同じく雨を受けながら、ジョージはそんな彼女の頬に手を伸ばした。

 クリスは逃げなかった。

 頬の暖かさに触れて、自然と腕が流れて後頭部に回ると、ジョージはそっと自分の方に引き寄せた。

 クリスの顔がジョージの肩にぶつかる。

「やっぱり『君』だ」

 ジョージはクリスを抱きしめた。

 体の間にある非常線には構わなかった。

「君が何者であろうと、『君』は『君』だ。それは変わらない」

 雨に濡れながら、二人は話す。

「でも……」

 彼、いや、彼らを欺いていたのは変わらない。

「前にも言ったはずだ。君の根本にある本質は変わらないと……。僕は君を失う『恐怖』というものを知った。もう二度と御免だ」

 そう言うとさらにきつく抱きしめる。

 クリスはそんなジョージの背に腕を回した。

「わ、私は……」

 冷たい雨に濡れているはずなのに、肩に暖かなものが触れていくのを感じて、ジョージは少し体を離し、彼女の顔を見つめた。肩に触れたのは……彼女の涙だった。

「泣くことがなければいいと思う。でも、感情を殺すことはしないでほしい。哭きたかったら哭いていい。でも、この僕のいる場所で哭いてくれ」

 ジョージはそう言うと、再びクリスを抱きしめた。

 クリスでもアリスンでもなく、「私」という「個」を求めてくれる存在。

 これが嬉しくないとどうして言えよう。

「ありがとう」

 これが彼女が言える、たった一つの言葉だった。


 いつの時にも水を差すものが居るというが、この時は傘を差した男が、持っていた予備の傘を突き出してきた。

「今更傘を差しても仕方ない状態でしょうが……。風邪をひきます。二人とも移動キャリアへ来てください」

 そう言ってジョージに半ば強引に傘を渡すとくるりと背を向け、すたすたと歩いて行ってしまった。

 二人は呆然とし……顔を見合わせてぷっと笑った。

「助言に従おうとするか」

 二人は傘を差さずにキャリアへと走って行った。


 キャリアへ着くと、問答無用! とばかりに二人は別々のシャワールームに放り込まれ、衣服も乾燥機に詰め込まれた。

 シャワーから出ると、脱衣所にはバスローブが置いてあった。

 相変わらず気が利く副官だ。

 ローブに着替えてキャリア室内に入ると、司令補達が揃っていた。

 そこにローブ姿の男女二人が混じる。

 ビュー以外の事情を知らない三人は、それぞれ異なった反応をした。

 赤くなったもの。

 慌てたもの。

 にっこり微笑むもの。

 ジョージには彼らが誰かわからない。

 クエスチョンマークを飛ばしていた。

 そこにクリスは一枚の用紙を差し出す。

 ――誓約書だった。

「ここで見たり聞いたりしたことは、口外しないって約束してほしいの」

 話すなと言われれば話さない。

 こんなものは不要だと、ジョージは言いたい。

「手続き上必要なものですので、記入をお願いしたいのです」

 ビューが付け加えて言った。

 他の者の視線も受けることになって、ジョージは諦めてサインをした。

 この紙に名前を書かなければ、話が進まないらしいと判断をしたのだ。

「署名を確認しました」

 その言葉を聞いて、クリスは頷く。

「では改めまして。私は連邦特別司法省の特別司法官、『グレイシア・クリスフォード』と申します」

 それを聞いて、ジョージは開いた口がふさがらなかった。

 ……特別……司法官?

 それは連邦でも特殊な立場と聞く。

 法の番人であり、時には法を超越する者。

「そして彼らも同じく『特別司法官』の地位にあります」

 三人は軽く頭を下げた。

 連邦でも二桁しか存在しない者たち。

 ジョージにはなんて言葉をかけたらよいのかわからなかった。

「今回、この場所で起こったことは報道されません。そのために誓約書を頂く必要があったのです」

 ビューはそう説明した。

「報道、されない?」

 これだけ大規模で人員を動かしているのに、それはなぜ?

 疑問を察してクリスが補足した。

「今回の件は、機密案件として連邦特別司法省がすでに介入しているからよ」

 クリスは大まかに説明した。

 今回、メディブレックス社が大きな人権侵害を犯していることが発覚したこと。

 この件は社会的に重大な問題と影響を与えると判断され、内々に特別司法判断が下されること。

 メディブレックス社は今まで良き薬も開発していることもあって、会社が存続できなくなれば社会的に損失が大きい。よって、表向きは行政処分が下されること。

 また、今回のナノエックスフリーダム社との係争については、メディブレックス社の手続き不備が明らかになっているため、ナノエックスフリーダム社の勝訴となること。

「裁判の決定権まであるのか?」

 それに関しては不審顔だ。

「基本的に裁判に関与することはないの。それは法の平等に反することだから。ただ、メディブレックス社関係の贈収賄については、公表することになるわ」

 贈収賄と聞いて、ジョージが驚いた。

「特許庁との絡みでちょっと、メディブレックス社がまずいことをしていてね……」

 言葉を濁した。

 これは、ワイドショーが大いにこれから騒いでくれるだろう。

「私たちに言えるのはここまでよ」

 本当は、もっとどす黒いものがあるのだろう。

 それには触れずに、話せる範囲のことは話してくれたのだろう。そう思うことにした。

「司令、我々は後始末に戻ります。貴女は無理せずしっかりと休んでください」

 ビューは司令補を代表してそう言った。

「ちょっと待て、それは……」

 椅子に座っていたクリスは慌てて立ち上がろうとしたが、ビューが肩を押さえて抑え込む。

「あ、な、た、は! 『過労』と『睡眠不足』で『貧血』の前科持ちです。こんな時くらい大人しくしていてください」

 そう言うと、ジョージにクリスを押し付けて司令補達は出て行ってしまった。

 あっけにとられたジョージは、そのクリスを受け取って、ポカンとしていた。

「……司令、とは、何だ?」

 クリスは、そう言えば言っていなかったなと思い出す。

「特別司法官の中にも階級が二つあるの。司令とその補佐をする司令補よ」

 そうなのか……と聞いて……。

「君が、司令?」

 彼らの上司なのか?

「そうだけど」

 けろりと言われ、ジョージは笑ってしまった。

 そんなところも「君」だ。

 ひとしきり笑って、ジョージはこう問いかけた。

「僕は『君』のことを何て呼べばいい?」


 ジョージはルークとクリスを連れて、マンションに帰ってきていた。

 夕方近くまで移動指揮所のキャリアの中に居て状況を見守っていたが、この後の処理は自分たちでできるから貴女は休養を取ってください、と放り出されてしまった。

 こうなっては仕方がない。さて、休養を取るか……。と、ここで問題が生じた。

 クリスはもうマンションの荷物を移動してしまっている。

 放り出されても帰る場所がないのだ。

 ポカンと突っ立っていたクリスを、ジョージはこれ幸いと引っ張ってきたのだ。

 で、今に至る。

「君の紅茶が飲みたい」

 ジョージのリクエストだった。

「あーたん、ぼゆも、ぼゆも!」

 僕も欲しいと言いたいらしい。

「ちょっと待っててね」

 そう言うとキッチンの中に入って行った。


 子供も飲むなら、ミルクが入った方が良いのだろうか?

 自分一人だけ違う飲み物が出てきたら、嫌だろうな……。

 そう思って、今日飲む紅茶は「チャイ」に決めた。

 子供向けに香辛料は少なめにして……。

 ケトルを電磁機にかけて水に香辛料を入れて沸騰させた頃、ジョージがキッチンにやってきた。

「お? チャイか?」

 ジョージはクリスを後ろから抱きしめる。

 その彼の手に自分の手を乗せて寄りかかって、二人は笑いあう。

「ぼゆも!」

 ルークもやってきた。

「ルーク、キッチンは危ないよって言ったでしょう?」

「おいたんいるもん!」

 ルークを抱き上げて三人は笑いあった。


 その後起きる悲劇を知らずに……。

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