第二十九章 惨劇の砦

 最初の捜査官が失踪してから十八時間が経過した。

 タイムリミットが刻々と迫ってくる。

 今この時も、危険が及んでいるのだ。

 時間との勝負に入っていた。

 グラント司令とは連携を取る必要があり、逐一情報を送りあっていた。

 同時に動かなければ、どちらかの「鯛」か「深海魚」を取り逃がす可能性があった。

 慎重でありながらもスピーディに。それが求められていた。

「司令、ファランド達が偵察衛星のシステムに入り込むのに手間取っていますね」

 防御システムはまだ動いていないらしい。ということは、今のところこっそり侵入できているようだ。

「バレたら元も子もない。そのまま作業を継続させろ。クレイフィルの状況はどうなっている?」

 都市を跨いで指揮を執っている分、意思の疎通がいつもの捜査よりも重要になっていた。

「今、通過した可能性のある道路のカメラすべてをチェックしています。特定までもう少しかかりそうです」

「急がせろよ」

「了解」

 捜査官を誘拐した車は、いったいどこへ向かったのか。

 その解明まで今少しかかるようだ。

「ビュー、本部に要請していた応援の件はどうなっている?」

「すでにこちらに向かっています。もう二時間ほどで到着予定です」

「わかった」

 クリスはため息を吐いて、椅子の背もたれに凭れかかった。

 もうすぐ、数か月に及ぶ捜査に終止符が打たれる。

 その時の自分は、いったいどうなっているのだろうか?

 ……そんな先のことは考えるな。今は「現実」が大事だ。

 クリスはそう自分に言い聞かせると、目の前に表示される情報に目を向けた。


 今回は現地の者が使えない。

 確かに自分はそう言った。そしてそれは現実になった。

 特許庁という連邦政府の管轄機関において、内通者が居ることが現実になったためである。

 ――腐敗している。

 そう考えざるを得ない。

 マンソンの論文を端に発した特許情報の漏洩。

 その両端にいるのは、メディブレックス社の幹部役員と政治家と名乗る者。

 会社の利益と個人の利益のためだ。

 そして金の一部は、ウイグラス星系から流れ込んでいる。

 これはグラントから得た情報だ。

 そして、内偵を進めていくうちにさらに詳細がわかってきた。

 クリス達が拠点として使用しているマンションの元オーナーはマフィアの元締めだが、その者もベリアーヌ特別特区のある会社を経由してウイグラス星系に投資している。

 それが特区の会社を経由することで投資としてきれいな金になり、メディブレックス社に流れ込む。メディブレックス社としては裏で薬の流通経路を利用しての麻薬売買の取引を黙認する。

 ウィンウィンの関係だった。

 数か月にわたる捜査の賜物だったとしても、おかしいと言わざるを得ない。

 これが地元で表面化しなかったのは、どこかで圧力が掛かり、事件が握りつぶされているとしか思えなかった。

 それを黙認していたと思われるサンザシアン星系、ウイグラス星系の捜査関係者は使えなかった。

 仮に両星系の捜査関係者が気づいていなかったとしても、それはそれでお粗末だとして使えなかったであろう。

 ――各星系の支局はごっそり入れ替えだな。

 クリスはそう進言しようと考えた。もっとも自分がしなくても、グラントがするとも考えられたが。

 この一件、これでは、とてもではないが自分一人では対処できなかった。

 グラントのチームの手が空いていたことが、何よりだった。

 今回、グラントのチームと自分のチームで両拠点を同時に、一気に叩かなくてはならない。それが失敗すると、トカゲのしっぽ切りになってしまう。どちらも大元を抑えなくてはならなかった。

「司令」

 捜査官の呼び声に、クリスは顔を上げた。

「クレイフィルから暗号通信です」

「繋いでくれ」

 そう命令した。

 画面に現れたのは、クラバートだった。

「司令、追跡車両はグッズモンドに入ったところまで確認できました」

「何?」

 いま、この都市に誘拐されてきているというのか?

 場所はどこだ?

「こちらの道路の監視映像をそちらで分析できるな? 追跡してくれ。こちらはこちらで手いっぱいだ」

「了解」

 そう言って、クラバートは通信を切った。

「司令」

 今度はビューから声が掛かった。

「ファランドのユニットが偵察衛星にシステム侵入できたようです」

「ファランドに繋げ」

 別室で対応していたファランドが通信に出た。

「幸運なことに、あと五分三十五秒で撮影地域に入ります」

 偵察衛星は静止軌道上にあるわけではなかった。常に移動している。その移動速度と場所のリンク地点とリンク時間の計算が必要だった。

「到達時間になったら、すぐに撮影をしてくれ。使えるセンサーはすべて使っていいが、気取られるなよ」

「了解」

 そう言って、ファランドはクラバートと同じくぷつりと通信を切った。

「司令……」

 ビューが問いかける。

 彼の目は「大丈夫ですか?」と問いかけていた。

 声には出さない。部下に聞こえれば不安を煽ることになる。

 それを承知していて、クリスは視線だけをビューに向けた。

 それは「大丈夫」の合図だった。

 ファランドの指揮するユニットの調査まであと数分。

 その情報ですべてが決まる。

 クリスは椅子に腰かけた状態で足を組んで、ファランドから情報が来るのを目を閉じて待った。


 ピピッ!

 通信が入った。

「ファランド司令補より通信。探査完了。これよりシステム離脱をはかるとのこと」

 その報告を受けて、ビューが動いた。

「情報を画面に出してくれ」

 クリスの前に立体画像が起動する。

 椅子のひじ掛けに肘を付いて、クリスは画像を確認する。

「……やはり施設は有ったか……」

 突拍子もない上司の思い付きともいえる発言が、現実のものとして目の前にある。

 ビューはその存在を事実として受け止めた。

「建物内部の確認はとれているか?」

 そこで、ビューはサーモスキャンの画像からパッシブセンサーの情報に切り替えた。

 この地は地熱の影響があって、サーモスキャンでは外郭しかわからなかったためだ。

 部屋に居た捜査官のざわめきが大きくなる。

「ひ、人がこんなに?」

 形状からして「人物」と思われる物陰が多数あったのだ。

「研究員は別として、なぜこんなに『人間』がいる?」

 クリスは目を鋭くした。

 ――考えていたよりも闇は深いかもしれない。

 クリスの頭を嫌な予感が走る。

 まさか、まさか……。

 そこへ別の通信が入った。

「クラバート司令補からです」

「繋いでくれ」

クラバートの画像が重ねて表示される。

「追跡できたか?」

 それは質問ではなく、確認だった。

「はい、車両はファランド司令補が探査した公園内に入るところまで確認が取れました」

 さらにざわめきが大きくなった。

 クリスは肘掛の端をぎゅっと掴んだ。

 ――事件がすべて線で繋がった。

「わかった。君たちのユニットは早々に引き上げて、本拠点へ合流せよ」

 命令を下す。

「了解」

 簡潔な回答で通信は終わった。

「司令……」

 ビューの顔色が心なしか青い。

 悪い予感でもしているのだろう。

「ファランドのユニットの状況はどうだ?」

 ビューは手元のボードを操作する。

「システム内からの離脱をはかれた模様。念のためダミープログラムも走らせているようですね」

「わかった。完全に落ち着いたら、こちらに合流するよう伝えてくれ」

「了解」

 その指示を受けて、ビューが動いた。

「みんな、ここからが本番だ、しっかり頼むぞ!」

 チームの引き締めにかかる。

「はい!」

 揃った声は、いっそ清々しいほどだった。


 そんなチーム員を背景に、クリスは無表情だった。

 何を考えているか読み取れない「司令」の表情。

 腕を組んで正面にある立体画像を見つめている。

 冷めた目をしていた。

「海老が向こうからやってきたか……」

 深く考え込んでいる姿に、周りは静かになって行った。

 思考の邪魔をしないよう、それぞれが己の仕事に取り掛かっていた。

 ちょうどその時、ユニットの任務が一区切りしたファランドが、指揮所にやってきた。

「司令、あとは主任に任せて大丈夫でしょう」

 そうクリスに報告した。

「そうか……。ビュー、ファランド、別室に来てくれ」

 そう言うと椅子から立ち上がり、別室へと移り、二人を招き入れるとドアを閉め、外部をシャットアウトした。


 クリスの言葉を聞いた二人は……。

 ――絶句した。

 顔色を、青を通り越して土気色にして……。

「これはあくまでも予測でしかない。今のところは……。だが、状況はこの予測を立てるに十分だった」

 クリスは自分の正面に立つ男二人にそう言った。

 その予測は、衝撃だった。

 いろいろな事件を見慣れているこの二人を動かなくさせるほどの……。

「この予測を腹におさめて事件に対処してくれ」

 沈黙が支配する。

 司令の予測が正しければ、目の前にあるのは「地獄」だ。

「……わかりました」

 遣る瀬無い気持ちで二人の男は自分の上司を見た。

 彼女は、どんな気持ちでこの予測を告げたのだろうか。

 普通の人間だったら、耐えられないだろう「地獄」を、誰よりも「有るもの」としてとらえなければならない。

 それは、悲しいほどの能力(ちから)だった。


「あくまでも仮定だが、この施設がバイオセーフティレベル4に対応した施設だとすると、内部に行くほど減圧されている。よってウイルスが外部に拡散する可能性は極めて低いと考えられるが『ゼロ』ではないことを忘れないでほしい」

 内部から外の区域に出るには、「洗浄」が必要になるのだ。

 予測通り「ベラロイスウイルス」に対応した施設であった場合、白兵戦部隊の突入には、何重にも対策が必要だった。

「第一級装備で白兵戦部隊を二部隊編成してくれ。建物内の状況を推測から、今回は実戦経験のある捜査員に対象を絞れ。パッシブセンサーが感知した限りでは、出入り口は二か所だ。通常口と脱出口だろう。脱走を恐れて出入口を少なくしたな。そこを押さえる」

「了解」

 言葉が重い。

「各部隊の指揮官については推薦を許す」

 その言葉を聞いて、自分たちの指揮下にある実戦部隊長を推薦した。

「甘く見ているわけではないが、重ねて聞く。その者たちは動じないな?」

 それに静かに頷いた。

「アライランド紛争に出兵していた者たちですから……」

 アライランド紛争……。この紛争も泥沼化し、多くの兵が死んだ。

「そうだったな、あの二人はあの戦場の帰還者だったな……。では彼らにチーム編成は任せよう。全責任は私が持つ。彼らの動きやすいように環境を整えてやってくれ」

「……了解」

 ――事件は解決への最終章へ動き出した。


 グラントから通信が入った。

 連邦首都星の特別司法省からベリアーヌ特別特区の会社群に対してと、メディブレックス社に対しての捜索令状が発行された。特許庁に関しては告発という形になる。星系を跨いで資金の流れが構築されていたことが絡んでおり、今回の事件は連邦案件になることが正式に決まった。グラント側としては、あとはベリアーヌ特別特区の会社群に踏み込むのを待つだけである。

 クリス側としては、地下施設の開放とメディブレックス社の捜索が割り当てられている。

「メディブレックス社の方の捜査は、本部から来た捜査員に任せる。我々は、この施設の占拠が優先だ。内部にいる人質と研究員の保護が最優先。刃向かうものに関して容赦は無用、排除せよ。突入はベリアーヌ特別特区への介入と同時点で行う。以上」

 それが命令だった。

 白兵戦用の第一級装備は宇宙空間でも戦闘可能なように作られている。よってウイルスは入り込まない。今回はこの重装備が必要だった。

 特殊救護車両と病院船も必要だった。これはクリスが要請して、すでに本部からこちらに向かっていたものだ。特殊な状況であるため、一般の病院は利用できないのである。

「公園に居る民間人はどうだ?」

「さほど多くはありません。二人でしょうか?」

「二人?」

 この利用者数を見てもわかる。今日は休日にあたるがそれでも人数はこの通りだ。この公園はお飾りで、本当の目的は地下の施設にあったのだ。

「では、避難誘導の手配を頼む。だが、施設内の者たちに気づかれないように、ぎりぎりまで誘導は待て。私も現場に向かう」

「了解」

 今日この公園にいた人物は不幸としか言いようがない。

 ここで見たこと、聞いたことは公にしないと「誓約書」を書かされるのだ。

 今回の事件は、住民に与える影響が大きいため、封印される部分もある。仕方のない処置だった。

「司令」

 ビューが声をかけてきた。

「……民間人は、ファーガソン親子でした」

 一瞬、クリスは目を見開いた。

 なぜここに居る? 偶然というものを恨みたくなる。

「司令、今回はこちらに留まられた方が良いのでは?」

 ビューの進言だった。

「いや、私は見届ける義務がある。現場に向かう」

「……了解」

 突入の時間が刻一刻と迫ってきていた。


 クリスはインカムを装着した。

 内部の進行状況をコントロールする総指揮として指示をする立場にあるからだ。

「オメガワン、聞こえるか?」

「yes」

「ライトワン、聞こえるか?」

「yes」

「そのまま待機」

「yes」

 突入部隊から外れたものは、公園に居る人々の避難誘導に当たる。

 非常線が張られた。

 避難指示を受けたファーガソン親子はその外から何事かと見つめて、ある一点に目が留まった。

「おいたん、あーたん、あーたん!」

 ジョージのズボンを引っ張って、ルークは一生懸命訴える。

 ――アリスン!

 思わず駆け寄ろうとしたところに、捜査官から静止の声がかかる。

「ここから先は、進入禁止です」

 近寄ろうとして止められて、ルークは泣き出してしまった。

 それを抱き上げて、ジョージは問いかけた。

「あの女性は?」

 それに関して、静止するよう指示した捜査官は、頭をかいてこう言った。

「捜査関係者です」

 端的に、しかし非常にわかりやすい回答だった。

「捜査関係者……」

 ぐずったりふさぎ込んだりしていたルークの気分転換に、いつも利用している公園より大きな広い場所を……と思ってこの公園にやってきたが、それが、偶然を生んだようだった。

 ……また彼女に会えた。

 だが、彼女は振り向かない。

 一度たりともこちらを見なかった。

 それが何を意味するのか、察することができないほどジョージは愚かではなかった。


 クリスは腕時計を見ていた。

 連邦標準時十一時に突入とグラントと決めていた。

 ――その時間が来た。

「突入」

 彼女の良く通る声は、ジョージの元へも届いた。

 ……アリスン、君はいったい何者だ?

 クリスの命令を受けて、宇宙服を着た男たちが小山の芝に覆われた扉を開けて内部に入っていく。

 ……ここは建物だったのか?

 何も知らないジョージは驚くばかりだ。

 クリスはただ正面を見つめるのみ。

 ただならぬ雰囲気を纏わせている。

 それをルークも感じたのだろうか?

「あーたん、なんかこわいね」

「そうだね」

 そう言いながら、黙って後姿を見つめた。

 その「あーたん」と呼ばれたクリスはインカムの通信に耳を傾けていた。

 ――第一区画、制圧完了。

 ――相手の発砲を確認、応戦します。

 ――第二区画、制圧完了。

 突入部隊は奥へ進んでゆくことができたようだ。

 第三区画以後、おそらくこの先には、抵抗者は居ないだろう。

 ――第六区画、抵抗者はいません。

 ――第七区画、制圧完了。

 それを聞いて、クリスは指示を出した。

「医療班を中に」

 医師や看護部隊が中に入っていく。

 医療キャリアも上空待機から降りてきた。

 非常線内に着陸する。

「急いで洗浄スペースを作れ」

 隊員たちは常に訓練されているため、訓練通りに体が動く。

 先ほど開いた扉に防護通路を作る。

 しばらくして、医療部隊とともに中にいたと思われる人物たちが建物から出てきて、防護通路を通り、医療キャリアに収容された。

 あまりの物々しさに、ジョージは眉を顰め、言葉を発することができない。

 内部から出てきた宇宙服の男たちは、宇宙服を脱ぎ捨てると、辺り一面で吐き出した。

 突入部隊の部隊長たちがクリスに報告に来た。

 この者たちも青い顔をしている。歴戦の猛者だったはずだが……。

「最深部に入った者たちは、建物内部にあった洗浄エリアで洗浄完了しておりますので、ウイルスの拡散は無いと言えます」

「わかった」

「司令の予測を前もって聞いていた我々でしたが、予想以上の『地獄』でした」

「そうか……」

「なぜ……、なぜ、あんなことが出来るのでしょうか……」

「……おそらく、指示を出した人間は、我々とは違う人種なのだろうよ」

 クリスはそう言うと、部隊長の肩をポンと叩いてその場を去った。

 胃の内容物を一通り吐き出した隊員たちは、緑の芝生の上に転がっていた。

 その一人一人に対し、クリスはねぎらいの言葉をかけた。

 ――今回の件は隊員のトラウマになるかもしれない。

 ケアを考えねばならなかった。

 医療部隊からも通信が入る。

 研究員「六名」に関しては、憔悴しきってはいるものの、命には別状はないとのこと。

 最深部の部屋は悲惨だったようだ。

 二十人ほど人が居たが全員が死を待つ状態。

 消息を絶っていた捜査官二人は、その部屋の一歩手前で監禁中。

 命に別状はないとのことだった。

 クリスはふーっと溜息を吐いた。

 最深部の部屋で、いったい何が行われていたのか?

 ――それは人間性を疑う残虐な行為だった。


 メディブレックス社は、主にベラロイスウイルスを研究している研究者「八人」を事故に見せかけて拉致監禁し、研究に当たらせていた。

 研究目的は、「ベラロイスウイルス」のワクチン作成。

 ここまででも非道だと思われるのに、この会社は、もっと非道と呼ぶべき行為を行っていた。

 クレイフィルの最下層民を福祉局の職員と見せかけて誘拐し、この施設まで運び、人体実験を行っていたのだ。

 最深部の部屋は感染ブロック。人から人へとウイルスを感染させて病原体を絶やさないようにしていた。人が死ねば新たに誘拐し、補充する。これを繰り返していたようだ。

 その部屋は、かつて「人」だったものが流した病原体付き血液で汚れたまま放置されている状態。死亡した者に関しては、感染者を使ってさらに奥の別室の個室に移す。

 その部屋は「酸」が流れるような仕組みになっていた。

 つまり、実験でワクチンが効かずに死亡したものは、同室の感染者によってその小部屋に運ばれて、死体は酸によって骨まで溶かされていたということだ。これで、証拠は残らなくなる。

 感染者たちも、自分の末路が見えていた。

 その部屋でどれほどの恐怖を味わったのだろう。

 そして、今感染している者も、もう手遅れ。命の灯が残り小さくなっていた。

 医師は、苦痛を和らげるには、もう安楽死しかないと進言する。

「意思疎通ができている者も、出血が始まっています。この病気の最終段階です。もう、対処しようがありません」

 その言葉を聞いて、クリスは天を見上げた。

 ――人はなんて愚かで、残酷なのだろう。

 こんな時、無力さを感じてしまう。

 自分は万能ではない、できることは限られる。

 しかし、しかし……。


「クリス……」

 女は呼び声に振り返った。

 そこには助け出された研究者の一人、バリー・マンソンが立っていた。

 随分と面影が違う。

 げっそりと窶れ、無精ひげを生やし、ぼろぼろの状態だった。

 人、というよりは幽鬼に近い。

「仲間が、二人、死んだ」

 ぽつりと男が呟いた。

「ああ」

 女はそんな男を見つめた。

「大勢、殺した」

「……ああ」

 女は男との距離を縮める。

「俺は、何だ? 一体、何なんだ?」

 男はフラフラと膝をつき、自分の両手を見つめるときつく握りしめた。

 女はそっと男の頭を抱きしめて言った。

「……君は『人』だ。悲しいくらい『人』なんだよ」

 人だからこそ苦悩し、人だからこそ絶望する。

 そして、人だからこそ希望もあるのだ。

「……お前は、あのはがきに気づいてくれたのか?」

 男の手が震えている。

「ああ」

 そう言って女は男の頭を撫でた。まるで母親がするように。

「二人の仲間が自ら命を絶った。状況に耐えきれずに……」

 男は涙を流す。

「気が、狂いそうだった」

 男の魂が叫ぶようだった。

「なぜ、なぜ……」

 言葉が出てこない。

 声の無い慟哭が聞こえるようだった。

「今はとにかく休め、君には休養が必要だ。体も、心も……」

 そう言って女は男を立ち上がらせると、男の体を支えて医療キャリアへと足を向けた。


 空は一転、泣き出しそうな気配になっていた……。

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