第二十五章 さよならの予感
ジョージの様子が一時おかしくなった後、急にもとに戻り、クリスは首をかしげてから数日が経過していた。
二人は相変わらずで、ベビーシッターの後はクリスがルークの相手を引き受け、夕食を一緒に食べて、ルークが寝てから二人は他愛もない話をしてクリスが就寝時間になると部屋に戻る、という生活をしていた。
ルークが寝る前に本を読んでと言うので、大きな絵本を持って、ルークのベッドに腰かける。ルークを抱き込んで絵本を前に持ってきて、声音を変えて色々な人物を表現して読んでいく。すると、ルークがコテンと寄りかかって来た。
「ルーク?」
返事はない。どうやら寝てしまったようだ。
「お休み、ルーク。良い夢を」
そう言っておでこにキスをすると、布団をかけ、本棚に絵本をしまってルークの部屋を出た。
そこには二人の様子を影ながら見守っていたジョージが待っていた。
「お疲れ様、お茶でも飲もう」
リビングに誘う。
自然と腰に手が回った。だが、嫌がらない彼女がいる。
そのことに気をよくして、キッチンに回った。
「私が淹れるわ」
クリスが言う。だが……。
「今の君は秘書じゃない。友人だよ。そこに座っていてくれ」
そう言われては、仕方ない。
「では、待っているわね」
そう言ってテーブルの席に着いた。
椅子に座ったあと、クリスはトートバックから雑誌を出した。
女性向けのファッション雑誌だった。
ぺらぺらとページをめくる。
どうも自分はこういう方面には疎い、ということを理解していたので、雑誌で勉強しているのだ。
「君がそう言う感じの本を読むとは珍しいね」
紅茶を持ってやってきたジョージが言った。
テーブルに置かれたティーカップを持ち上げると、クリスは紅茶を口にした。
「美味しい」
ほっと息を吐きながらクリスはゆっくり飲んでいた。
そんな様子を心地良く思いながら、ジョージは会話を進める。
「君に似合いそうな服じゃないか?」
「そうかしら?」
その雑誌の開いた面には、淡い色をしたワンピースを着た女性が写っていた。
「こんな感じの服、着たことがないわ」
「なら、試してみればいい。それはどこのブランドだい?」
「仮に似合うと言われても、こんなに高い服は着ません」
どうも、雑誌に載っているものの価値が彼女の金銭感覚と違うようだ。
彼女が言う金額とは、どれほどのものだろうか?
「幾ら位するんだい?」
「月給の半分くらい……かしら?」
「それは……高いだろうね、確かに」
女性の衣服というものは高いらしいと、ジョージはこの時知った。
「これだけの金額なら、その辺の洋服店で、上下二着ずつ買って、さらにカバンと靴も買えます。お釣りも来るわ。私はこんな高級なものはいらないし、普段使いできるものの方が良いの。でも、流行から離れるわけにはいかないし……。難しい……」
これにはジョージも苦笑い。
確かに自分も同じことを聞かれたら、同じように答えるだろう。
感覚は近いらしいとジョージは感じた。
裕福な生活ができるのに、ジョージもまた庶民的な生活をしていた。
贅沢は好まない質なのだ。元々裕福な暮らしではなかったからかもしれない。
アリスンが自分と同じような金銭感覚を持っていることを再認識してうれしくなった。
「今度一緒に買い物に行かないか?」
ジョージの口から自然とこんなセリフが出た。
これにクリスは驚いた。
言った本人も驚いているらしい。ジョージが口元を押えていた。
「ジョージ?」
クリスが問いかけるも、ジョージは手を口に押えた状態で横を向いたままだ。
これにはクリスも照れる。
本当なら、これはうれしい言葉だ。
だが……。
「ジョージ、ワイドショーネタを提供するのはあまりよくありませんよ」
口から出たのは別の言葉だった。
「ワイドショー?」
ジョージは理解できていないようだ。
「この前あんな事件があったばかりです。貴方は『一部に有名な人』から『世間に有名な人』に変わっているんです。ここがリークされて、私と貴方の関係が面白おかしく報道されても否定できないような状況なんですよ」
実際、報道各社はすでにここにジョージ親子が住んでいることを把握している。特に隠して出入りしていたわけではないので、それは当然と言えよう。
それが報道されていないのは、ビュー達が報道管制を敷いているからだ。ジョージを今回の案件の重要人という位置づけに置いているからに他ならない。
「僕としては、公になっても構わないよ」
ジョージがテーブルの上に置いてあったクリスの手を握って言った。
「え?」
クリスは満足に返事もできない。
それほど大きな、意表を突いた言葉だからだった。
「ジョージ?」
言葉が続かない。
「僕は君とその先の関係に進みたいと思っているんだ。君はどうなのかな?」
いくら恋愛関係に鈍いと言っても、この言葉の意味をとらえ違えするほど鈍くはなかった。
「僕の恋人になってくれませんか?」
直球な言葉だった。だからこそその本気度が知れた。
「わ、私……」
どう答えたらよいのかわからない。頭の中が真っ白になるのはこういうことを言うのかと、実感していた。グルグルと意味のない言葉が頭の中を回っていて、思考できない。
何て言えばいいんだろう?
こんな時は、どう対応すればいいんだろう?
法廷での遣り取りや、パーティーでのあしらいはできる。でもこんな状況になったことはなかった。
頬がひとりでに熱くなってくる。
赤くなっているんだろうな。
そう思いながらもどうにもできない。
恋愛初心者の二人は、この状況から抜け出せないでいた。
先に平静を取り戻したのはジョージだった。
「急にこんなことを言ってすまない。やっぱり、社長としか、ルークの叔父としか見ることができないかな?」
「そんなことは……」
「では、考えてみてくれないか?」
「わ、わかりました……」
クリスにはこう言うのが精いっぱいだった。
「じゃ、じゃあ、今日はもう休みますね。おやすみなさい」
クリスは慌ててこういうと玄関へ向かって行って、静かにパタンと扉を開けて出て行った。
残されたジョージは、手の中から消えた自分より小さな彼女の手の感触を忘れられそうになかった……。
どうする、自分!
自分の部屋に戻ってきたクリスは、玄関に入ってドアを閉めるとその場に座り込んでしまった。
火照った頬をバシバシ叩く。
ジョージの言葉をうれしいと思う自分がいる。
それは偽りのない気持ちだった。
だが……。
悲しくなった気持ちがあったのも事実だ。
もっと自然に、偽りのない状況で出会えたのなら……。
ジョージは「クリス」を「アリスン」だと思っている。そう接してきたのは自分だ。すべては自分の責任である。
クリスの頬を涙が伝った。
嬉し涙なのか、悲し涙なのか……。
「ごめんなさい……」
小さな声で口を吐いたのは、そんな言葉だった。
暫く玄関で縮こまって泣いていたが、いつまでもこのままではいけないと、立ち上がって浴室へ向かったとき、小さな音がしたような気がした。
音が聞こえた寝室に向かう。すると、ベッドテーブルの上にある通信ランプが点滅していた。
通信を開くと、そこには映像ではなくメッセージが残されていた。
――何度か携帯に連絡をしましたがでられませんでしたのでメッセージを残します。グラント司令が直接話されたいとのこと。都合がよろしければ司令室にお越しください。
ビューからの暗号通信だった。
携帯はあのドタバタでカバンごとジョージの部屋に忘れてきてしまったようだ。失態といえる。
泣きはらした顔で、部下やグラント司令の前に出ることはできない。
熱いシャワーを浴び、体をしゃっきりさせ、泣き顔をごまかして、クリスはビューのいる指揮所に向かった。
間の悪い男とは居るもので、この日の夜のジョージがそうだった。
クリスが忘れたカバンの中で携帯が震えているのに気付いたジョージが、カバンごと届けようとして部屋を出たところでクリスと出くわした。
「アリスン」
声をかけた。
「ジョージ」
こんな状況では会いたくなかった。最悪だ。
「忘れ物だよ」
カバンをポンと手渡した。
クリスはポカンと見つめている。
カバン?
あ、忘れていた。
でも、なんで? 明日でも構わないはず……。
「携帯が鳴っていた。急用だったら困るだろう?」
心配して持ってきてくれたんだ。
ここは素直にお礼を言うべきだろう。
「ありがとう」
「こんな夜更けに外に出ては風邪をひく。早く休めよ」
そう言ってジョージは自分の部屋へと戻って行った。
深く突っ込みを入れられなかったことに安堵して、バックを持ったままビュー達のいる指揮所に向かって行った。
自室に戻ったジョージは悶々としたものを抱えていた。
アリスンはまた夜更けに出かけようとしていた。
また、あの部屋だろうか?
彼女の部屋の斜め向かいの部屋。
あそこに彼女の想い人が住んでいる?
だから、僕の申し出に快く良い返事をしてくれなかったのか?
疑いだせばきりがない。
でも、彼女は僕との関係を考えてくれると言った。
それに期待をかけるか……。
安易な方向に考えを持って行っていることを自分でも自覚している。
だが、そうしないと嫉妬で狂いそうだ。
ジョージは軽く頭を振ると、自分も就寝前のシャワーを浴びようと浴室へ向かった。
クリスは、今の行動に何も問いをぶつけられなかったことに半ば拍子抜けしながら、ビュー達の部屋へと向かった。
とりあえず良しとするか。
ジョージが悶々と考えに捕れていることも知らずに、呑気にそんなことを思っていた。
部屋のロックを開けるために、掌紋を読み込ませ、暗証番号を入れる。
ロックが解除され、中に入ることが出来た。
玄関に現れたクリスを見えると、ビューが一言言ってきた。
「遅いです」
そんなに遅かったかな?
自問してみるが、自分ではまだそんなに遅いとは思っていなかった。
これは捉え方による相違だろう。
そこにこの件の着地点を見出そうとした、が……。
「すでに三時間前から連絡を入れておりましたが、一向に連絡がありませんでしたので……」
ビューから、冷気が噴き出しているように思える。
寒い!
ここは素直に謝っておくのがベターだろう。
「すまん」
その言葉を聞いて、ビューはふーっと息を吐いた。
「グラント司令が貴女の都合が良ければ直接話したいとのご希望で、向こうの通信回線はオープンにしたままお待ちです」
げ、それはマズい。
クリスは急いで暗号通信の回線をオープンにさせた。
「お久しぶりです、グラント司令」
通信回線の画面に向けてそう言った。
「おお、クリス、久しぶりだな」
そう画面向こうの男が振り返ってそう切り出した。自分の司令補と打ち合わせ中だったのだろう。
「随分時間がかかったな。逢引きか?」
揶揄ってそう言う。
「ご想像にお任せします」
この返答を聞いて、グラントも、クリスの隣で聞いているビューも、おや? っと思った。
いつもの彼女であれば「そんなことはありません」と否定するか「暇なんですね?」と切り返すかするはずなのに……。
これは何か進展があったのだろうかと、ビューは半ば期待した。
「で、ご用件は何でしょう? 一応この通信は暗号回線なのですが……」
無駄口で使用する回線ではないと暗に言った。
「ああ、こっちの状況を知らせておこうと思ってな。一応君からの捜査依頼だからな」
「で、どういう状況ですか?」
――グラントの説明はこうだった。
随分頭のいい奴がいる。
ベリアーヌ特別特区にある会社は、特区管理下の銀行を経由して資金を投資するシステムになっている。
そのシステムが、不正操作されている。
銀行に預けた金は利子をつけると端数が発生する。
目に見えない金があるということだが、その目に見えない小数点以下の端数の金をふんだくっている奴がいる。
銀行が利子をつけて端数が発生すると、その端数が記録に残らない状態で処理されるシステムになっている。
その「見えない金」はあるファンド会社に入る仕組みになっていて、その会社もまた投資運営している。
実際、どのくらいの規模になっていて、どのくらいの利益を出しているのか。またその金がどこに流れているのか。目下捜査中。そういうことだった。
チーム全体で捜査に当たっているとのこと。
……これでは、エストンが対応できないわけだ。
クリスはそう思った。
規模が大きすぎるし、深く潜らないとここまでの情報は手に入らない。
相手をどこか甘く見ていたかもしれない。クリスは反省した。
今回はホワイトカラー犯罪にあたるということはよくわかっていたのに。
この件に関しては、グラントに任せて正解だったと思う。
「そちらはどうだ?」
「こちらですか?」
クリスは端的に、今わかっていることを伝えた。
「で? 君の本当の狙いは何だ?」
グラントがそう尋ねてきた。
「狙い、ですか?」
クリスがちょこんと首を傾げた。
こんなところは年相応で可愛いのだが、騙されてはならない。
彼女は「司令」なのだ。
「いえ、特にこれと言ったことはありませんが……」
事実だった。
「だが、この案件を同時進行する必要があると感じたのだろう? その根拠は?」
グラントが食い下がった。
「特に根拠などはありません。ただのカンですかね」
クリスはそう言った。
「感? どういった『感』だ?」
「私は貧乏性なもので、何でも最悪な状況というものを考えてしまいます。もし……と考えたのですよ」
ビューも横で固唾をのんで聞いている。
「もし、ベリアーヌ特別特区で増やした金が『サンザシアン星系第五惑星レイヴァン』に流れていたらと……」
グラントとビューは絶句した。
「おいおい、そんなこと考えていたのか? だから『レイヴァンに集中する』と言っていたのか? それでこっちの件と同時進行させると言ったのか?」
突拍子のない考えだと分かっている。だが、何か大きなものが動いていると、クリスの「カン」は言っているのである。
「考えすぎなのはわかっていましたが、ベリアーヌ特別特区から引き揚げようと動いている投資家もいるということでしたので、これは何かあるかもしれないと考えただけです」
クリスはこう言った。
「わかった。そういうことも念頭に入れて対応にあたろう」
グラントはそう言うと「ではまたな」と挨拶して通信を切った。
通信室に同席していたビューはまだ呆然としていた。
「……あんなことを、お考えだったのですか?」
同じ情報を与えられていながら、自分はそこまで考えが及ばなかった。
ビューはまだ、立ち直れないらしい。
「考えすぎ、というのはわかっているんだが、どうしても頭から離れなくてね」
クリスがベリアーヌ特別特区に拘っていたわけがやっとわかった。
「ベリアーヌ特別特区の件については、グラント司令に任せ、我々は『レイヴァン』に集中しよう」
「そうですね」
クリスとビューはそのまま通信室に残り、しばらくの間打ち合わせを続けていた。
午前二時になったころ、ようやく打ち合わせが終わった。
「さすがにこんな時間はマズいですね」
クリスの頭にはクエスチョンマークが飛んでいる。
その様子を見て、これはわかっていないなと、ビューは助け舟を出した。
「ここはマンションですからね。司法省とは違います。見るものが見たら、誤解を招くかもしれませんよ」
暗に、隣のファーガソン氏が見たら誤解すると伝えているのだ。
「何でだ?」
クリスの頭は、こういうことには鈍かった。
「ここはマンションの一室で、ここに指揮所がある。それは、ほとんどの者が知っていますから、その者たちにとっては何でもありません。ですが、この場所の意味を知らないものがいるでしょう?」
これで、クリスは意味を汲み取った。
そうだ、ジョージ!
先ほど外であった時、何も聞かれなかったけれど、不審に思っているかもしれない。
そんなクリスの様子を見て、ビューが問うてきた。
「その『意味を知らない人』と何かありましたか?」
先ほどの会話で、疑問に思ったことをぶつけてみた。
「何かって、なんだ?」
あくまでも知らないふりを通すらしい。
ビューはそれを読み取って、ため息を吐いた。
「いいですか。貴女は自分のことになると二の次にしてしまうことがあります」
「そうか?」
「そうです。たまには自分を優先してもいいのですよ」
年長者らしくそう助言した。
「心しておこう」
「そうしてください」
そう会話をしてクリスはこの部屋からでていった。
「自分を優先……か」
ビューに言われた言葉が、頭の中をこだまする。
「そんなこと、できるわけないじゃないか」
ベッドに横になり、右腕で目を隠すように覆った。
ジョージの言葉をうれしかったと思う「私」の自分の気持ち。
ジョージの言葉を受け入れられないと思う「公」の司令としての気持ち。
それが渦を巻いてぶつかり合う。
この夜は……すでに夜明けが近かったが眠れそうになかった。
「おはよう」
「おはようございます」
その言葉で翌日の仕事がスタートした。
公私は分ける。
それが二人の暗黙の了解だ。
昨日のことなどおくびにも出さずに、二人は仕事に入った。
「今日は特許審議がありますね。傍聴なさいますか?」
「いや、この件は全部ベリーマン弁護士に任せている。彼を信じて預けよう。素人が下手に聞いて混乱してもどうにもならない。それに、法廷の外には『報道関係者』もいるだろうからね」
「そうですね」
クリスは今日あたり、ボンドが入手した情報を手に新たな火花を散らすのではないかと推測している。
もしそうなれば、こちら側の有利に傾くことになる。
後は相手の出方次第といったところだろう。
「アリスン、お茶を貰えないか」
「わかりました。銘柄の指定はございますか?」
「今日はチャイがいいな。君も一緒に飲もう」
その言葉に、クリスはにっこり笑った。休憩に入るから、プライベートの時間。そう言ったのだ。
「わかったわ」
クリスの口調もそれに合わせて変わる。クリスは給湯室に入っていった。
チャイを入れるときの手順は……と。
お茶の葉を選びながら、頭の中を検索する。
葉は、セイロンにしよう。
必要なものは、セイロンシナモンと、カーダモン、クローブ、牛乳に砂糖……。
お茶にうるさい自分たちである。クリスは拘って香辛料までそろえていた。
シナモンを割って、カーダモンの種をつぶした。
そして鍋に水と香辛料を入れて沸騰させる。
その後中火にして香辛料を煮出すと、湯の色が変わり香りが強くなる。
うん、いい香り!
しっかり色が出たことを確認して、火を止め、セイロンの茶葉を入れた。
数分間をおいた後、牛乳と砂糖を入れる。
そして再び火にかけ、沸騰直前で火を止めて、出来上がり。
茶こしでこしながら、ティーカップに入れた。
このちょっと複雑な香辛料が絡み合った香りが何とも言えない。
二つのティーカップを持ちながら社長室に入る。
そこには、すでに応接のソファに座ったジョージが居た。
「いい香りだな」
「でしょう? でも、チャイを頼むなんて珍しいですね」
「たまにはいいだろう?」
テーブルに置かれたティーセットに手を伸ばす。
そしてそれを口にして一言。
「優しい甘さがいいな」
クリスはあまり甘いものは好まない。自分好みに砂糖を少なくしたのだが、それは彼の口にも合ったようだ。
二人ともほっとして、ゆったりとした時間を過ごしていたのだが……。
そうは問屋が卸さないとばかり、妨害者が現れた。
「ええい、どかんか!」
この言葉が室外から届いた時、妨害者が誰か悟った。
「どうしましょう?」
前回あれほどまでして追い払ったのに、性懲りもなくまた来たらしい。
ジョージはため息一つだ。
クリスもため息をついて頭をフルフルと振ると、ジョージに向き合った。
「一つ確認するけれど、いい? 貴方はあの方を『父親』だと思う部分はあるの?」
妙なことを聞くと思った。
「父親らしいことは一度もされたことがないから、遺伝子上のつながりだけだな」
「つまり、完全に縁を切っても良いと考えているの?」
他人が聞いたらぎょっとする言葉だろう。だが、ジョージは平然と受け止めていた。
「むしろすっきりするな」
あの人と血縁だと思っただけで辟易する。それがジョージの正直な心証だった。
「では、絶縁状態になっても構わないとかしら?」
「その方がありがたい」
ルークのためにもそうであってほしいと偽りのない感情だった。
「では、その方向で対応しますか」
そう言ってクリスは立ち上がった。
「アリスン?」
「部屋の外、凄いことになっているようですから、手伝ってきます。ちょっと脅迫もしてきますね」
その台詞に、ジョージは噴き出した。クリスは首を左右に傾けてこきこき鳴らし、その後肩を大きく動かした。準備体操のようだ。
「ああ、派手にやっても構わないぞ」
「わかったわ」
そう言ってクリスは社長室の外に出て行った。
「ようこそ、ベルク様」
「また出たな、小娘!」
クリスの嫌味は通じず、素通りしたらしい。
子供向けの番組で、妖怪や悪の組織が登場した時の台詞の様だなと感じた。
「ジョージを出せ! あ奴には、会社のトップとはどういうものかわかっていないらしいな。教えてやる!」
息を巻いているベルクに対し、クリスは冷静だった。
「どこが『トップ』ではないというのでしょうか。経営は順調ですが」
「ふん、トップというのは経営だけの問題ではない! 私的なことも含まれる!」
だから何だ? そうクリスは言いたい。そんなことは彼が一番よくわかっている。
「どこがふさわしくないというのでしょうか?」
クリスは仁王立ちに近い形でベルクに向き合っていた。
「貴様との関係だ! 小娘!」
これにはクリスも苦笑するしかない。まさか、社長室の前でこっちのプライベートをさらけ出されるとは思わなかった。
ベルクの台詞に女性秘書たちは小さな声を上げた。
クリスは完全に臨戦態勢。こうなったら止められないとビューが居たらきっと言っただろう。
「どういう関係とおっしゃりたいのでしょうか?」
「貴様が良く分かっているはずだ」
「さて……。私にはわかりかねますね」
「貴様のような娘を傍に置いているだけで格が落ちるわ!」
「私は秘書という仕事をしているだけですが、それが気に食わないと?」
「価値の無い女に手を出していると言っているのだ!」
それを聞いて、クリスは小さく笑った。
「マンションの建物は同じですが、部屋は別々です。貴方はいったい何を想像されたのでしょうか?」
クリスのこの言葉に、ベルクは言葉が詰まった。
「大いなる誤解をされているようですが、まさかそれだけのために、こんな騒ぎにしたのですか?」
クリスは容赦ない。
ベルクは言葉が出てこなかった。それはクリスの言葉を認めていることになる。
「わ、儂がそう思ったということは、他にも誤解が及ぶ可能性があるということだ。貴様のような小娘とそんな誤解を招くことがあっては、儂は我慢ならん、そこをどけ!」
クリスは笑みを浮かべた。冷笑、といっても差し支えない笑みだった。
その笑みを見た他の者たちは背筋が凍った。こんな彼女は初めて見た。
この冷風で、騒めいていた周囲が一瞬で静まり返った。
周囲の状況から何か感じたらしいベルクの勢いが止まった。
「いい加減にしていただけませんか?」
凄味がある。正面から受け止めることになったベルクは、さすがにこの一言にたじろいだ。
「あなたのやっていることは、もはや立場を利用した脅迫に近い。それに対してこちらでも対応させていただくことにしますが、よろしいか?」
鋭い視線を向けられたベルクは、足がすくんだ。
こんな小娘に脅されて、動けなくなるとは、儂らしくない。
だが動けない。
まるで蛇に睨まれた蛙の様だ。
「これ以上ここに留まるなら、そしてまたいらっしゃるようなら、こちらとしては『威力業務妨害』として対応させていただきます。そして社長とそのお子様に対しては『接近禁止命令』を出すように司法の手続きに入りますが、よろしいか?」
仁王立ちに腕組の状態で立つクリス。完全にこの場を支配していた。
クリスは我知らず「司令」モードになっていた。
脂汗がにじんでくる額。……こんな小娘に及び腰になってどうする!
ベルクは自分を叱咤した。
だが、足が動かない。完全に竦んでいる。
無言で立ち尽くすベルクに冷たい目を向けると、ベルクのお付きの者に言った。
「ベルク氏はお帰りです。お連れください」
最後通牒を突き付けたクリスは、完全に勢いをなくしたベルクがその場を去るまで、仁王立ちに腕組の状態で鋭い視線を送っていた。
ベルクはさすがに、この状況がわかっていた。というか、わからされた。視線をビシビシ感じながら、あくまでも見た目は堂々と、その場を去っていった。
完全にベルクが視界から消えるまで腕組の姿勢を保っていたクリスは、視界から消えるとその状態を解いた。
それを見て、あちこちから安堵のため息が漏れた。
「フォードラス、よくあそこまでやったな」
安堵のため息を吐いた一人のリーグルがそう声をかけてきた。
「こっちもいい加減、あのおじさんとの対決は避けたかったので……。社長も縁切りしたいとおっしゃっておりましたので、実行させていただきました」
それにしても政財界の大物を怯ませる迫力、それが彼女の内にあるのが驚きだった。
いつも爽やかな笑顔で人当たりの良い彼女の別の一面。
――彼女はいったい何者だ?
リーグルに疑問が湧いた一瞬でもあった。
いざとなれば、自分が出て対応すべきなのかもしれない。
そう思って社長室の扉の前で待機していたジョージも、クリスの言葉を聞いていた。
そして、凄味のある迫力を出していたことも、扉越しに感じていた。
そんな彼女を一度も見たことはなかった。
彼女はいつも笑っている。そして惜しげのない愛情でルークを見守っている。
自分には誠実で、頭脳明晰で思いやりがあり暖かみのある女性。
だが、見えていなかった部分も、いや、彼女が見せていない部分もあるのではないか。
ジョージはそう感じていた。
そんなことをグルグル考えているとき、場のおさまりを確認したクリスが入室してきた。
まさか入り口に人が突っ立っているとは思っていなかったクリスはジョージの胸にぶつかった。
「す、すいません」
慌てて離れようとしたクリスを、ジョージが抱きしめた。
「ジョージ?」
彼の胸には言いようのない不安が湧き上がっていた。
彼女が自分の前からいなくなるような、消えるような予感がぬぐえないのだ。
「ジョージ?」
再度の問いかけに、彼は答えない。
ただ抱きしめる腕に力がこもっただけだった。
そんな彼の背にクリスは腕を回すと、そっと抱きしめた。
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