第二十六章 覚悟
クリスがベルク氏を完全撤退に追いやってから一週間が経過した。
念のため、ベルク氏の周辺を探らせていたが、どうも悪あがきはしないようだ。
最後通牒が効いたのだろうか?
平日の日中は秘書、仕事明けはジョージの部屋でルークと遊び、夕食を食べ、寝かしつけた後はジョージとお茶を飲んで、就寝時は部屋へ戻る。そのサイクルが今も続いていた。
クリスはジョージからの告白にまだ返答していない。
どうしたらよいのか、わからなかったからだ。
だが、逃げ続けるわけにはいかないことも理解していた。
ジョージは告白前と変わらない態度をとってくれていた。
それが優しさだともわかっていた。
だが、その優しさも辛い時がある。
どうしたらいい?
クリスは常に自分に問いかけていた。
「あーたん、ごほーよーで」
そう言ってルークは大きな絵本を持ち出してきた。
ルークが抱えるには横長の大きな本だ。
クリスは慌てて駆け寄ると、本を受け取った。
本の名前は「はらぺこあおむし」だ。
あおむしが食べた跡が穴になっているのが面白くて、最後にあおむしが蝶になるのが大好きで、何度も読んでほしいとねだってくるのだ。
「ご本読んだら、おやすみなさいするって約束、できる?」
「できゆー」
「じゃあ読みましょう」
そう言ってクリスはソファに座るとルークを膝の上に抱き上げ、一緒に絵本を持った。
「にちようびの……」
絵本を見て、時よりクリスの顔を見て、話を聞くルーク。
ルークがちゃんと話のペースについていけているのか確認しながら読み進めるクリス。
お互い目があったら笑いあう二人。
こんな日がずっと続いて行ったらいい。
二人を穏やかに見つめるジョージはそう思った。
クリスは本を読み終えると、ルークを寝かしつけ、ジョージといつもと同じようにお茶を飲んでから自分の部屋に戻った。……この日も何も進展がなかった。
何をやっているんだ、自分!
そう思うのに、何もできない。
ジョージの気持ちがうれしいと言えばいいのか。
気持ちを受け入れられないと突き放せばいいのか。
わからない。
だが、その前に自分は彼らの前で偽っているのだ。
「アリスン」の存在そのものが幻なのだ。
幻は幻のままの方が良いのではないか?
幻のまま彼の気持ちを受け入れるのか?
幻をずっと自分は演じ続けられるのか?
それはできないとわかっている。
ならば正体を明かすのか?
それもできない。
仮に、彼らが「グレイシア・クリスフォード」を受け入れられても、身辺に危険が及ぶことを否定できない。
そんな状況下に彼らを置けるのか?
答えは「NO」だ。
できない、絶対に。
ならば、どうするのか。
答えは、選択肢は一つしかないではないか。
彼を拒絶すること。気持ちには答えられないとはっきり言うこと。
でも、そうした場合、今の関係が崩れてしまう。
この関係が壊れたら、自分はどうしたらよいのだろう。
彼らの前から去るしかないのではないか。
答えはわかりきっているのに、それを実行に移せない愚かな自分。
「私は、バカだ……」
知らぬ間に口を吐く言葉。
「私は、バカだ……」
身動きできない状況に追い込まれても女々しく悪あがきする自分が滑稽だ。
理性では拒絶することが是と言っているのに、感情がそれを拒否する。
「どうしたらいい……」
気持ちに振り回されて「本来の」仕事が疎かになることは許されない。
チーム員たちの命がかかっているのだ。
「答えは決まっているじゃないか……」
身を引くのが一番だと。
それを認めるのが怖かった……。
クリスは結局、この日も良く眠れずに朝を迎えた。
この状態が続くのは良くない。
ただでさえ二束草鞋、いや、それ以上の状態なのに、ここで不眠とくればダメージは大きい。
自分でもこの状態が長く続けば、体がもたないことは自覚していた。
いくらアカデミーで鍛えられたと言っても、限界はある。
それに、心配性の兄? に見つかれば、お小言は必至だ。
見つからないうちにナノエックスフリーダム社に出社するか。
そう思っているときに限って、その相手と遭遇するのである。
「おはようございます」
部屋を出て廊下を歩いていると、背後から声を掛けられた。
クリスは飛び上がるように驚いた。
「……おはよう、ございます」
振り向くとにっこり笑ってそう答えた。
うまくごまかせただろうか?
声をかけたビューは、一瞬顔を顰めた。
……顔色が悪い。
化粧でごまかしているようだが、自分の目はごまかされない。
何か言おうとして口を開けかけた時、クリスが口元に人差し指を当てた。
……わかっているから、言わなくていい。
そのニュアンスのジェスチャーだ。
それがわかってしまって、ビューは盛大に溜め息を吐いた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
そう挨拶して、二人は別れた。
クリスは軽快にエレベーターに向かって走ってゆく。
ちょうどその時、今日は早めに着いたベビーシッターから、階下の門前で連絡があり、ジョージとルークが出迎えようと玄関を出たところだった。
すでにクリスはエレベーターに乗っており、この場にはいなかった。
ビューは指揮所になっている部屋の前で壁に寄りかかり腕を組んでジョージを見ていた。
ジョージはそんなビューに気が付く。
……前にアリスンが入って行った部屋の……主か?
自然と力が入り、視線が鋭くなっていた。
そんな様子のジョージにビューは笑いかけた。
「おはようございます」
「おはよう、ございます」
ジョージは警戒するような口ぶりになっていた。
そんな様子のジョージに、ビューは警戒する必要はないのだと再度笑いかけた。
「私と彼女の関係が気になりますか?」
ルークを抱き上げていた腕がピクリと動く。
「私と彼女は、知り合い以上の関係ではありませんよ」
ジョージは何も言わずに、視線だけをビューに向けていた。
「私は既婚者ですし、妻にぞっこんですから、ご安心ください」
いったい、何が言いたい?
ジョージはルークを抱き上げた状態で再度視線を鋭くした。
「あなたの知る彼女と、知らない彼女がいる。その両方の存在を丸ごと抱え込む覚悟がないのなら、彼女から手を引きなさい」
ジョージはそれを聞いて、はっきりと睨んだ。
「あなたに言われる筋合いの問題ではない!」
その視線をビューは正面から受け止めた。
「忠告は、しましたからね」
そう言ってビューは部屋の中へと消えて行った。
「おいたん?」
ルークが不思議そうな顔をしてジョージの顔を覗き込んだ。
「大丈夫、何でもないよ」
ジョージは子供の背中をポンポンとたたき、自分の気持ちも落ち着けた。
今日はあまり機嫌がよくないようだな。
――仕事に私情は持ち込まない。
それを常としているジョージだったが、クリスには隠しきれなかったようだ。
「ジョージ? お茶、お持ちしましょうか?」
「いや、今はいい」
そう言って決裁に取り掛かる。
だが、内心イライラが募るばかりだ。
どうして他人にあんなことを言われなくてはならない。
彼女があの男に話したのか?
いや、彼女はそんなことを話す人間ではない。
では、あの男は言わない言葉を感じ取ったとでも言うのか?
そんな微妙な関係なのか?
どんどん考えが深みに嵌まる。
決裁をサインしている手が止まって、カランと万年筆が手から落ちた。
アリスンが心配そうな表情をして見ているのがわかる。
それくらいは感じ取れるほどの関係になっていた。
「やはり、休憩を取りましょう?」
そう言って秘書席から立ちあがると、クリスは給湯室に消えて行った。
その後ろ姿を見て、ジョージは軽くため息を吐いた。
仕事に集中できない。これでは社長失格だな。
そう思っていた時……
ガタン!
社長室の奥にある給湯室から大きな音がした。
「どうした?」
声をかけて給湯室をのぞき込むと、そこには倒れたアリスンが居た。
「アリスン!」
急いで彼女に駆け寄った。
頭を打っていれば揺するのは危険だ。
肩を叩いて名前を呼ぶ。
返答がない。
ジョージは自分の顔が青ざめてゆくのを自覚した。
再度肩を叩いて名前を呼ぶ。が、やはり返答がない。
壁にある内線に手をかけて秘書室を呼び出す。
リーグルが応答に出た。
「リーグルか? アリスンが倒れた。救急を呼んでくれ!」
そう言って内線を切ると、また肩を叩いて意識を戻そうとする。
「アリスン!」
完全に意識がないようだ。
青ざめた顔をして、彼女が横たわっている。
起きてくれ!
ピクリとも動かない彼女に、手を離れていく恐怖に戦慄した。
僕から彼女を奪わないでくれ!
アリスンの手を握り、再度声掛けをする。
「アリスン!」
その時、リーグルが駆け込んできた。
「社長!」
給湯室に入ってきて、二人の状態を見る。回り込むとアリスンの足を持ち上げた。
「取りあえず、この状態で救急が来るのを待ちましょう」
そんな遣り取りをしている間に救急が着き、社内は騒然となった。
救急車に運ばれるアリスンに付き添おうとしたジョージだったが、社長室の扉の前でリーグルに止められた。
「なぜ止める?」
ジョージにはその理由がわからなかった。
「社長は社内に残ってください」
「!」
とっさに言い返そうと思っても言葉が出ない。
「彼女は一秘書にすぎません。その彼女にあなたが付き添ったら、それこそベルク氏に付け入る隙を与えます」
それを聞いて、一瞬ジョージの足が止まった。
が、再び歩こうとするジョージに、リーグルは再度待ったをかけた。
「それは彼女自身が望みません。ここは抑えてください」
それを言われてしまっては、ジョージは動けない。
「私が付き添います。状況がわかり次第、お知らせしますから」
そう言うと、救急隊員の後をついて行った。
クリスに下された診断はというと……「脳震盪」と「貧血」と「過労」と「睡眠不足」だった。
「過労、ですか……」
リーグルが納得できないような顔をした。
それほど彼女の負担になるほどの仕事を与えただろうか?
そうだとすれば、上司の自分のミスだ。彼女を過大評価して仕事を配分していたことになる。
「推測にすぎませんが、現在の状態からすると、主たる原因は睡眠不良の方でしょう。ここしばらくまともに寝られなかったのではありませんか? 脳波が弱いのもそれが一因でしょう。それともう一つ……」
そう言って、医師はピアスを手に取った。
「これから磁気が出ています。正常な状態なら負担にならないかもしれませんが、脳が弱った状態でこれをつけていたとなると、負担になっていたかもしれませんね」
その言葉にリーグルは驚いた。
「ピアスとは、それほど危険なものなのですか?」
自分はお堅い性格で、女性の装飾品のことには疎い。そこから出た質問だったのだが……。
「いえいえ、『この』ピアスが、言ってみれば異常だということです。普通はこんなに強い磁気は発しませんから」
「そうですか……」
一つずつ疑問を解消してゆく。
「それと、点滴には睡眠薬が含まれていますから、目覚めるのは夕方頃だと思います」
「わかりました」
医師に礼をすると、ベッド脇の椅子に腰かけた。
睡眠不良には……社長が関わっているんだろうな……。社長の様子が変わって、そのあと二人の間は表面上普通、裏ではガタガタまでとはいかなくとも様子が少し変わっていたから、なにかあったのだろう。
リーグルは、確かに社長のジョージを焚き付けた自覚はある。その時の顔を見て、社長は自分の感情を自覚したのだと理解した。
問題は、アリスンが自分の感情について理解していたのかという点。
アリスンのマンションに立ち寄った時の雰囲気から、社長に好意を持っていることはわかっていた。その思いがどのようなものなのか自覚があったのだろうか。こういった点は男性より女性の方が敏感と聞くが……。あいにく自分の専門ではない。わからなかった。
そんなことを思っていた時、クリスが目覚めた。
ゆっくり瞳を開け、天井の明るさにまぶし気に目を細める。
「気が付いたか、フォードラス」
その声で、バッチリと目を開け、声のした方角を見た。
そこにいる男は……。
「統括……」
ゆっくりと自分の状況を把握する。
ベッドに寝かされた体。点滴につながっている腕……。なにより体が怠い。
「……私、へまをやらかしたらしいですね」
「確かに『へま』だろうな」
どこまで意識があったのか自分の記憶を探ってみる。
ジョージが不機嫌そうなことに気が付いて、気分転換にお茶に誘ったんだ。
それで、給湯室に行って、お茶の葉を選んでいるときに……そこから記憶がない。
今の状況は、どう考えても病院に運ばれたといった感じだ。
というよりも、そうなのだろう。
……失態だ、大いに失態だ。
ベッドの横を見て、テーブルに置かれたピアスを見つける。
「え? ピアスが外されている?」
「頭の検査を念入りにすると言って外されたんだ。そのピアス、磁気が出ていて頭に負担をかけるそうじゃないか。別のものに変えたらどうだ?」
さらりと言われた言葉だったが、クリスはこれを聞いて、内心焦っていた。
ピアスが外されたら……ピアスから生体反応が検知されらくなったら……間違いなくビュー達に情報が伝わっている。これはマズい。非常に、マズい。絶対に、マズい。
クリスは起き上って、点滴の針を抜いた。
「おい、フォードラス。おとなしく寝てろ」
「おとなしくも寝てられません。仕事に戻ります」
そう言ってピアスを手にして素早く耳につけた。
「君が抜けた穴は、他の秘書が何とかやり繰りして対応している。とにかく休め」
本来なら有り難い言葉なのだろうが、クリスにとってはそうではない。
倒れたなんてビューに知れたら、それこそ司法省に問答無用でカン詰めにされる。
今の時点では、それは避けたかった。
「このままだと、自分で自分が許せなくなります。仕事に戻ります」
――強情だな。こんな面もあるのか。
そう感じたリーグルは、自分で抑えるのは無理と、病院内であるにもかかわらず通信機を取り出した。
「統括?」
それにはさすがのクリスも眉を顰めざるを得ない。
その視線に気づかないふりをして、リーグルは通信を続けた。
そして通信機をクリスに渡す。
訝し気に受け取りながら、通信機の受信ボタンを押した。
「アリスン、寝てろ」
ジョージの声だった。
「いえ、もうこんな失態は犯しませんから、仕事に戻ります」
「失態とかそんな問題じゃない。君には休養が必要なんだ。いいから休め。今日一日は病院に居ろ」
「そんな」
「これは社長命令だ、いいね」
そう言われてしまっては、部下である「アリスン」はどうすることもできない。
「……わかりました」
不本意ということを顔に大きく書いて、起き上っていた体を再び横にした。
「看護師を呼んでくる」
そう言ってリーグルはその場を一旦離れた。
ふう。
クリスは息を吐いてしまう。
何をやっているんだ、自分!
自覚以上に、体は参っていたということか。ということは、私は自分自身を過大評価していたというわけだ。これは考え直さなくてはならない。自分の限界点というものを。
そんなことをグルグル考えている時、リーグルが看護師を連れて戻ってきた。
「あら、点滴外しちゃったのね。戻さなきゃ」
そう言って再び腕に針を刺そうとしたとき、クリスが少し待ってほしいと言った。
「担当医と話が出来ますか?」
「今、別の患者さんと対応しているの。その後だといいと思いますよ」
「では、面談希望と伝えていただけますか?」
「ええ、わかりました」
そう言って、看護師は部屋を出て行った。
そんなアリスンを訝し気にリーグルは見た。
「何が聞きたいんだ? 医師の説明なら私が聞いている。私に聞けばいいだろう?」
確かにそうだ。普通なら。
だが、クリスは「普通」ではなかった。
「統括がお聞きになったのは、私が『過労』と『睡眠不足』で『貧血』を起こして、倒れた時に『脳震盪』を起こしたということではないでしょうか?」
……すべて当たっている。
リーグルは唖然としてクリスを見た。
「私が知りたいのはそのようなことではないのです」
それを聞いてリーグルの頭の中は疑問符だらけになった。
「何が知りたいというんだ?」
当然の疑問だろう。
「これの、中身です」
クリスが指をさしたのは、点滴袋だった。
倒れて病院に運ばれた患者の中で、いったい何人の者が点滴の中身を知りたいなんて言うのだろうか?
どうも、彼女の視点がわからなくなってきた。
仕事では、優秀すぎるくらいの存在なのだが。
――彼女はいったい何者だ?
以前の疑問がまたふっと湧き上がってきた。
そんなことを思っているとき、担当した医師が病室を訪れた。
「あれ? 睡眠薬も入れておいたんだけど、もう起きちゃったの?」
医師が驚いている。
「結構きつめの入れたはずなんだけどなあ」
医師は頭をかいている。思っていた状態と違うからなのだろう。
「先生、この中に何の薬物が入っているんですか?」
普通、こんなことは聞かれないのだろう。医師も驚いていた。
「……は?」
こんな感じで聞き返されてしまった。
そこでクリスは再度質問した。
「点滴の中の薬品は何ですか?」
その問いに医師はハッとして、患者の知る権利として薬剤名を教えようとした。
「君、カルテ見せて」
横にいた看護師にカルテを要求する。
看護師は慌てて医師にカルテを渡した。
「ええと、この中に入っているのは……」
医師が説明を始めた。
薬剤の名前を聞いて、それが何かわかるというのか?
素人からしたら、当然の疑問だ。
だが、「アリスン」にはわかっているらしい。フムフムいいながら聞いている。
「先生、睡眠系の薬、全部抜いちゃってください」
は? という顔を再度する医師。ぎょっとする看護師とリーグル。
そんな三人をにこにこ笑ってみるアリスン。
そこには異様な光景が広がっていた。
「でも、君の体には、今、睡眠が必要なんだよ?」
医師が慌てて言う。
「それはよくわかっています」
それなら、なぜこんなことを言うのだろうか?
「私、先ほど言われた薬の大半が効かないんです。特異体質なんでしょうね」
コロコロ笑って言う。そこは笑うところではないだろうというのが残りの三人の感想だ。
「ですから、睡眠を取ろうとするならば、自力で寝るか、物理的に意識がない状態にしてもらうしかないんですよね」
このセリフには、もう引きつり笑いするしかない。
「それよりも、この薬品を入れてほしいんですが……」
医師と詳しく話をしていく。
「……わかった。薬剤部に改めて手配を掛けるよ」
「よろしくお願いします」
手をひらひらさせて、医師と看護師は病室から出て行った。
「睡眠薬が効かないなんて、初めて聞いたぞ」
「ええ、そうですね、言ったことはありませんね。聞かれたことはありませんし、話すべき内容には当てはまりませんでしたから」
では寝る努力をしますと、クリスは目をつぶった。
昼の休憩時間になったからだろう。
ジョージが病院へやってきた。
病室の前にあった椅子に座っていたリーグルが立ち上がった。
「容体はどうだ?」
ジョージはそう問いかけた。
「大したことはないようです。通信でお知らせしました通り、「脳震盪」と「貧血」と「過労」と「睡眠不足」が原因で、本人も『寝る努力をする』と言っておりましたので、病室を離れました」
ジョージはほっと息を吐いた。
そして、リーグルが言った言葉を反芻する。
「脳震盪」と「貧血」と「過労」と「睡眠不足」……。
「僕は、彼女に負担をかけていたのだろうか?」
ジョージから気弱な声が聞こえた。こんな声はめったに聞くことがない。リーグルは驚いた。
「負担をかけた自覚がおありですか?」
その疑問に対しての回答は、無言だった。
……なるほど。
リーグルは理解した。負担をかける台詞を言った自覚があるらしい。
「あなたのお気持ちを、伝えられたのですね?」
それは確認だった。
「……ああ」
それについては隠す必要がないと思ったらしい。素直に返答をした。
では……とリーグルは考える。
傍から見れば、もう夫婦と言ってもいいような無自覚なやり取りをしていた二人。
それを現実にしたいと言って、なぜ彼女が負担に思うのか?
負担に思うとなれば、それは「実現できる」という感情と「実現できない」という感情の狭間に立った時だ。
なぜ「実現できない」と思い悩む必要があるのだろうか。
ベルク氏の存在か?
確かにあの御仁は厄介だろう。でも、彼女は口先だけで追い払っているし、社長自身も身内ではないと公言している。
他に何か要因があるというのだろうか?
社長のご子息に関しても、彼女は承知だ。その子供とは良好な関係にあると聞いているので、この件ではないだろう。
では、社長個人の問題か? だが、個人に対して嫌な思いがあるなら、毎日もっと冷えた、事務的な秘書と社長の関係になっているはずだし、休日に会ったりはしない。ましてや、自分の住むマンションを居住場所として紹介はしないだろう。
ならば、社長という立場に影響を受けたのだろうか。いや、彼女は社長の立場というものをよく理解している。でも、だからこそその隣に立つにはふさわしくないと、身を引こうと考えたのだろうか。それなら考えられる。
だが……とリーグルは思う。彼女なら社長の隣に立っても遜色はない。会社のことも、社長のこともよく理解している。身を引こうと考えているなら、それは自分を過小評価していると言わざるを得ない。彼女と社長なら、お互い支えあってやって行けるのではないか。そう思った。
「もう一度、よく話し合ってください。彼女に負担をかけたと思われるなら、その負担を取り除く努力をすべきです。私に言えるのはここまででしょう。社長、この後、お任せしてもよろしいでしょうか?」
その問いに、ジョージは無言で頷いた。
「では失礼いたします」
そう言って、リーグルは病院を離れた。
コンコン。
小さなノックをして病室の扉を開けた。
病室にいた人物は顔を向けた。
「社長……」
と声をかけてきた。
「寝てなきゃダメじゃないか」
そう言ってベッド脇に来るとクリスの頬に触れた。
「よく休んでくれ」
ジョージの手の触れ具合が気持ちいいのか、クリスは黙って目を閉じていた。
しばらく頬を撫で、その撫でる手にクリスの点滴をした手が触れた時、ジョージは「アリスン」に質問した。
「僕の気持ちは……僕の伝えた気持ちは……君にとって負担だったのだろうか?」
ジョージはストレートに問いかけた。
これでは誤魔化しが効かない。クリスはジョージの手に添えていた自分の手に力が入るのを自覚した。
もっと湾曲的に問いただしてくれていたのなら、違うように意味をとらえたふりをして逃げることが出来たのに……。
それが出来ない。
もう、正直に「自分は貴方にふさわしくない」と言った方が良いのかもしれない。
ずるずるとこの関係を続けるよりもその方がお互いのためだろう。
お互いの、ためだろう。
そう決心して、クリスは目を開けた。
ジョージの手に添えていた手を放し、横になっていた体の上半身を起こした。
「横になっていなくてはだめだ」
そう言って両肩に手を回したジョージの瞳を、クリスは見つめた。
「ちゃんと貴方と話がしたいの」
合わせた瞳を逸らすことなくじっと見つめる。
ジョージは根負けした。
「……わかった」
肩から手を離すと、ベッドに座っても良いかと質問し、了承を得てから腰を掛けた。
ジョージは静かに「アリスン」の言葉を待った。
「私は貴方の気持ちにこたえることはできません」
その言葉を聞いて、ジョージは黙って目を伏せた。
「なぜか、と、聞いてもいいだろうか」
クリスはどういえばいいのか迷った。自分の本当の立場に触れずに、自分の気持ちを伝えるにはどうしたらよいのだろう。
結局、クリスに言えたのはこの一言だった。
「私の身は偽りだらけ。幻……。貴方に想っていただくような価値はないわ」
その言葉に反応したのはジョージだった。
偽りだらけ? どういう意味だろうか?
そこにふっと思い出したのは、あの、苛立ちを覚えた男の言葉。
――あなたの知る彼女と、知らない彼女がいる。その両方の存在を丸ごと抱え込む覚悟がないのなら、彼女から手を引きなさい。
知らない彼女がいる。そういう意味なのだろうか。だが……。そんなことでは自分は揺るがない。彼女が自分の手から離れる恐怖を味わったばかりだ。そんなことでは揺るぎはしない。
「確かに、僕には見えていない『君』という存在があるのかもしれない。だが、それが何だというんだ? 君の本質は変わらないのではないか?」
「本質?」
何が言いたいのだろうか?
クリスはジョージの瞳を見つめた。
「そう、本質。君の根本にあるものだよ。優しくて、でも厳しさもあって、思いやりがある。向上心もあって知識を求めることにどん欲なこと。でもそれでも周りを見ることを忘れない。助けを求める手があれば差し伸べる。そんなところは変わらない。変わらないんだよ」
その言葉にクリスは驚いた。そんな風に見ているとは思わなかったからだ。
「美化しすぎよ。私はそんな風に言ってもらえるような資格はないの」
悲し気に目を伏せた。
「資格なんて……」
資格なんてものそのものが存在しないと言おうとしたが、彼女の表情はそれを許さなかった。
「私は、醜い。汚い。貴方の横に立つにふさわしい女性が他にいるはず」
――醜い。汚い。
彼女が自分をそう自己評価しているとは思わなかった。
「確かに君にも、醜い、汚い部分があるのだろう。だが、それが何だ? 綺麗なだけの人間なんていない。当たり前のことだ」
ジョージはさらっと言った。
自分のことを受け止めると、そう言いたいのだろうか。
だが、クリスにはどうしても頷けなかった。
「貴方の見ている『アリスン』は幻。幻なの」
いつかは醒める夢。そうなのだ。
「君は今目の前にいるじゃないか。『幻』なんかじゃない。現実なんだよ」
それに頷くことはできなかった。
「アリスン!」
ジョージはクリスを抱きしめた。
だが、いつかのように、クリスは抱きしめ返すことが出来なかった。
ピーピーッ
腕時計のアラームが鳴る。
昼の休憩終了の合図だった。
「まだここに居たいが……今日は会議があるから戻るよ。とにかく、君は休んでいてくれ。君は今日病院に泊まりだから、それは譲れないよ。夕方また来る」
そう言って、ジョージは慌てて病室から出ると、会社に戻って行った。
少し時間をおいて……。
病室の外に人の気配を感じてクリスはこう言った。
「入れ」
そこには、司令補二人が立っていた。
ビューとファランドである。
入室しろとの言葉に、二人は素直に従った。
その二人に、クリスは謝罪した。
「いらぬ心配をかけたな」
二人は黙ってクリスを見つめた。
検査のため化粧が落とされていたので、クリスは素顔の状態だった。
顔色はあまりよくない。
だが、ビューから見ると今朝よりは「マシ」だと思えるのだ。
「半強制的に眠りについたからな。今朝よりは『マシ』だろう」
ビューの言いたいことを読み取ったのか、そう言った。
「私は自分が考えていた以上に『バカ』だったらしいな。おっと、小言は言うなよ。自覚はあるのだから」
クリスは両手を挙げておどけて見せた。
「司令……」
「司令ちゃん……」
二人は言葉もないようだ。
「さて、午後の時間が空いた。報告を聞こうか」
クリスが体を乗り出した。
「ちょっと待ってください、司令。貴女は倒れたんですよ。それを自覚してください」
「司令ちゃん、無理しちゃダメだってば」
二人は静止にかかる。だがクリスは受け入れなかった。
「休めというなら、この任務の後の強制休暇でいくらでも休める。今は仕事が先だ」
それは自分の「私」の部分を完全に排除した「司令」の姿だった。
そんな彼女が痛々しく見えるのは自分だけなのだろうか?
ビューは自分の横に立つファランドを見た。
彼もまた自分と同じような表情をしている。
口惜しさのにじみ出たような顔だった。
今朝の彼女はもう少し人間らしかった気がする。
それがどうだ、今は……。
能面のような顔をしている。
それは、完全に自分を切り捨てた顔だ。迷いを断ち切った顔だった。
「私がナノエックスフリーダム社から引き出せる情報はもう無いだろう。私の決断が遅かったせいで君たち二人には負担をかけた」
クリスは二人の顔を見た。
「指揮所に戻る」
そう言うとベッドから立ち上がった。
「ちょっと待ってください、司令」
「司令ちゃん!」
二人が声を上げる。
「貴女はそれで本当に良いのですか? 自分を殺すことはないのですよ」
「司令ちゃん、自分に素直になって!」
それぞれが思い思いの言葉を掛けた。
だが……。
「いったい、何のことだ?」
二人の言葉はクリスの上を素通りして、かすりもしなかった。
「私の取るべき道は決まっている。なら、その道を進むまでだろう」
彼女は悩んでいた感情を全部捨てた。
いや、迷っていた自分そのものをそっくり捨てた。
二人はそう悟ってしまった。
彼女の決断が悲しいと感じた。悔しいとも思う。そうさせたのが自分たち、いや、「司令」という立場だということに。
「貴女は悲しい人だ」
ビューは言う。
「そんなに我々が信用なりませんか、頼りにはならないのですか。『貴女』は『貴女』で居ていいんです。貴女の育てたチームです。その辺の者が束になってもかないません。そのチームさえも信じられないのですか?」
ビューの言葉は切実だ。だが、クリスは頷かなかった。
「私が『個』であることとチームは別だろう。君が言う通り『我々』が育てたチームだ。頼りにしている。でなければ、今回のような捜査は任せられない。事件解決に『私』が邪魔ならば、『私』を切り捨てる。それが私の『覚悟』というものだ。簡単なことだろう」
もう、何を言っても無駄だ。
彼女は「自分」を捨てた。切り捨てた。
すべてを捨てたものは強い。だが悲しい強さだった。
「君らはセキュリティにかからないルートで来たのだろう? ならば脱出口もあるな? 着替える。部屋を出てくれないか?」
そう言っている先から病衣服を脱ぎにかかる。
二人は黙って部屋を出た。
「主席、どうしますか?」
ファランドがそう問いかけた。
質問を投げかけられたビューはそれに答えず、黙って手を握りしめた。
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