第二十四章 自分と向き合う

 グッズモンドにあるマンションに戻ってきたクリスを待っていたのは、子供の大きな鳴き声だった。

「あーたん」

 ぐずぐずと泣きながら、ルークが抱き着いてきた。

 この様子から思わず思ってしまった。

 あー、よかった! ビューとグッズモンドについてから別行動していて。

 万が一と言うことを考えて、宙港に着いた時から知らぬ存ぜぬの関係を通していたのだ。

 マンションに帰ると、部屋の扉に張り紙が……。「帰ってきたら、一度顔を出してくれないか」のメッセージ。

 ぐずるルークに手を焼いたジョージの姿が浮かび、自分の部屋には入らずに、隣の部屋のインターフォンを押した。

 そこで冒頭の状況になったわけだ。

「あーたん、いなくなった、やー」

 ルークがクリスの足にがしっとしがみ付いて離れない。

 えっと、これはどういうことだろう?

 助けを求めてクリスはジョージを見た。

 そこには困り顔の彼がいた。

「今日、君は出かけていないと伝えたら、ルークの中では『ずっといない』に変換されていたらしくて、今日一日、こんな感じだよ」

 それで、この様子なのか……。

 自分に執着を持ってくれるのはうれしい。が、その後に訪れる避けられない別れが来ることに、クリスは悲しくなった。

 ジョージとルークに気づかれないように、足元の小さな子供を抱きしめて誤魔化した。

「あーたん、泣いてーの?」

 ルークは敏い子だ。この年で両親を亡くしていることも関係しているのだろうか。

 人の心の機敏に敏感に反応していた。

「かなちーの?」

 舌っ足らずな言葉で、でも懸命に聞いてくる。

「ううん、悲しくないよ」

 慌ててクリスはそう言った。

「じゃあ、どうしてないてーの?」

 再度問いかけてきた。

「うれしいからかな?」

 クリスはそう答えた。

「うれしーの?」

 クリスはルークに目を合わせ、頬を撫でながら言った。

「うん、うれしい」

 どうして? 声にならない言葉が瞳からあふれていた。

「ルークが、あーちゃんを大事だと思っていてくれるからだよ」

 床に両ひざを付けた状態で、抱きしめながらそう言った。

 ジョージはそんな二人の姿を、ただ見守っていた……。


 ルークはクリスからクレイフィルのお土産を貰って、ひとしきりご機嫌で遊んだ後、コテンと寝てしまった。ジョージが拍子抜けするほどに。

 二部屋あるうちの一室をルークの部屋として充てていたジョージは、ベッドに寝かせるとリビングにやってきた。

 それに合わせて、クリスはキッチンを借りてお茶を入れていた。

 テーブルに着くと「どうぞ」とお茶が出される。

 自然なその流れに、ジョージは自然と笑みを浮かべた。

 二人は座って、お茶を堪能する。

 ルークのいないこの時間は二人で過ごす時間になっていた。

 向かい合わせの席で紅茶を口にする。

「君が居ないと、ルークは大変だよ。おっと、君にもベビーシッター代を払わなくてはならないかな?」

 半分冗談で、半分本気での台詞だった。

「いりませんよ。受け取りませんから。ルークは可愛いし、私も癒されているんです」

 紅茶を飲みながらクリスが言った。

「本当かい?」

「本当です」

 小さな子供の話題になる。

 子供が起きない声の大きさで、でも相手にははっきり聞こえる大きさでお互い語る。

「ルークと君、とても似合っているよ。君は子供が欲しいとは思わないのか?」

 自然な流れでこの話題になった。

 クリスはどきりとした。

「私が、子供、ですか?」

「ルークと君の様子を見ていて思ったよ。君は母親としてもやっていける、いい親になると思ってね」

 その言葉を聞いて、クリスはどう言おうか考えた。

「……私は、子供を持てるとは考えていません」

 重い台詞になってしまったと思う。本当なら「いつかは……」と言うべきなのだろう。だが、ジョージに嘘はつきたくなかった。すでに「アリスン・フォードラス」という大きな偽りの自分を見せているのだから。

 女性としては、いつかは……と思うものかもしれない。が、クリスは今「連邦特別司法官」と言う立場にある。その中でも上位の「司令」でもあり……。立場による危険を考えれば、自分は子供を産むことも、育てることも難しいと考えていた。

「君は、ルークとうまくやっているじゃないか?」

 二人の関係を見る限り、ルークは「アリスン」にべったりだ。

 両親がいない今、ルークは心から甘えられる存在が限られる。その中に「アリスン」も含まれているのだ。その状況を見れば、「アリスン」と子供は相性が良いとも思えるのだ。

「私はたとえ子供の相手が出来たとしても、育てるのは無理です。もうこの話題はやめましょう」

 クリスははじめから諦めの表情でこの話題を切った。

 ジョージは納得できないながらも、彼女が嫌だと言うのならと、別の話題に切り替えた……。


 はー。

 クリスは自分の部屋に戻ると、壁に寄りかかり、ずるずると重力に逆らわず下に落ちて床に座り込んだ。

 この頃、あの二人を相手にするのはキツイ。罪悪感がもたげてしまう。二人が良い人、良い子だからなおさらに。

 一体いつまで続ければよいのか。

 仕事だと割り切ればいい。だが出来なかった。気持ちがそれを許さない。

 いっそのこと、すべて投げ出して消えてしまいたい。

 そう思ってしまうのだ。

 これは逃げだ、ということはわかっている。

 だが、クリスはこの時、自分の気持ちと向き合うのが怖かった。

 大物政治家や法律家と対等に渡り合うクリスが、自分の気持ちが怖かったのだ。

 自分と向き合うことができない。

 クリスは考えることをやめることで、その事実から目を背け、シャワーを浴びに行った。


 就寝のためシャワーを浴びて寝室に入ると、ベッド脇のテーブルに置いた通信機の着信ランプが点滅していた。これはビューからの着信を知らせるものだった。

 一体、何だ?

 通信を開くと、直接指揮所でデータを見てもらいたいとの用件が文章として表示された。

 通信回線では開示できない内容なのか?

 疑問を持ったが、とりあえず状況を確認しようと、クリスはビューのユニットが使用する部屋へと向かった。文面に急ぎとの記載はなかったが、緊急の案件では困るからと、シャワーで濡れた髪のまま首にタオルを掛け、部屋着、部屋履きのまま玄関を出て行った。

 たまたま車に忘れ物をしたからと、部屋から出てきたジョージがすぐそばにいて後姿を見ているとは気づかずに……。


 アリスン?

 ジョージは疑問に思った。

 こんな夜更けにどこへ? それもそんな姿で……。

 ジョージが一回だけ見たことのある姿だった。

 アリスンがルークを入浴させたときに一緒に入ったのだと、濡れた髪と柔らかな部屋着で玄関に出てきて……。

 そんな気を許したような恰好は、彼女は自分に一度しか見せたことがなかった。

 なのに……。

 そんな姿で……。

 どこへ行くんだ?

 ジョージはイラついた。

 ジョージがそっと見つめる先で、アリスンは斜め向かいにある部屋のセキュリティ装置に手をやった。

 掌紋を読み込ませたうえで暗証番号を入力する。

 シュン!

 扉が開いた音がして、アリスンがその部屋の中へ消えた。

 掌紋が登録されていて、暗証番号を知っている?

 ということは、その部屋の主とアリスンは深いつながりがあるということだ。

 どういう関係だ?

 自分たちは部屋の行き来はあるが、掌紋を登録したり、暗証番号を教えあったりはしていない。

 あくまでも一線を引いた間柄だった。

 相手のプライベートに深く入り込む、そんな領域までお互いに踏み込んだことはなかった。

 自分たちの関係がなんだか薄っぺらのような感じがして、ジョージは気分が悪くなった。

 一体何なんだ、この感情は。

 湧き上がったどす黒い感情を持て余し、不快を感じてジョージは見なかったふりをし、その場を去った。


 ビューのユニット指揮所に入ったクリスは、通信の件で説明を求めだのだが、その前にストップをかけられた。

「何だ?」

「髪を乾かしてください。急いでお越しになったのはわかりますが、風邪をひかれては困ります」

 まったく、この司令補は……とこぼしながら、首に巻いたタオルで髪を拭き始めた。

「で? 何があった」

「科学分析部からの報告です。分析結果の整合性を確認するために時間がかかったとのこと、申し訳ないと申し添えていました」

 指揮所のモニターに表示された情報を手早く見る。

「指紋の持ち主が全員判明したか」

「はい」

 クリスは正面のモニターに目を向けた。

 モニターには指紋の持ち主の顔が表示されている。

 その中にはマンソンの顔もあった。

「全員この一年の間に事故死しています」

「もっと端的に言えば、マンソンの死亡と前後して二か月の間だな」

「はい」

 部屋の中には重苦しい空気が流れた。

「大した偶然じゃないか。八人の科学者が二か月の間に事故死とは。それもバイオセーフティレベル4ウイルスを扱える科学者が揃ってこの世を去るとはな。まったく、呆れたよ」

 偶然にしては出来すぎている。これは九割九分故意によるものだ。クリスはそう確信した。

「専門は何だ?」

「八名中六名が『ベラロイスウイルス』の専門家です」

 捜査官が答えた。

「そうか……」

 クリスは腕を組んで画面をにらんでいた。

「予測が正しければ、この八人、一緒に居るな。生存していて、どこかに捕えられて……研究を強要されている……と考えられるが……。胸糞悪い」

「全くです」

 話を聞いていた捜査官たちも顔が青くなる。

「モルモットになってはいないが、奴隷にされていることは考えられるな。研究者をコレクションして愛でているのでなければ必ずな」

 嫌な空気が流れた。

 この八人、死亡した場所がバラバラだ。この人物たちを事故死に見せかけて秘密裏に誘拐して……輸送し隠せる場所とはどこだ? 研究員として当たらせていることは想定内だが……。

 クリスが考え込んでしまった。

 その様子をそっと見守る捜査官たち。

 クリスの一言で捜査の方向性が決まる。

「バイオセーフティレベル4を扱うことのできる施設を用意したと考えれば、それなりの設備投資が必要になる。そこを追ってくれ」

「了解」

 情報分析官が、ネットワーク上の情報の海に飛び込んだ。

「郊外の広い土地も必要だ。ここ数年で動いた不動産を全部調べろ」

「了解」

 別の捜査官がまた情報の海にもぐりこんだ。

 まだ、何かありそうなんだが……。深い闇の前で止まっているようなそんな気がする。

 クリスはそう感じていた。

「資金はどこから調達しているんだ?」

 通常とは別の金の動きがあるはずだ。それも巨額な資金が。

「こっちもキナ臭くなってきたな……」

 その言葉には答えず、ビューはクリスに尋ねた。

「金の流れを追いますか」

 その質問に、クリスはすぐには答えなかった、

「……いや、君たちは、まず、先ほどの件を捜査してくれ」

「了解」

 その言葉を聞いて、クリスは一旦自分の部屋に戻った。


 クリスは正直、頭がパンクしそうだった。

 クレイフィルの事件と、こちらのグッズモンドの件、そして自分の気持ち……。

 みんな放り投げて逃げ出せたなら、どんなに楽だろう。

 でもそれはできなかった。

「重症だな」

 自分でも馬鹿だと思う。

 仕事に集中しなければ……。

 そう思うのに、それが出来ない。

 感情が邪魔をする。

 ベッドに横になったが、眠れそうにない。

「私は、馬鹿だ……」

 その呟きは、宙に消えた。


 翌日、出勤して書類を整えていると、ジョージが出社してきた。

「おはようございます」

 いつものように挨拶をする。

「……おはよう」

 返答から不機嫌さが伺える。

「社長、どうかなさったのですか?」

 昨日ジョージに見られていたことを知らないクリスは、不思議そうに質問した。

 夜中、ルークが目を覚ましてぐずったりしたのだろうか。

 思い当たることはそんなことぐらいだ。

 ジョージとしては、普段と同じように接したつもりだったのだが、心の機敏を感じ取れるくらいには親しい間柄となっていたようだ。

「いや、何でもない」

 それが嘘なのはわかる。

 だが、触れられたくはないようだ。

 クリスはそう判断した。

「今日の予定はどうなっている?」

「はい」

 クリスは秘書として、社長の予定を読み上げた。

 ……いつもより会話が極端に少ない室内。

 それがこれほど居心地悪くなるものだとは思ってもいなかった。

 空気が冷たい。

 室内はいつもと同じ温度に設定されているというのに……。漂う雰囲気が冷たいのだ。

「アリスン。すまないが暫く一人にしてくれないか」

 拒否を許さない、拒絶の声だった。

 何が彼の気に障ったのだろうか。

 クリスには見当もつかない。

「わかりました」

 そう言って一礼をすると、クリスは静かに社長室から出て行った。


「……くそっ」

 ジョージは苛立ちを隠せなかった。

 アリスンは悪くない。

 彼女に非はない。

 なのに苛立ちをぶつけてしまった。

 彼女はどう思っただろうか。

 自分はおかしい。

 そう自覚していた。

 昨日、夜更けのあの彼女の後姿を見てから……。

 なぜ気になるんだ?

 気になるなら聞いてみればいい、言ってみればいい。

 昨日の夜更け見かけたが、あんな姿では風邪をひくぞ、と。

 それが出来ない。

 なぜ出来ないんだ?

 彼女は秘書で、自分はその上司の社長。

 休日はルークを挟んで友人として交流はあるが、それ以上のものはない。

 だが、昨日のアリスンの行動を見て、自分は今の関係が薄っぺらいと感じた。

 では、どんな感じだったら自分は納得できたんだ?

 自分がどうしてこんなにも気持ちがかき乱されるのか、わからなかった。


 その頃……。

「社長から部屋を追い出された?」

 秘書室に入ってきたクリスに秘書統括のリーグルが確認してきた。

「一体何があったんだ」

「わかりません。いつもより言葉少なげで、うまく隠されていますが、不機嫌です。雰囲気も悪くて……暫く一人にしてくれと、そう言われまして……」

 クリスは困惑している。

「正直申し上げますと、今日の社長の補佐は、私ではない方が良いと思います。私はここで書類を整えますので、統括、お願いできませんか?」

 リーグルは考えた。

 今まで順調と言ってよいほどだった二人の関係が崩れたのはなぜだ?

 フォードラスに覚えがないとすれば、社長の方の問題か。二人はまだ若いし、すれ違うこともあるのかもしれない。

 緩衝材も時には必要か……。

「わかった。今日は私が社長の補佐をしよう。だが、今日だけだ、わかったな」

「はい」

 これによりクリスは今日一日、秘書室で過ごすことになった。


 秘書室は統括を除けば、女性ばかりだ。

 重役秘書二人、研究員秘書二人のこじんまりとした部署だった。

 クリスは秘書になってからずっと社長付きであったため、彼女たちと話をするのはほとんど初めてと言ってよい。

 部屋の中に女性陣だけとなったなら、おしゃべりは必須だろう。クリスも否応がなく巻き込まれた。

「社長ってどんな感じなの?」

「やっぱり仕事中は必要なことはしゃべりませんって感じで、寡黙なのかしら?」

「いい男が寡黙って、素敵じゃない?」

「確かに社長って、必要なこと以外にあまり話さない感じよね」

 ……いったい誰のことを言っているのだろう。

 クリスはそう思う。

 ジョージは自分との意見交換を楽しみにしている節があるし、冗談も言う。お茶タイムでは雑談も話す。……少なくとも「寡黙」ではないはずだ。

「で、フォードラスさん、どうなのよ?」

 どうなのよって……。

 か、回答に困る。

 視線が自分に集まっているのが痛い。居心地が悪い。

 クリスはそう感じていた。

 返答をしなければどこまでも逃がさないぞと言う視線。

 クリスは折れた。

「社長は別に寡黙ではありませんよ。普通に意見交換をされますし、雑談もしますよ」

 えーっ!

 そんな声が上がった。

「ねえねえ、意見交換ってどんなの?」

「雑談ってどんな感じ?」

 興味津々の様だ。

 だが、いつまでも付き合っているのは時間がもったいないし、クリスは正直、この女子の集まりの会話が苦手だった。

 彼女らがツッコミできなくなるような返答をすれば、この会話は収まる。そう考えてクリスはこう一言。

「主に法律関係のことを相談されますね。連邦法と州法の違いとか、法の解釈について意見を求められ、それについて話します」

 にっこりと笑って言った。

 この笑顔は一種の壁だ。これ以上質問しても無駄ですよと含んでいる顔だ。

 彼女らは残念ながら法律の専門家ではない。

 この言葉を聞いて、静かに引き下がった。

 クリスとしては、やっと興味の対象から外れると、ほっとして仕事にとりかかった。


「失礼します」

 この言葉を聞いて、ジョージは顔を上げた。

 入室してきたのは、秘書統括のリーグルだった。

「何かあったのか?」

 現在、この男が社長室に来るときは、重大案件があった時になっていた。

「いえ、特にこれといったことはありません。フォードラスと代わりました」

 ジョージは首を傾げた。

「君を呼べと言った覚えはないが……」

「ええ、呼ばれてはいません。フォードラスと補佐を交代しました」

 ジョージは眉をしかめる。

「交代?」

「社長は自分が居ると不快に思われているようなので、今日は交代した方が良いのではないかと相談を受けました」

 ジョージは彼女の気遣いを有り難くも思い、また不快にも思った。

 この二背側面(アンビバレンツ)な感情をどうしたらいい?

 自分を美化するわけではないが、周りの反応を見ると、自分は標準以上のルックスがあるらしい。その顔目当てで寄ってくる女は多かった。

 学生時代に起業していて、その背景に惹かれて寄ってきた女もいた。

 そんな女性との交際も面倒なものと感じていて避けていたのも現実だ。

 ジョージは今までほとんど仕事一筋に生活してきた。

 そのツケがここにきて一気にやってきたのである。

「フォードラスは自分に何か落ち度があったのではないかと、随分気にしていました。彼女の何がお気に召さなかったのです?」

 リーグルは探るように目を向けた。

「気に召さないとか、そんなことではない」

「では何があなたをそんなにイラつかせているんですか」

「っ!」

 ジョージは息を飲んだ。

 リーグルから見たら、ジョージはどう見ても恋愛に苦悩している男だ。

 彼が恋愛関係に背を向けてきたことは知っている。

 彼の表面的なところやバックグラウンドに引かれてやってきた女が多かったのは、彼が自分の表面だけ見せて、内面を見せることがなかったからだ。

 そんな彼が初めて興味を持ったのがフォードラスだった。

 彼女は人の表面を見ない。内面をよく見る。

 知識も豊富で、社長の荷を軽くするだけの力もある。

 彼が惹かれるのももっともだ。

 だが、状況を見るに、彼はそのことを理解していない。気持ちに整理がついていないのだ。

 完全に今までの行動は無自覚だと気が付いて、リーグルは一つ息を吐いた後、上司である彼に本来であれば言えないようなことを言った。

「今回は、部下としてではなく、一人の年長男子として言わせて頂きます。今、貴方の本心はどこにありますか?」

「何?」

「今、貴方の心をとらえて離さないものは何ですか? そして無くしたくないものは何ですか? その状態では仕事にならないでしょう。今日は午前中、誰も入れさせません。よく考えてください。ご自分の気持ちと向き合ってください」

 そう言うとリーグルは静かに礼をして、社長室を去って行った。

「自分の、気持ちか……」

 今自分の中にあるのは、仕事のことではなく、彼女、アリスンのことだった。

 なぜ、自分が彼女を採用しようと思ったのか。

 自分の上っ面や社長と言う立場にも動じす、向上心を持った女性。

 義理の息子のルークに対して嫌な顔をせず対応し、可愛がってくれるその姿。

 そこに偽りのものはなく、心から大事にしてくれていると分かるその態度。

 自分に向ける目や態度に誠実さを感じ、暖かさがなかったか。

 自分に向けられる目をうれしく感じなかったか。

 他人に向けられる目に、不快を感じなかったか。

 誰かと深い関係にあると想像して、どす黒い感情に支配された。

 それはなぜなのか。

 ジョージは一人になった部屋で考え続けた。

 自分の無くしたくないものは何か。

 それは、甥で自分の息子でもあるルーク。

 そして、その隣には、いつも彼女がいてほしい。

 そう思ってはいなかったか?

 彼女の目がいつも自分を向いていて、同じ方向を見つめてほしいと思っていなかったか。

 彼女の笑顔を見たい。

 もし泣くようなことがあれば、その時は自分の胸で泣いてほしい。

 手を放したくない。抱きしめたい。

 そうだ、自分は……。

「彼女が、好きなんだ」

 口からぽろっと出た言葉に、自分で驚き、そして納得してしまった。

「ははっ、こんなことに今頃気づくなんて……」

 自分の鈍さにあきれながらも、自分の中に出来た結論をかみしめた。

 気持ちを自覚したからには、手を伸ばして、君をこの手に抱きしめる。

抱きしめてみせる。

 今の自分と同じように、窓から晴れ渡った空を見て、ジョージはそう決心した。


 クリスは秘書室で仕事に没頭していた。

 クリスの席は本来秘書室にはない。

 社長室の秘書席を使っているからだ。

 よって、この部屋に机はない。

 予備の机を借りて、仕事にあたっていた。

 はじめは話しかけてきた秘書たちも今は口をつぐんでいる。

 彼女の席にある法令集の山がそれを許さなかった。

 持ち上がってきた議案書を見て、何が州法に触れるのか、社則に触れるのかを付箋紙でメモ書きしてゆく。

 法令集を開く音、メモする音のそのスピードが彼女たちを拒絶していた。

 そこへリーグルが戻ってきた。

 統括席に座るとクリスを呼んだ。

「お呼びでしょうか」

「社長が午後すぐに仕事に取り掛かれるよう準備してくれ」

 暗に午前は仕事なしと言っていることに気づかないクリスではなかった。

「わかりました」

 そう言って席に戻るクリス。

 再び作業にかかるその様子を、リーグルは気づかれないように観察していた。


 クリスは視線を感じていたが、それは女子社員のものと思っていて、まさか統括が見ていたとは気づかなかった。

 重役秘書から回ってきた決裁書類を分野ごとにまとめ、特に外部の行政関係に提出する書類に関してチェックの重点を置いていた。

「すみません、この部分修正願えませんか?」

「え?」

 クリスに回した書類が社長の元に行く前に返された。

「社長決裁に回る前に修正してほしいのです。その方が決裁は早く下ります」

 返された秘書は呆然としていた。

 自分たちは内容まで把握していない。上司の予定管理や取り次ぎや雑務が仕事であって、仕事の詳しい内容の把握はしていない。仕事外だ。

「フォードラスさん、あなた、細かい仕事の内容まで把握しているの?」

 その疑問にキョトンとして、クリスはこうのたまった。

「え? 把握していなくて、補佐できるんですか?」

 これにはリーグルも苦笑せざるを得ない。

 そこまで求めては、他の秘書たちにとって酷だろう。

 フォードラスは、秘書検定一級を持ち、かつ、弁護士資格を目指して勉強中の身だ。

 土台が違うと言わざるを得ない。

 あの社長についていくには、ここまでの技量が必要だと暗に示したことになる。

 ポカンとした秘書たちを前に、クリスは何でここまで驚かれるんだと、逆にどうしていいのかわからなくなっていた。

「フォードラス、私が見よう」

 そう言ってリーグルが書類を受けった。

「ああ、確かにそうだな。ほかにもあるか?」

「はい」

 そう言って、修正が必要な事案を統括の前に並べる。

 小さなことだ。

 だが、修正しなければ、後日より大きな訂正が必要となることが目に見えていた。

「私から修正するよう手配しよう」

「よろしくお願いします」

 唖然とする秘書たち四人の視線を受けながら、クリスとリーグルはそう会話をしていた。


 お昼間近になり、リーグルは社長室に顔を出した。

「落ち着かれましたか?」

 顔色が違う、表情が違う。

 リーグルは彼が結論を出したと感じた。

「ああ、すまなかった。君の言いたいことはわかったよ」

「そうでしたか……」

「随分ヤキモキさせたのではないか?」

「まったくです」

 リーグルが否定しなかったことに、ジョージは苦笑する。

「彼女に関しては、焦らずゆっくり攻略していくことにするよ」

「そうですか……」

 二人はこんな会話をしていた。

 これから来る未来を夢見て……。


 だが、嵐がもうすぐそこまで来ていることには、誰も気づいていなかった。

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