第二十二章 子供ってすごい

「あーたん」

 マンションでシャワーを浴びて着替えたクリスは、会社の社長室に向かった。

 部屋をノックして扉を開けると、小さな子供の声がそう呼びかけてきた。

 クリスはにっこり笑うと、駆け寄ってきたルークを抱き上げた。

「あーたん、おかーり」

 お帰り、と言いたかったらしい。

「ただいま、ルーク」

 そう、クリスは返事した。

 その返事を聞いて、ルークは笑顔になった。

「あーたんといると、ぼく、うれしー」

「あーちゃんも嬉しいよ」

 抱き上げたルークにおでこを付けてそう言った。

 そんな二人を、ジョージはただ黙って見守っていた。


「どうしました?」

 クリスが視線を感じてそう尋ねた。

「……いや、なんでもない」

 ジョージは視線を逸らしてそう言った。

「?」

 クリスは疑問符を飛ばす。

 ジョージとしては何も言えなかった。

 ルークとクリスの、二人の光景に見とれていたなんて……言えない。

 年若い母親の慈愛の微笑みに、笑顔で答える息子。

 そんな感じに見えたなんて……言えなかった。

 自分とクリスは、社長と秘書の関係。

 それ以外の関係ではない。

 それ以外の関係は、ない、はずだ。


「社長?」

 様子がおかしいと感じたクリスは、どうしたのかと再度問いかけた。

「なんでもない」

 また、同じ回答が返ってきた。

 そんな時……。

「ひゃひょー?」

 聞きなれない言葉を聞いたようで、ルークはその言葉を口にした。

「社長」

「ひゃ、ひゃ……」

 うまく言えないらしい。

「社長。ジョージのことよ」

 ルークは首を傾げた。

「おいたん?」

「そう」

 クリスは子供がわかるように、ジョージの立場について説明していった。

 その言葉をゆっくり何度も確認しながら聞いて、ルークは目を輝かせた。

「おいたん、すごい?」

「そう、凄いの」

 その言葉を聞いて、ルークは手をたたき、キャッキャと笑う。

 書類を見ながら二人の会話を聞いていたジョージにも、思わず笑みが浮かんだ。

「別に凄くはないんだが。会社には必ず一人は居るものだろう?」

 凄くはない、その言葉を聞いて、そうなの? という顔でキョトンとして見返してくるルーク。

 そんな子供の耳元で「ほんとは凄いんだよ」と言ってやる。

 すぐ近くにあるクリスの目を見て、「ほんとー」と聞いてきた。

「本当」

 そう言ってやると、またキャッキャと喜ぶ。

 クリスはその日、ジョージの仕事がひと段落するまでルークの相手をしていた。


 子供の相手って、ホント大変、体力要る。

 クリスはそう痛感した。

 午後だけの相手だったのに、抱っこしたり、おんぶしたり、本を読んだり、おもちゃで遊んだり……。

 自分には兄弟が居なかったから、加減がわからないこともあったが、とにかくジョージが仕事している間は相手をした。

 どこかに恐怖心が残っているらしいルークは、この日、自分の視界からジョージやクリスが居なくなると泣き出した。

 ジョージがトイレに行って、クリスがティーカップを片付けに給湯室に姿を消すと、二人が視界から消えて不安になったルークはわんわん泣き出して存在を探す。

泣き声に慌てて部屋に戻るとソファーに一緒に腰かけ、その後膝の上に抱き上げて本を読んだ。その後は二人同時に移動しないよう、特に気を付けていた。

 給湯室に一緒に行けばよかったか? いや、子供からすると危ない場所であるし……。

 慣れていないクリスは、悩んでしまった。

 それも、ルークが遅いお昼寝をするまでだった。

 今日は来客予定がなくて、助かった。

 これは偽りなき本心だった。

 ソファーに横にならせると、タオルケットをその体の上にそっとかけた。

 全身を使って、自分を表現しようとする子供。

 その、言葉に出来ない意思を汲み取ることがいかに難しいか。

 ……自分には子育ては無理かもしれない。

 世の中の子育て中の女性を思って、人知れず感心してしまった。

 いや、子育てに関わるのは女性だけではない。

 ――子育て中の捜査官や職員にはもっと配慮しよう

 たった半日であったが、そう決心させるだけの良き経験になったのは確かだった。


 カタン、と音がしてクリスが振り向いた。

 振り向いた先には、ちょうど決裁に一区切りついたのか、ジョージが椅子から立ち上がったところだった。

 しーっ……。

 クリスが口元に人差し指を当てた。

 それで甥がどういう状態であるのか察したジョージは、静かにソファーに歩み寄って子供の姿をのぞき込んだ。

 体にタオルケットをかけた状態で、クリスの膝を枕にして寝ている。

 子供の指先は、クリスのジャケットの端を掴んでいる。

 この状態では動けないだろう。

 子供を起こさないように、ジョージはそっとソファーの端に腰を掛けた。

「今日は済まなかったな、結局君がマンションに戻った一時を除いてルークの相手をさせてしまった」

「仕方ありませんよ。いつも頼んでいるベビーシッターさんも事件後のショックでまだ立ち直れていませんし。むしろ、今のルークの状態の方が驚きなんです」

「そうだな……」

 小さな声での会話だった。

 その会話の間も、クリスの目はずっとルークに向いたままだ。

 頭をそっと撫で続けていた。

 その様子を見ていて……。

 ジョージの顔にも自然と笑みがこぼれていた。

「君は……子供相手の仕事をしたいと思ったことはないのか?」

 その質問の内容は、クリスにとって初めてのものだった。

「子供……? 考えたこともありませんでした。私には無理でしょう。一日で音を上げているのですから」

「そうか? 別に不自然ではないと思ったから言ったのだが……」

 頭を撫で続ける、その行動を見て自然と口に出たのだが。

「私には私らしい『仕事』が必要だと思います。子供相手は一時出来たとしても無理でしょう」

「君がそう自己評価しているならそうなんだろうが……」

 いまいち納得していない顔をしている。

「ところで、貴方がたの新居ですが……」

「見つかりそうか?」

「なかなか条件に合う物件が見つかりません。そこで、とりあえずですが、一時的に住居を移しませんか?」

 クリスが提案した場所は、ジョージが思いもよらなかった場所であった。


 クリスの提案した場所を確認したいと、秘書統括のリーグルも同行した。

 そこは……。

 クリスの住むマンションだった。

「今の大家さんが、女性が一人暮らしをしているからって、セキュリティを強化してくれたんです。このマンションのすべての部屋は、家具家電付き。今すぐ転がり込んでも必用最小限のものが揃っているので新たに購入するものはほとんどありません。ルークのベッドは準備しなくてはならないでしょうけれど。一時的に住むのであれば、ここでも良いのではありませんか? 防音もしっかりしているので、子供の出す音にも気を付けなければならないこともないですし」

 ジョージはフムフムと聞いている。

 そこに待ったをかけたのがリーグルだった。

「まて、ここの住人は?」

「マンションの九割がたは部屋が埋まっている状態で、みな親切で優しい人ばかりです。

良い住人ばかりで、私も助かっています」

「九割? そんなに埋まったのか? 君の前は全部空室だっただろう? それにここの元のオーナーはマフィア関係だっただろう。社長が住む物件としては、その点はいただけない」

 リーグルは渋い顔をした。

 やっぱり言われたか。リーグルがそう反論してくるのは計算済みだった。

「最初のオーナーは確かにマフィア関係者でしたが、間に一人挟んで今のオーナーになっていますし、そこは気にしなければ良いと思いますが……。他の物件となりますと、私では探し出せる自信がありません」

 そこで改めてこの物件について確認することになった。

「増えたのが、ゲートです」

 マンション前に以前はなかったゲートが設置してある。

 そのゲートを潜るにはセキュリティパスの利用が必要で、ゲートを通過してもさらにマンション入り口にある施錠門を通らなければならない。門前には防犯用カメラが設置されており、通過すると今度はマンションの管理人室前を通ることになる。人によるチェックが行われるということだ。入念なガードだった。その後、マンションの部屋前に来ると、そこで専用キーでロックを開けて自分の部屋に入る仕様になっていた。

「知らない人間が入り込めるような作りにはなっていません。繋ぎにはちょうどいい物件かと思ったのですが、いかがでしょう?」

 ジョージの意見を聞いた。彼の腕には小さなルークが一緒にいる。

 ルークは興味津々だ。

「ここ、あーたんのおーち?」

「そう、あーちゃんの『おうち』があるの」

 そう言うと、ルークはキャッキャと笑った。

「ぼく、あーたんのおーち、いきたー」

 おうちに行きたいと言いたいようだ。

「じゃあ、あーちゃんのお部屋に行こうか」

「うん!」

 クリスとルークは半ば強引に話を進めて、クリスの部屋に行くことになった。


 クリスの部屋は奥から二番目にあった。

 万が一のことを考えて、奥の部屋は空き部屋にしていた。

「どうぞ」

 クリスが入室を勧める。

 その部屋は私物が少なく、シンプルな部屋だった。

 備え付けのソファーに座るよう勧めると、クリスはお茶を入れるために立ち上がった。

「今日は『ジョルジ』にしましょう」

「あるのか?」

「ええ、紅茶を揃えてしまいました」

 そう苦笑しながら、ケトルでお湯を沸かす。

「あーたん」

 ルークはクリスの元へやってきた。

 興味と、一緒に居たいという気持ちが半々なのだろう。

「ここは危ないから、社長と一緒にいてね」

 クリスがそう言って抱き上げると

「あーたん、めっ!」

 ルークがそう言ってきた。

「ルーク、どうしたの?」

 何が言いたいのか分からなかった。

「あーたん、しゃーよんらら、め! なろ」

 しゃーよんらら……。

 何のことだろう?

 これは解読が難しい。

 め! と言うからには何かがダメらしい。

 クリスが悩んでしまった。

 それを見て、ルークは再度言った。

「しゃーにゃにゃい。おいたんなろ」

 それで理解した。

 ここでは「社長」ではなく「叔父さん」、「ジョージ」だと言いたいのだろう。

「ごめん」

 クリスがルークのおでこに頭をくっつけて言った。

「わやった?」

「うん、わかった」

 クリスの頬をぺちぺちたたく小さな手がうれしくて、クスクスと笑った。

 ちょうどそんなとき、ルークを探してジョージが来た。

「ルークに怒られてしまいました。お仕事じゃないから、社長と呼んじゃダメですって」

 そう言いながら、ルークをジョージの腕に預ける。

「もう少し待っていてね、ルーク、ジョージ」

 その声を聞いて、リーグルは二人の関係を知った。

「おやおや……」

 これは、二人からすれば、まったくもって深読みだとしか言いようがない。

 この二人、恋愛関係に関しては完全に不器用で、前進というものが見られない。

 友人の延長の状態が続いていて、恋人同士ではないのだ。

 面白そうに二人を見つめるリーグルに気づかないふりをして、クリスはお茶を運んだ。

「ジョルジです」

 ジョージはカップの中を覗いた。

 この茶葉の紅茶は初めてだったのだ。

「ジョルジか……いただくよ」

 濃いオレンジ色が特徴だった。

 一口飲むと……。

「これは柔らかい甘みがあるな」

 でしょう? とクリスが笑う。

 社長であるルークが口を付けたことで、リーグルもご相伴にあずかった。

「ほう、これは美味しい。社長のコレクションに追加しましょうか?」

 それを聞いて、クリスは再び笑った。

 お茶を飲みながら、この物件の近郊の売店や公園の状況を知らせる。

 いつもルークとクリスが遊んでいた公園が五分足らずの場所と聞き、これは一時的でも良い物件かもしれないとそう思った。

 心が動いたことに気づいたリーグルは、どうしましょうかと尋ねてくる。

「一時的になら、ここは良いかもしれない」

 その言葉を聞いて、リーグルは契約手続きに移ろうとした。

 そこで問題発生。

 以前契約した不動産管理会社が窓口ではないというのだ。

 クリスの契約変更をした覚えのないリーグルは不審に思った。

「私も再契約の必要はないのかと聞いたのですが……。契約をそのままそっくり移行するので、特に必要ないと言われて、そうですかと納得してしまったのです」

 確かにそう言われれば、クリス側としても不便はない。むしろありがたいと思ってしまうもので……。クリスは現在窓口になっている不動産管理会社を紹介した。

「シンドロフィン不動産と言うんです」


 そのシンドロフィン不動産は大忙しだった。

 クリスが社長のジョージを連れてこのマンションに連れてきた時点で、何の用件なのか察したビューは、首都星にあるシンドロフィン不動産の本社に連絡した。

 元々捜査官の居住、指揮所確保のため捜査用に買い上げた物件だ。ここに民間人が居住することなど想定していなかったのだ。

 慌てて賃貸契約書等を準備し、通信回線を利用しての送信が可能な状態にしていた。

「クリスフォード司令と組むと予定外の仕事が増えると噂で聞いていましたが、まさしくその通りで……納得しましたよ」

 と担当者に嫌味を言われ、ビューとしては引きつり笑いするしかなかった。

 その頃……。

 クリスは困っていた。

 いつもならご近所のスーパーや商店街で食材を調達してくるのだが、今日はそれが出来なかった。

 夕食の時間になってしまい、ルークに食事をさせなければならないだろう。

 大人は多少食事の時間に遅れても大丈夫だが、子供はそうもいかないのだ。

 今から外食するにしても、さらに夕食時間が遅くなる。

 よし!

 クリスは夕食を作ることにした。

「ルークはパスタ好き?」

「ぱゆた?」

「スパゲッティのこと」

「だーいしゅき」

「あーちゃん、作るけれど、食べる?」

「たべゆー」

 その声を聞いて、ジョージが驚いた。

「そこまでしてもらうわけには……」

 この物件の窓口になっている管理人の説明を聞きながら隣の空き部屋を確認し、戻ってきて契約を終え、帰ってきたところにこの声だった。

「食事を一人分作るのも四人分作るのも、分量は違えど手間は同じなんです。ルークのおなかもそろそろ限界でしょうから、食べて行かれませんか? 統括も一緒にどうぞ」

 そう言いながら、パスタを茹でるためのお湯を沸かし、サラダを作り、スープにも着手した。

 この状態で断るのは、相手に失礼だろう。

 ジョージはそう思い、ここは甘えさせてもらうことにした。

「有り難く、ご相伴にあずかることにするよ」


 ルークにはケチャップで味付けして、大人三人は塩味に唐辛子とガーリックを少し混ぜ、アサリのボンゴレ風にした。

 冷凍のアサリがあって、よかった~。

 食器も、香辛料も、ファランドの忠告聞いといてよかった~。

 以前言われていた「お客さんが来たら……」の忠告があったし、「ちょっとした工夫で美味しくなるのよぉ」と言われて、香辛料を揃えるようにしていた。

 今までの職歴と、一人暮らしという関係から「食べれればなんでもいい」だった感覚を直したのは「心は乙女」のファランドだった。

 ああ、ありがとう、ファランド。

 感謝せずにはいられなかった。

「旨い……」

 スプーンとフォークを操りながら、ジョージが言った。

 彼女の手料理は初めてだった。

 パスタのアルデンテの固さと絶妙な塩加減。アサリの風味を引き出すようにバジルが軽く風味付けされている。

 サラダは、玉ねぎをスライスして辛味を抜き、レタスとトマトを合わせたシンプルなもの。ドレッシングが醤油風味でよくあっていて、さっぱりしている。

 スープはジャガイモを駒切りにして、ウインナーと玉ねぎ、コーンも入っていた。コンソメ味でさらっとした味で、これも美味しい。

 これは全部、ファランドのレシピをアレンジしたものだ。

 この件に関しては、すべて「おんぶにだっこ」だったことは否めない。

「男性にはこの食事の量は少ないかもしれませんから、これもどうぞ」

 そう言って差し出したのは、以前ファランドが「美味しい」と言っていたバゲットだった。

「あーたん、ぼゆもたべゆー」

 ルークがクリスの隣でパタパタ動き出した。

「はい!」

 クリスはルークにパンを手渡した。そのままパクリとかぶりつこうとして、クリスにストップがかけられた。

「あーたん?」

 ルークはキョトンとしてクリスを見る。

 真向いからジョージも、どうした? と見つめている。

「ルーク、そのままパクンはいけません」

 ゆっくり教える。

「お口にパクンと入って、ゴクンできる大きさにちぎるの」

 そう言って見本を見せた。

 パンをちぎって、口に入れて、噛んでごくりと飲み込んだ。

「ルークもできる?」

「できゆー」

 ルークも真似して見せた。小さい手を一生懸命動かして、一口サイズにすると口の中に入れた。

「じょーず?」

 ルークが聞いてくる。

「おしゃべりはごっくんした後にするの。できる?」

 こくりと頷いて、もぐもぐ口を動かして、ごくりと飲み込んだ後に、ようやくしゃべった。

「ぼゆ、できたー」

「はい、よくできました」

 こんな場でも、躾に転ずる。クリスはうまく誘導した。

「躾まで、手が回らなかったな……」

 ジョージが言う。

「できるときにやらないと。困るのはルークですから……」

「そうだな……」

 二人の会話を聞いて、リーグルが居心地悪そうに言った。

「二人の世界を作るのは、私が退席してからにしてください」

 二人はクエスチョンマークを飛ばしている。

 二人の世界って何?

 全く分かっていない二人だった。


 ジョージとリーグルの二人が、必要最小限のものを取りに出た時、クリスはルークを預かった。

「すぐ寝られるように、お風呂に入れておきますね」

「そうしてもらえると助かる」

 この会話、どう見ても夫婦の会話だ。

 これで自覚がないのだから、どうしたらよいのだろう。

 リーグルは悩んでしまう。

 こればかりは、お互い自覚してもらわないとどうにもならないのだ。

 自覚を持ってもらうようにするには、如何に対応したらいいのだろうか。

 固い性格のリーグルは、友人たちからも恋愛関係の相談を受けたことはない。

 現在妻子持ちの自分はどうしただろうか?

 どうやって妻をゲットしたのか……。

 思い出そうとしたが、時間がそれを許さなかった。

「社長、参りましょう」

「ああ」

 そう言って二人はクリスのマンションをあとにした。


「おいたん、いったったー」

「そうだね、行っちゃったね」

 マンションの玄関で見送りした後、ルークを連れて部屋に戻った。

「さあ、食器お片付けしたら、あーちゃんとお風呂入ろう?」

「おふろ? いっとにはいれるのー?」

 ルークはキャッキャと喜んだ。

「ずっと、るーくだけだったから、ぼゆ、うれちー」

 そうか……。お風呂はベビーシッターが入れていたから、いつも一人だったんだ。

 ジョージに引き取られてからずっとそうだったのかと思うと、寂しかったんだろうなと想像する。

「さあ、準備しよう!」

 そう言って湯船にお湯を張る準備をすると、給湯器を動かした。

 その間に食器を洗う。

 食事の後は眠くなるのが人の常。

 お風呂の準備ができる間、ルークと一緒に歌を歌う。

 飽きさせないよう眠らせないように工夫して、お風呂の準備ができるまで時間を過ごした。

 ピーピー。

 音が鳴った。

「なんのおとー?」

 ルークが聞いた。聞きなれない音だったのだろう。

「お風呂の準備ができましたって、音だよ」

「ほんとー?」

 嬉しそうに手をたたいた。

 手を繋いでバスルームに向かう。

 バスタオルを籠から出して棚に置いた後、かがんでルークと視線を合わせる。

「ルーク、お洋服脱げる?」

 うん、と言うと同時にこっくり頷いた。

「じゃあ、あーちゃんも脱ぐから、お風呂入ろうね」

 幼子の動作を見守りながら、自分もゆっくり脱いだ。

 できる! と言ったせいか、最後まで自分でやりたがったので、手を貸さずに黙って見守った。

 幼児特有の着脱しやすい洋服だったこともあって、ルークは下着までちゃんと脱ぐことが出来た。

 上手と褒めて、今脱いだ服をランドリーに入れる。

 これでお風呂から上がるころには選択を終えて乾いているだろう。

 足を滑らせないように手を貸しながら、浴室に入って行った。

 かけ湯をしてから浴槽に入らせた。

 そこに、クリスのお気に入りの入浴剤を入れる。

「あーたん、それなーに?」

 初めてだったのかも知れない。

「からだがポカポカするために入れるの。お肌もツルツルになるんだよ?」

「ぽかぽか? ちゅるちゅる?」

 ツルツルとは言えなかったようだ。

 舌っ足らずなところがかわいい。

「そう、ポカポカ、ツルツル」

 乳白色に濁ったお湯を掛けあったりして遊びながら、普段ルークが出来なかったであろう水遊びを楽しんだ。

 体を自分で洗わせて、手の届かないところはクリスが手助けする。

 そしてまた湯船に入ると、気持ちいいのかコテンと寄りかかってきた。

「あーたん、ぼゆ、ねむいー」

 ちょっと長湯しすぎたか?

 その言葉を聞いて、ルークを湯船から出すと、体を拭いてバスルームを出た。

 用意してあったバスタオルでルークの体を包む。

 いいタイミングでランドリーの乾燥が終わったようだ。

 風邪をひかないように、服を着ることに関してクリスは手伝うことにした。

 それが終わるとクリスも手早く自分の簡単なルームウェアを着た。

 ルークが初めて見る、柔らかい色のゆったりとした服装だった。

「あーたん、ふわふわ」

「そうだね」

 体が暖かいのだろう。気持ち良いのか、ルークは引っ付いて居たがった。

 湯上りに水分補給して、クリスが抱っこしていると、いつも間にかルークは寝てしまった。

「ルーク?」

 返事はない。完全に寝てしまったようだ。

「仕方ないか、大変だったもんなぁ」

 ジョージがマンションに戻り、呼び鈴を鳴らすまで、クリスはずっとルークを抱いていた。


「あ……」

 玄関に出てきたクリスに声を掛けようとして、ジョージは口をつぐんだ。

 抱きかかえた腕にいる小さな子供が一人。

 寝息を立てて眠っている。

「お風呂でもいっぱい遊んだので、疲れちゃったんですね」

 すーすー。

 すでに深い眠りに入っているようだ。

 こうして近くで話していても起きない。

「朝までぐっすりだと思います」

 そう言って、ゆっくりルークをジョージに渡した。

 ルークをしっかり抱きかかえると、クリスを見た。

 いつもと雰囲気が違う。

 どこが違うのだろう。

 じっと見つめた。

 そうだ、髪だ。いつもは結い上げられている髪が今は洗髪した後らしく、湿った状態で下ろされている。そして服。いつもはスーツか、ルークと遊びやすいように体にフィットした服が多かったのに、今はゆったりとした柔らかい色のルームウェアだ。

 ドキリとした。

 ここまで無防備な状態の彼女を見たのは、初めてかもしれない。

「社長?」

 ジョージに同行していたリーガルの声で現実に引き戻される。

 そんなジョージを見ていたリーガルは、これも自覚の切っ掛けになれば……と淡い期待を抱いていた。

「ジョージ?」

 行動がぴたりと止まった意味が分からない。

 キョトンとしてクリスはジョージを見ていた。

「いや、今日はありがとう」

 そう言って、くるりと背を向けるとクリスの部屋を後にした。

「?」

 そこには、意味を分かっていないクリスが一人、取り残された。


 とりあえずの新居となるマンションの部屋にジョージは入った。

 後ろにリーガルも続く。

 先ほど購入して組み立てた、子供用ベッドにルークを寝かせる。

 タオルケットを体にかけてポンポンと叩いてやると、安心したのかより深い眠りに入って行った。

「社長、今日は、私はこれにて失礼いたします」

「ああ、今日は付き合ってもらって悪かったな。明日の出勤はゆっくりでいいぞ」

「そうは参りません。いつも通り出勤いたします」

「強情だな。まあ、いいさ。明日もよろしくな」

「はい、では失礼いたします」

 そう言ってリーグルが去ると、ジョージは部屋に取り残された。

 すーすーという寝息が聞こえるだけの部屋。

 先ほどまでの賑やかさが嘘のような静かさだった。

「僕も、今日は寝ることにするか」

 そう言うと着替えを持ってシャワールームに移動した。


 その頃、ジョージ達が自室の部屋でゆっくりしたことを見計らってやってきたビューをクリスは部屋に招き入れた。

「今日は済まなかったな」

 ビューは否定しなかった。

「全くです」

 上司にこう言える男はなかなかいないだろう。それを許す雰囲気がクリスにはあった。

「シンドロフィン不動産の担当者に嫌味を言われました。この件が済みましたら、菓子折りでも持ってねぎらいに行った方が良いかと思います」

「それは悪かったな」

 反省しているのかしていないのか。まったくわからない態度でクリスが言った。

「どうやらお疲れのようですね」

 クリスの様子を見て、ビューが言った。

「子供と言うのは凄いものだな。こんなに相手が大変だったとは。ビュー、私は決めたぞ。この件が終わったら、子持ち職員の有給休暇消化と子育て休暇を積極的に支援するぞ」

「それは、私も含まれるので?」

「もちろんだ」

 ひとしきり子供相手の大変さをお互い話して一区切りついた時、ビューが話題を変えた。

「本題に入ってもよろしいでしょうか」

「ああ、構わない」

 ビューがこの部屋に世間話しに来たのではないことを、クリスもよく理解していた。

「報告を聞こうか」

司令と司令補の立場に戻って、会話が再開された。

「はい」

 ビューは手に持っていたボードに目を移した。

「科学分析部からの報告です。マンソン博士以外の指紋について、四つの指紋の特定ができたと」

「急にスピードが上がったな」

「情報検索の方法を変えたそうです」

 マンソンが「ベラロイスウイルス」を専門に扱っていたことと未発表の論文内容から、同じ「バイオセーフティレベル4」レベルで、かつウイルス性出血熱(viral hemorrhagic fever:VHF)のウイルスを扱える研究者に絞ったところ、不明だった七名のうち四名がヒットしたということだ。

 四名は他の星系所属だったもの居る。よく探し出したものだ。

「これをご覧ください」

 ビューが差し出したボードを目にして、クリスは眉をひそめた。

「四名とも、死亡?」

「はい、記録上はそうなっています」

 死人が、同じく死人のマンソンと一緒に居る――

 これが何を指すのか。前に推測したように研究にあたっているのだろうか。強制的に。

 クリスは考え込んでしまった。

「……他の三人も、たぶん同じだろうな」

「私もそう推測します」

 重い空気が漂った。

 沈黙が部屋を支配した時、ビューが確認だと聞いてきた。

「ファーガソン氏をこのマンションの居住を許した、いえ、居住させた……これは『連邦の保護下に置く』との判断だったと、解釈してよろしいでしょうか」

「……そうだ」

 自分は利用したのだ。あの事件を。

 苦い思いが込み上げる。

 ファーガソンの複雑な親子関係を、利用したのだ。

「時々、自分が嫌になる」

 そうこぼした上司を、ビューは静かに見守った。

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