第二十一章 朝帰り
事件のあった当日。
クリスはマンションに帰らなかった。
翌日の早朝、ようやく一度戻ったのである。
――司令の朝帰り。
なぜか捜査官たちは浮足立った。
「っんまー! 司令ちゃんが朝帰りって、どういうこと?」
ファランドが悲鳴を上げる。
どういうこともない。
朝に帰った。だから朝帰りだ。
「つ、疲れた……」
この言葉にさらに色めき立つ捜査官たち。
「何だ?」
「いえ……」
クリスにはこの言葉の意味が分からない。
いつもの頭なら気づいていたかもしれないが、今の彼女には酷というものだ。
ビューのユニットが指揮所として使っている部屋に転がり込むと、備え付けのソファーにどさりと座り込んだ。
すかさずビューがお茶を出してくる。
今日は紅茶ではなくて、ジャスミンティだった。
「これからお休みになるのでしょうから……」
相変わらず察しが良い。できた副官だった。
「司令ちゃん、何がどうなってるの?」
いつもは察しのいいファランドでも聞きたいことらしい。
「別にどうってことないさ。ナノエックスフリーダム社の社長の親父は政財界の大物らしいから、その干渉を防ぐために杭を打った。それだけだ」
つまり、予定外の誘拐未遂事件を逆に利用した。そう言ったのだ。
こういうところは相変わらずクリスらしい。
「さすがに完徹はキツい……」
クリスがソファーに座りながら言った。
その台詞、別の角度から聞いたらやばいんですけど。
ごくり。
ファランドが息を飲んだ。
「司令、ここに居る者たち皆、昨夜何があったのか知りたいようです」
ビューが代表してそう言った。
「昨夜? 特に『何もなかった』だな……」
その一言に尽きたが、周りは納得していないらしい。そこで言葉を続けた。
「事件の悪夢にうなされる子供を社長室で寝かしつけて、起きかけたところで安心するための暗示をかけて寝かしつけて、起きてはまた暗示掛けて寝かしつけて、を繰り返した。気づいたら朝になっていて……寝ていない」
あまりにも簡単で明確な説明に、先ほどまで司令の台詞に深読みしそうになっていた面々は、毒気を抜かれた。
「貴女が一晩の完徹で疲れたとは……珍しいですね」
ビューの率直な感想だった。いつもなら、もう二晩くらい起きていられるだろうに。
「昨日、何があったか覚えているか?」
クリスが聞いてきた。
「誘拐未遂事件ですが?」
クリスの意図がわからないビューはそのまま答えた。
「人の頭の中に直接『脳波通信』送ってきて、それか?」
あ!
クリスが「くたびれている」という理由が分かったのだ。
ピアスを通じて脳に直接送り込んだ会話。
それがかなりのダメージ(負担)をかけていたのだ。
「ダメだ、限界かも……」
「司令?」
ビューの問いかけに答えもせず、クリスはカップを持ったままその場にぱたりと眠ってしまった。
すー。
寝息が聞こえて来る。
ソファーにクッタリして……寝ている。これは寝落ちという奴だ。
ティーカップがクリスの手から絨毯の上に落ちた。
お茶を飲み干していたのが救いだ。
「あーあ、乙女が寝落ちってどうよ」
ファランドが思わずそうこぼす。
誉めたくなるような寝付きのよさだった。
「思っていたより、精神的にキツイのかしらん?」
「そうかもしれないな……」
ビューは静かにそう言った。
彼女は今自分を偽って潜入という仕事をしている。
いや、偽ってというのとは少し違うかもしれない。偽りよりも秘密を持って対人関係を築いていることがダメージを増幅させているというのが正しいのかもしれない。
彼女は優し過ぎる。
優しさが彼女を追い詰めることをわかっていても、彼女は手を差し出す。差し出すことを止めない。やめられない。
司令としての資質を持ちながら、不器用なまでの優しさを持つ彼女。
いつか壊れてしまわないだろうか。
兄? として不安として思うことも否定できない。
「取りあえず、司令が起きたときに報告できるように情報を纏めるぞ、みんな、しっかりな」
「はい」
チームワーク抜群のメンバーは、ソファーに横になる上司を目の端で捕らえながら、仕事に当たっていた。
三時間後――
クリスはスッキリしておきた。
「寝た……」
クリスの体の上にはいつの間にか毛布がかけられていた。
全然気がつかなかった。
「お目覚めですか?」
クリスはゆっくりと体を起こした。
「ああ、だいぶ楽になった」
短時間睡眠で疲労が取れるのは、悲しいかな、航宙士時代、いや、アカデミー時代の訓練の恩恵とも言えるものだった。
フルフルと頭を振って思考をはっきりさせる。
そこで、自分の記憶を辿る。
もしかして、もしかして、私は……。
「寝落ち、したのか?」
確認の問い掛けだった。
「はい、しっかりと」
ビューは簡潔に容赦なく答えた。
失態だ、大いに失態だ。
休む間もなく働いている部下達を前にして、自分が潰れるとは……。
考えを切り替える。
今できる最善のことをするべきだ。
「報告を」
クリスはそう言って現在の状況の報告を求めた。
「バリー・マンソン氏の特許取得から実際の開示まで時差があることが今までの調査でわかっています。そして、申請から特許取得までの時差もあります」
この言い回しで、クリスは気づいた。
「その時差を利用したものがいるということか?」
「はい……」
それは誰か。
クリスは先入観のない頭で考えた。
そして、ある結論にたどり着く。
「……それはメディブレックス社の誰かということか」
「そうです」
この回答もまた、簡潔だった。
先入観を持たずに事実を客観的に捉えればわかることだった。
――何故メディブレックス社が特許取得論文の入手が早かったのか。
――何故新たな研究への着手が早く、新特許申請が早かったのか。
メディブレックス社内に、特許庁からの情報入手経路があればそれが可能だ。
「迂闊だったな」
クリスとしてはそう言うしかない。
これはある意味また重大な結論を引き出す。
――つまり、特許庁に内通者がいること。
巨大な利権が絡む組織の中に……。
ナノエックスフリーダム社は、時系列的に特許公開後に着手したことが既にわかっている。
「この情報は誰から?」
クリスは問い掛けた。
「弁護士事務所潜入のボンドからです」
それを聞いて、クリスは場違いな笑い声を上げた。
「あの坊や、お手柄じゃないか」
くすくす言う笑いが止まらない。
そんなクリスに構わずに、ビューが報告を進めた。
「その坊やから伝言です。法律事務所にも、この事実を報告します、と」
その件については了承した。ボンドの場合、弁護士事務所に有利な情報を入手できたなら、そのような行動を取るだろうと計算済みだった。
「なるほどな。では、二重の意味で今メディブレックス社は危ないわけだ」
「二重、ですか?」
ビューが問い返した。
「ああ、二重だ」
クリスが肯定する。
「一に、ナノエックスフリーダム社の方が申請が早かったのに、いちゃもんつけた件。そして二件目は特許公開前にフライングして研究に着手した件」
クリスが説明する。
「特許申請者が社内に所属しているとして確認を怠ったな。ニ件目の、元のメチャクチャ長たらしい名前のファクター研究の着手時は、まだマンソンはメディブレックス社と契約していない。ということは、どこから情報を入手したんだ? 当然この疑問が出てくるだろうな。仮に気づいていたとしても、今から申請を取り下げては、係争が注目されている現在、不審に思われてしまう。メディブレックス社としては動きようがない」
自分で自分の首を絞める形になったなと、クリスは静かに笑う。
あまりにも静かな笑みで、周りにいた捜査官は皆静かになった。
「おい、どうした?」
自分が静かになった元凶と気づかずに、クリスは逆に尋ねた。
「いえ、みな貴女は『司令』だと改めて気付かされただけです」
ビューはそう言ったが、クリスの頭には疑問符が飛んでいた。
「わからなければ結構です」
ビューは、そう言葉を締めた。
「で、今後はどうなるでしょう?」
ビューには先が見えている。
だが、周りにいる捜査官たちに知らせる意味で、この問を投げかけた。
「そうだな……不正に情報入手したとしてこの件は申請却下になる公算が高い」
常識的に考えればそうなるだろう。
それでは……と浮足立つ捜査官にクリスは制止をかけた。
「まだ動くな!」
その声は捜査官達の動きを止めた。
「まだ全てが明らかになったわけではない!」
クリスの頭に警鐘が鳴り響く。
……まだ終わっていない、と。
「確実に裏付けが取れないと、この問題、暗礁に乗り上げるぞ。いいか、まだ推測の域を出ていないことを忘れるな」
それは「司令」の言葉だった。
……荒波を超えてきた、悲しき彼女の言葉だった。
「さて、私は着替えて来ることとしよう」
昨日の、誘拐未遂事件があったときの着衣のままだった。
「ついでにシャワーも浴びてスッキリして来ることにするよ。情報固めはビュー主席司令補、任せてもいいかな?」
「了解しました」
その回答を聞いて、クリスは自室に戻った。
「司令ちゃん、大丈夫かしら?」
ビューのユニットの指揮所にお邪魔していたファランドが言う。
手にはティーカップを持っている。中身はクリスに出したお茶の出がらしだ。
「大丈夫? どういうことだ?」
ビューにはこの言葉のみではわからなかったらしい。
ファランドには、乙女? の心で何か感づいた。
「司令ちゃんって、他人の心には敏感なのに、自分のことには無頓着ってところ、あるじゃない?」
「ああ、そうだな」
その点については、ビューも同感だった。
「自分の心がどの方向に向いているのか、気づいて居ないってこと、あるかもしれないでしょ。あるいは、気付かない振り……てのもあるわよね?」
「そうだな……」
それはビューも心配していたことだ。
「立場もあるし、自分の気持ち、なかったことにするのもありかもしれないなって、思うのよ」
彼女なら有り得るかもしれない。
「私、彼女の素直な気持ち、まっすぐな気持ち、好きよ。でも、仕事が原因で隠すことになったら、私嫌だわ。障害があってもいい、でも乗り越えてほしい。遠回りになってもいい、でも正直でいてほしいって思うのは私の我が儘かしら?」
「いや……」
その感情を持っているのはファランドだけではない、ビューも一緒だ。
だが……。
彼女を支えられるのは、度量のある、包容力のある人物。
彼女の抱えているものは大きい。それごと抱え込んで包める人物だ。
そんな男がゴロゴロ転がっているわけがない。
居たらすぐにでも彼女に紹介している。
彼女の仮の主人となっているファーガソン社長はどうなのだろうと考える。
文句もいわずに彼女が支える立場にいることから、ひそかに期待しても良いのではないかと思っていたりもするが……。
こればかりは、本人たちの気持ち次第である。どうにもならない。
自分は、何があっても見守る立場、場合によって助言する立場で見守ろう。
そう心には誓うビューだった。
ビューとファランドの話の種になっているとは思わずに、クリスは自室に戻り浴室に入り、シャワーを浴びていた。
体はくたびれていたが、仮眠したおかげで頭はスッキリ冴えていた。
しばらく黙ってお湯を浴びていた。
本当であれば、少しぬるめの湯を湯船に入れてゆっくり浸りたいところであったが、それはできなかった。
熱いシャワーで疲れを落とし、体に喝を入れる。
頭からお湯を浴びて、両手で両頬をパンと叩いた。
「……よし!」
シャワーから出て、身支度を整えたら再び会社に赴かなければならない。
昨日の今日だ。
ルークはまだ不安だろう。
二人の住居の手配もしなければならない。
自分は社長秘書。
頭を切り替える必要があった。
この頃、正直、この立場がキツくなってきたというのもある。
いつまで、偽りの「秘書」を演じなければならないのか。
ルークとジョージへの親しさが増すほど、この気持ちは大きくなっていった。
早く解決して、この立場から去りたい。
司令としての立場ではなく、「アリスン・フォードラス」の立場から去りたい。
それは「逃げ出したい」ということだった。
……いつの間にか、そう思っている自分をクリスは認めるしかなかった。
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