第二十章 暴風発生

 グラントを問答無用で共同捜査に引きずり込んだあと、時は穏やかに過ぎた。

 ケイティのおかげで、ユーグレートシステムを解除することが出来たマンソンの論文は、今、科学分析部が詳細を確認し検証している最中だ。

 本来であれば、時が穏やかに過ぎる……これは捜査関係者にとっては嘆かわしいことだ。

 もっとサクサク調査を進めるのがあるべき姿かもしれない。

 だが、強硬に捜査を進めれば人命に危険が及ぶことが今回の件ではわかっていたため、あえてじわりじわりと網を狭めるように注意して事にあたっていた。


 その日――

 クリスは何か集められる情報はないかと、せっせと秘書業務にかこつけ情報収集していた。

 秘書業務はどんどん増える。任せられる仕事が増えたと、秘書統括のリーグルが仕事を預けるようになってしまったからだ。リーグルの方の状況はというと、クリスに完全に社長の秘書を預けられるので、会社全体の秘書統括の仕事に専念でき、充実していると言った感だ。重役と言っても数人だが、それでも会社の営業兼顔役である。おろそかにはできなかった。

「おはよう、アリスン」

「おはようございます、ジョージ」

 緑地公園での一件があってから、ルークがクリスと遊びたがり、ファーガソンを交えて休日遊ぶようになって、ファーガソンとも親しくなった。

 ファーガソンとはルークを挟んで間が縮まったというか……二人だけでいる時はファーストネームで呼び合うような仲になっていた。他人行儀な関係をジョージが嫌ったためだ。敬語もやめてくれと言ったが、そこは線を引いて、仕事の時はけじめをつけるために敬語を使うとクリスが譲らず、では、勤務外は敬語を使うなとなり、こんなちょっと面倒な関係になった。

 二人がファーストネームで呼び合っていることを周りの人間が知ったなら、こう言っただろう。友達以上、恋人未満と。残念だがこの二人、お互い自分の感情に鈍いのか、見ないふりをしているのか、その後の進展は全くなかった。

「ルークは元気ですか?」

「ああ、今日も朝から元気に遊んでいたよ」

 ジョージはルークを託児施設に預けるのではなく、ベビーシッターを利用しているようだ。子供たちとの協調性を学ばせるには託児施設の方が良いような気もするが、それをわかっていてベビーシッターを利用しているのはなぜなのだろうか。

 クリスは常々疑問に思っていた。だが、プライベートに関わる件でもあるので、あえて触れずにいたというのが正しいであろう。

「ジョージ、もしよければですが……これはあくまでも提案としてお聞きいただきたいのですが……」

 こう言いだすのは珍しかった。ジョージは言葉を促した。

「裁判の一件が片付いた折、事務員、研究員を増員して研究の質をより高める……そうおっしゃっていましたよね?」

「ああ、そうだが」

 何かの折に触れて話した些細なことだが、彼女は覚えていた。

「では、社内に託児所を開きませんか?」

 いきなりとんだ話題に、ジョージはついていけなかった。

「どういうことだ?」

「社員が働きやすい環境を整えたいと言ったつもりだったのですが……」

 クリスが言いたいことはこういうことだった。

 若い社員を求めるなら、その社員はいずれ結婚して子供が欲しいと思うかもしれないし、そして中堅研究員を求めるなら、すでに結婚して子供がいるかもしれない。

 夫婦でこの会社で働きたいと思う者が出るかもしれない。

 子供を安心して預けられる場所を提供し、仕事に専念してもらう。

 女性研究員を増やすことが中期目標に入っているならばなおさらだ。

 育児休業制度ももっと充実させる必要がある。

 誰もが働きたい。そして働きやすいと感じる会社を作り上げていかなければならない。

 この会社はまだ発展途上にあるのだから……。

 これには、この中にルークを含んではどうかという含みもあった。

 そのことに気が付いて、ジョージは苦笑した。

「なるほどな」

 子供たちにとってもメリットがある。

 託児所内で友人を作ることが出来るし、協調性を学ぶこともできる。何より、社内に託児所を作ったら、目の届く範囲にルークが居ることになるのだ。

 会社の福利厚生の管轄内で出来ればそれに越したことはないだろう。

「今すぐにという約束はできないが、検討項目には含めよう」

 その言葉を聞いて、クリスはにっこりと笑った。


 その日は来客予定もなく、穏やかに過ぎてゆく、そのはずだったが……。

 時として呼んでもいない有り難くもない来客というのは存在する。

 そしてその日、クリスはそんな存在と巡り会ってしまったのだ。


「お待ちください」

 社長室の外から声が聞こえる。

 秘書室のある廊下の辺りからだ。

 がやがやと賑やかを通り越して騒がしい。

「何でしょう?」

 クリスが不思議そうに言った。

 聞こえた声の中には秘書統括の声もあって、こんな焦ったリーグルの声を聞いたことがなかったからだ。

「誰か、招かれざる客が来たようだな」

 ジョージがそう言った。

「招かれざる客、ですか?」

「ああ、そうだ。ここにきても社長室に通すなと伝えている人物が何人かいる。そのうちの誰かだろう」

 ジョージは書類にサインをしながらそ知らぬふりだ。

 がやがやとした声はなかなか消えない。

 しばらく待ってみたが、やはり消えなかった。

 先ほどまでの居心地のいい静寂を壊されて、クリスは何となく面白くない。

 がやがや……

 騒ぎは収まらず、それどころか大きくなっているようだ。

 まったく!

 業を煮やしたクリスが言った。

「外の人間は、追い払っても良いのですね」

 その台詞を聞いて、ジョージの手が止まった。

「ああ、できるならそうしてくれ」

 ジョージは外の人物が誰か、知らされなくても察しているようだ。

「どんな相手でしょう?」

 クリスは確認のためにそう言った。

「ああ、できれば二度と来てほしくない、という相手だな」

 なるほど。

「では、徹底的に追い払いましょうか」

 その言葉に興味を持った。

「出来るのか?」

「二度と来たくないと思わせればよいのでしょう? やってみます」

 その時の表情をどう表現すればいいのだろう。

 にっこりと、いかにも「含んでます」という笑みを浮かべて社長室を出て行った。

 一体何をやる気だ?

 ジョージも興味を持って、静かに扉の向こうの音を聞いた。


「お静かに願います。こちらは社長室前です」

 クリスが凛とした声で言った。

 その声はよく通り、一瞬で騒ぎが収まった。

「社長は今執務中です。本日は来客の予定はなかったはずです。お引き取りください」

 あっさり、ばっさり切った。

 さっさと帰れと言ったのである。

「ほう、新しく見る顔だな。ではこの儂を知るまい」

 威風堂々。胸を張っている。

 だがクリスからしてみれば、自分の記憶メモリーにないということは「知るほどの価値の無かったもの」ということになる。

「申し訳ありません。知るべき人物の中にあなたは含まれていなかったようです」

 言外に、不要人物と言ってみたのだが……。

 相手には通じなかった。

「ほう、儂を知らんとは、また随分勉強不足の者を傍につけたものだな、ジョージは」

 自分はいかにも大物ですと言いたいらしい。

 だが、クリスはアカデミーと法廷で揉まれた者。そして現場でも揉まれた者。ひるむことはなかった。

「私が知るべき人物の中にあなたは含まれていなかったようです。ということは、会社に関してさして必要たる人物ではないということですね。お引き取りください」

 直球のこの言葉に、リーグル達は青くなった。

 押しかけてきた人物はこの辺りの政財界の大物……ジョージの父だったのだ。

 クリスはジョージの父の名前は知っていた。だが顔を見たことがなかった。

 だが、仮に知っていても同じ態度をとったものと思われる。

「小娘が! お前なぞ、簡単につぶすことが出来るのだぞ」

「どうつぶすというのですか? お聞きしましょうか?」

 具体的に聞いてやる! 言ってみろと言ったのだ。

 そこでジョージの父ベルクは言葉に詰まった。

「こざかしい娘だ。いずれ儂の力に臥すことになるのだ、その時泣き言を言っても遅い」

 ふん! という態度で、クリスは居直った。

 泣き言ねぇ……そっちに言わせてやる!

「では、あなたがおっしゃる勉強不足の私が、貴方の立場をお聞きするのは失礼でしょうか?」

 慇懃無礼とはこのことかもしれない。

「儂はアイツの親、フランク・ベルクだ」

 どうだ、知らないとは言わせない。そんな態度だった。

「さようでございましたか」

 普通の感覚であったら、平身低頭で相手に無礼を謝ったかもしれない。

 だが、クリスは「普通」の娘ではなかった。

「今日会うべきものは居ない。それが社長の言葉です。たとえ父親であってもそれが社長の判断です。お引き取りください」

 この態度に相手が火を噴いた。

 勝った! クリスはそう思った。

 今回のような場合、感情的になった方が負けるのである。

「ええい、この小娘が、そこをよけろ!」

 強引に突っ切ろうとする。

 だが、クリスは扉の前から動かなかった。

「あなたは、今、法を犯していることを理解されていますか?」

 静かな声だった。その声で、この場が一瞬シンと静まった。

「ここへ無理やり入ってきたのです。社員が止めるにも拘わらず、法的根拠もないままに。ですから『不法侵入罪』にあたります。あなたが不法侵入するのを止めようとしたものが怪我をしておりますから『傷害罪』が適用されますね。私をつぶすとおっしゃいましたので『恐喝罪』にもなります。すでに三つの法を犯しております。お分かりになっていらっしゃいますか?」

 にっこり。クリスは笑って言った。

 内容は可愛いなんてものじゃない。

 場合によっては、こっちが恐喝罪と言われても仕方なかった。が、事実を言っている。

 クリスは、表面はにこにこ、背後から冷風を漂わせたまま相手を見ている。

「小賢しい、入るぞ」

 強引に入ろうとしたその時……。

「警察に連絡を入れますが、よろしいですか?」

 クリスは容赦なかった。

 やれるものならやってみろという態度が見えた。まだ脅しだと思っているのだろう。

 だが、ベルクのお付きの人たちは焦っていた。

 自分たちの立場の方が圧倒的不利だということが分かっていたのだ。

 そこで、クリスは本当に緊急ダイヤルに連絡した。

「緊急ダイヤルです、どうされました?」

 携帯の通信機から声が聞こえる。

 クリスはわざとスピーカーに切り替えていた。

「不法侵入者がおりまして、退去しろと言っても聞きません。『司法警察官』に出向願えませんか?」

 これにはさすがのベルクもたじろいだ。

 本当に連絡するとは思わなかった、そういう顔だ。

 クリスは逆に、容赦はしないという態度を見せた。

「この小娘が……帰るぞ!」

 その日の招かれざる客はバタバタと去って行った。

「侵入者は建物外に出たようです。出向取り消しをお願いします。お手数をおかけしました」

 通信機にそう言うクリスに、通信の向こう側のオペレーターは苦笑したようだ。

「問題が解消されたなら、何よりです」

 そう言って通信は終わった。

 この場にいた一同は、はーっと息を吐いた。

「し、心臓が止まるかと思った」

 そう言ったのは秘書統括のリーガルだった。

「このくらいで止まるのですか?」

 クリスはけろりとしている。

 彼女は思っていた以上に図太い。リーグルはそう思った。

「相手は、政財界の大物で、しかも社長の父親だぞ。強く出るわけにはいかないじゃないか。会社の今後のことを考えても……」

 クリスは逆だと思う。

 会社のことを考えたら、強く出るべきところは強く出る、引くべきところは引く。その線引きがしっかりできていないと危ういと思った。

「社長の『親』であろうが何だろうが、ここは『会社』です。不利益になるような場合は、相手にお引き取り願うのが『筋』というものです。『情』は禁物でしょう」

 言うのとやるのとでは違う。

 だが、クリスは容赦なくやって見せた。

 自分たちももっと事務的にこの件は扱うべきであったのかもしれないとこの場所にいた一同は反省した。

「この会社の融資先に彼の系列企業は入っていませんし、堂々と門前払いすべきです」

「その点は今後見習うよ」

 リーグルはそう言った。


 その頃……。

 社長であるジョージはというと……。

 社長室で爆笑していた。

 痛快だ!

 あのくそ親父が、自分が小娘と呼んだ彼女に遣り込められている。

 敵前逃亡せざるを得ないとは、何とも楽しいではないか。

 くっくっくっ……。

 笑いが止まらない。

 そんな時、クリスが社長室に入ってきた。

 ますます笑いが止まらなくなってきたジョージだった。

「社長?」

 部屋の外にまだ社員が居たので、ファーストネームで呼ぶのは避けた。

 そんな彼女の視線の先で、ジョージが腹を抱えて笑っている。

 初めて見るそんな様子を見て、大丈夫ですか? とクリスが声をかけた。

「だ、大丈夫だ……」

 まだ、腹筋が笑っている。

 くっくっくっと笑いながら、ジョージは紅茶を希望した。

「今日は『カンニャム』が飲みたい気分なんだ。淹れてくれないか? 君も一緒に飲もう」

 いったい、どうしたのだろう。

 とりあえずリクエストのあったお茶を入れることとする。

 給湯室にクリスが行っている間、紅茶を淹れている間に何とか笑いを収めたジョージは、応接卓に移っていた。

「今日はもう、仕事をする気分ではなくなったな。こっちで飲もう」

 そう促されて、クリスも応接席に移った。

 もう、時間的には夕方だ。

 集中力も切れてくるころだ。

 お茶を飲んで雑談して、気分を落ち着かせて……今日の仕事は終わりだな。そう思った。


 カンニャムはダージリンのように香りが芳醇だ。

 ゆっくり浸って飲むには良いお茶だろう。

 やっと一息ついたというようなクリスの様子に「ご苦労だったな」とねぎらいの声をかけた。

「しかし、法律というのは便利なものだな。相手が簡単に去っていくとは思わなかった」

 ジョージの正直な感想だ。

 あれだけの短時間の押し問答で済んだのは初めてかもしれない。

 今は仕事の時間ではない、プライベートの時間とのことだったので、口調を変えた。

「ジョージ、聞いてもいいかしら?」

「何だ?」

 二人はゆっくり会話を始めた。

「なぜ、ベルク氏が貴方の元に来たの?」

 それを聞いて、ジョージはふっと笑った。

「本人とは面と向かって話をするのも嫌だから、直接は聞いていないんだが……。父の秘書から聞いた話では、どうも相続の問題らしいんだ。切羽詰まってきているらしいな」

 なるほど……とクリスは思った。

 ベルク氏の手元にいるのは後妻の子の二人だ。道楽息子たちと聞いている。

 そんな子供たちに相続させたら家が持たない、そう考えているのだろう。

「貴方に相続させたいと、考えているのね?」

「さて、どうだろう」

 ジョージははっきりとは言わなかったが、面倒だと考えているのは間違いなかった。

「悪あがきをしなければよい、と思うのは私だけかしら?」

「悪あがき?」

 疑問符が飛んだ。

「家を残そうなんて考えるから、遺産があるから、相続問題なんて起こるのよね? いっそ、家をつぶしてしまえばすっきりするんじゃないかしら?」

 クリスはばっさり相続問題を切った。

 クリスの意見は極論だ。だが、いちばんわかりやすいものでもある。

「ジョージは継ぐ気はないのでしょう?」

「全くないな」

「それでも継げと言われたら……」

「迷惑以上の何物でもない」

 ポンポン帰ってくる返答に、クリスも苦笑せざるを得ない。

「仮に貴方のご弟妹が家を継いだ場合、どうなるの?」

「確実に没落するだろう。家を切り盛りする器量もないようだしな。かなりの浪費家と聞く」

 完全に一歩引いて物事を見ていた。

 自分の弟妹とも思っていないのであろう。

 そこでふと思った。ジョージの甥であるルークの立ち位置はどうなるのであろうかと。

「ルークはどうなるの?」

 その問いに、叔父であるジョージの顔は訝し気だ。

「ルークと僕は叔父と甥の関係で、僕の籍に入れている。僕の息子という扱いだ」

 クリスは考え込んだ。

「アリスン?」

 なぜそこで考え込んでしまったのか、ジョージには分からない。

「ベルク氏は『家が大事』で、貴方に継がせたがっている。でも貴方には継ぐ気がなく、会うのも拒んでいる……となると、ルークの立場がかなり微妙になってくるわよね?」

「どういうことだ?」

 甥のことだ。聞いておかなければならない。

「ベルク氏はかなり強引に物事を進めるところがあると感じたけれど、それは間違いないのかしら?」

 そのクリスの問いに、ジョージが頷く。

「ならば、ルークの身辺をもっと強固に警護すべきよ。ルークは貴方の籍に入っているとはいえ、本来は貴方のお兄様の息子だもの。系図から言えば、ルークも後継者のリストに入るわ」

「それはそうだが、可能性は低いのではないのか?」

 その疑問はもっともだった。

 今自分が標的になっているので、盾になってやれるし、自分が居る限り対象にならないと考えている。

が、クリスは危険と判断した。

「貴方に向いている『執着』が、ルークに向いたらどうするの?」

 思ってもみなかった言葉だったらしい。ジョージが目を見張った。

「ルークは貴方のお兄様の息子。ベルク氏から見たら孫にあたるわ。直接対面したことが無いにせよ、ベルク氏の血を受け継いでいる者。『家を残す』ことに執着していたら、強引なベルク氏のこと、力もあるから、自分の籍に入れて後継者として据え、手元で育てる可能性があるわ」

 言葉がなかった。

「そんなことが……」

「できないとは言い切れないでしょう? あのベルク氏ですから」

 それは可能性が高いと、クリスが忠告したも同然だった。

 相手は政財界の大物だ。裏から手を回し……なんてことも可能かもしれない。

「ルークは、貴方が傍にいないときにはベビーシッターに預けているのよね?」

 クリスの確認だった。ファーガソンが頷いた。

「では、ご自宅の警備はどうなっているの?」

「防犯システムを入れているが……」

「それでは手ぬるいかもしれないわね。警護の人間を雇った方が良いかもしれないわ」

 そこまでやる必要があるだろうか? ジョージは疑問だった。

 その表情を読み取ってクリスが言った。

「このまま貴方と会えない状態が続いたら、ベルク氏がしびれを切らしてルークを手に入れようと躍起になるのが目に見えていますよ」

 クリスにとっては当たり前の事実だった。が、クリスのような立場にいたことのないジョージはまだ疑心暗鬼だった。

「では一ヶ月でいいから、警備会社の人を雇って、実際に『人』に警護にあたらせてみたらどうかしら?」

 一ヶ月と期限を区切ったことで、ジョージは納得した。

 クリスは先ほどベルク氏を手ひどく追い返したこともあり、リアクションはすぐにでも起こるのではないかと危惧したのだ。

 このことを知っていたら、もっと穏やかに対応したかもしれない(「やった」と言わないところがクリスだ)。

 そして、秘書統括のリーグルを交えて、ファーガソン邸に至急警備を敷くよう手配し、翌日にも警備員が詰め所を作って交代で勤務できるよう状況を整えた。


 リアクションはすぐにでも起こる……。

 クリスはそう予言した。

 そして、クリスの嫌な予感は的中した。

 ……ルークの誘拐未遂が起こったのである。


「おいたん、おいたん、あーたん!」

 子供が泣き叫ぶ声がする。

 ベビーシッターの悲鳴が聞こえた。

 その声を聞きつけて、警備員数名が慌てて駆け付けた。

「警備員? そんな情報聞いてねーぞ」

 侵入者たちの情報は古かったようだ。

というよりも、クリス達の警備員手配の素早さを褒めるべきだろう。

 ファーガソン邸の防犯システムがつい先ほど切られ、警備員が不審に思って見回りに出たところ、子供の声と女性の悲鳴が聞こえたのだ。

「子供を離せ」

 警備員が言う。

 だが、離せるわけがない。自分たちの仕事はこの子供を依頼人の元に連れ去ることなのだ。

 クリスがこの場所に居たら、未熟者! と言ったに違いない。

 自分が誘拐する立場だったら、防犯システムを切るなんて行動をせず、映像をハッキングしてループ画像で偽情報を流し、子供に声を上げさせるなんて馬鹿なことはしない。

 誘拐に関し、二流、いや、三流と言わざるを得ない連中だった。

 警察にも通報が行き、SWATが駆けつける事態となった。

 叔父のジョージにもすぐ情報が飛び、慌てて現場に駆けつけた。もちろんクリスも同行している。

 この誘拐の黒幕であろうと推測されるベルク氏は、普段この土地で暮らしていないためわからないことであったかもしれないが、今、グッズモンドでは、ナノエックスフリーダム社とメディブレックス社が特許戦争を行っているのが大きく取り上げられている。

 この係争がどう終着するのか、この土地にいるものなら誰でも興味を持った。

その渦中の社長の子息誘拐未遂事件に報道機関は我先にと情報合戦を行っている。

 この事態に、クリスはあえて報道管制を敷かなかった。

 連邦特別司法官という立場から、報道に介入できたにも関らず、あえてそれをせずに情報をオープンにすることで、逆に相手へ牽制をしようとしたのである。

 これで事件はうやむやにならない。

 報道各局は、こぞって面白おかしく情報を垂れ流す。

 さすがに現在進行中の事件で子供が盾に取られていることもあり、個人情報に関することと、捜査関係者の対処方法については触れられなかったが、各局はレポーターを送り込み、近づける最大の場所から実況中継していた。

 報道各社の疑惑は、今のところメディブレックス社に向けられていた。

 社長がベルク氏の実子であることは、知るものぞ知る……と言った感じだったが、別に隠していたわけではない。父親の名前がなくともここまで会社を成長させたのはジョージの実力だった。

 父親の力がなくても、「ファーガソン兄弟」は自分の足で立っていたのだ。


 クリスに「誘拐については三流」と格付けられた連中は、諦めもまた三流だった。

 子供の命を盾に、立てこもったのである。

 これで事件は完全に陳腐な三流事件となってしまった。まったくもって頭の痛い問題だが。

 実力を自分で測れる玄人は、SWATに完全包囲されたと認めた場合、投降して弁護士を求めるか、人質を手放して自殺するか、解放した後に一斉射撃を浴びて人生を終わらせるか、というのが一般的というか捜査関係者の常識であった。

 その常識から外れたもの……クリスに言わせれば「雑魚」だが、考えが軽薄で、どんどん深みに嵌まっているようである。

 ……全く。政財界に通じている者なら、しっかりしたプロを雇え。

 クリスは口から出かかった言葉を慌てて飲みこんだ。

 聞かれたら大ごとだ。

 だが、しっかりしたプロならば、今頃ルークは依頼主の手の中だ。

 雑魚でよかったのかもしれない。

 しかし「プロ」が相手だったら約束されたルークの命の安全が、「雑魚」だからこそ約束されない。動きの予測も難しかった。

 今、ルークは人質として犯人たちの手にあるが、ベビーシッターは難を逃れていた。

 彼女の口から、犯人の人数が知れ状況がわかった。

 ルークはまだ小さい子供。

 防御も反撃もできない三歳児だ。どう対応すべきか、目まぐるしく頭の中で計算する。

 こんな時……非常時なのに、なぜかグラントの双子の姉妹を思い出す。

 ……あの子たち、飲み込み早くて、そこらの大人じゃ手が出ないほど逮捕術というより格闘術が上手くなっていたな。

 陰で父親が嘆いていたことも知っている。

 だが、間違ったことは教えていないと思っていた。

 自己防衛は必要だ。

 ルークにも、大きくなったら教えてあげられたらいい……。

 自分は「本来の仕事」が片付いたら、この土地を離れる。そのことが頭をかすって、無理やり思考を今の誘拐未遂事件に戻した。


 犯人は三人――。

 ベビーシッターの証言と、ファーガソン邸にある復旧した防犯機器の映像から確認が出来た。

 三人組というのは結束した時は強いが、一度関係が崩れれば一気に脆くなる。

 クリスは今、ジョージと一緒に警察の臨時指揮所の控えにいた。

 より近くに行って状況を知りたいというジョージと、現場に立ち入ることは許さないという警察との妥協点がこの場所だった。

 ここから先には進めない。警察に任せるしかないのだ。

 ルークの限界点ももうすぐだろう。

 時間がなかった。

 その時……。

 クリスの耳元で小さな音がしたような気がした。

 クリスの左耳にあるピアスには、緊急用の超小型通信機が仕込んである。

 これは電波を拾って頭の左側頭葉の一次聴覚野で音声として認識できるようにしてあるため、他人には聞こえない。ピアスは個人の脳に合わせて調整してあるため、他人が付けても聞き取れない。特別仕様の優れものなのだ。ただし、難点もある。脳への負担がかなり大きいために、緊急時以外の使用が認められていない、ある意味非常に危険なものだった。

「司令、聞こえていたらピアスに触ってください」

 この通信機を使用する場合、「はい」なら一回、「いいえ」なら二回触ることとビューとの間で決めていた。

 真珠に似せたカバーを付けたピアスを、一回触った。

 このピアスは、カバーの表面で指紋認証し、クリス本人が触れたことを確認して信号送信する仕組みになっていた。

「こちらでもモニタリングしていますが、子供はもう限界ですね。犯人たちが扱いに困り始めたようです。お互い不満を言い始めているようですし、この状況が続けば、雇い主の意思とは関係なく、『物』である子供は足手まといと始末されます」

 クリスはその言葉を聞きながら、まっすぐ屋敷を見据えた。

 それは、クリスも良くわかっていることだった。

 認めたくはないが、時間がない。

 クリスの横にはジョージが立っていた。

 握りこぶしを震わせながら、言葉なく正面をにらんでいる。

 そんな彼を労わるように、クリスはそっとその手に触れた。

 ジョージは一瞬驚いた顔をしたが、再び顔を前へ向けた。

 いろいろな意味で、クリスは今動けない状況にある。

 警察の存在、ジョージの存在、周囲の目という環境の問題……。

 そして「本来の任務」にこの案件は含まれないため、間接的な介入もできない、許されないということ。

 ビュー達が行っているモニタリングも本来なら「許されない」行為なのだ。

 警察の突入はもう少しかかるかもしれない。

 どうしたらいい?

 イラつく自分をもう一方の自分が冷めた目をして見ている。

 物事を分離して見る。そのスキルは司令として必要だったが、今の自分には、この「司令」という立場が、非常に「邪魔」だった。

 少しの間無言が続いた時……。

「司令、犯人を同士討ちさせましょう」

 とんでもない提案が頭の中に直接語り掛けてきた。

 一瞬目を見開いたが、すぐ何でもなかったように冷静な状態に戻る。

「我々の介入が警察に表面化せず、かつ、サッサと終わらせるにはこれしかありません」

 クリスはピアスをなで続けた。続きを促したのだ。

「一瞬そちらで傍受されている映像を乱します。その間に特殊訓練師範の捜査官を犯人の傍に近寄らせ音を出すだけの発砲をします。それを聞いたら疑心暗鬼になっている他のメンバーたちも互いに撃ち始めるはずです。そこまで犯人たちの心境は悪化しています。子供に関しては、師範がガードしながら当て身をして気絶した状態にし、警察に見つかりやすい場所に置き、我々は撤退します。これで『我々の介入』という存在は無くなり、警察が事件解決したという結果は保たれるはずです」

 確かに、それはベターな方法だろう。ただ、そう都合よく物事が進むものか……。

 だが、もう選択肢はない。

 クリスはピアスを一回触った。

 これにより事態が動いて行った。


 ぱぁん!

 一発の銃声が響き渡った。

 その直前の画像の乱れにより、一瞬混乱しかけた現場は、この音により混乱から抜け出た。

「突入!」

 SWATが突入を開始する。

 その映像が報道を通じて一斉に情報として流される。

 ジョージはそれを固唾を飲んで見守った。

 まだきつく握られているこぶし。

 それにそっと触れると、クリスは少し微笑んで見せた。

「ルークが無事に帰ってきたら、一緒にご飯を食べて、今日はゆっくり休みましょう?」

「そうだな」

 そう言ってまた、屋敷がある正面を向いた。

 自分と子供が住まうだけの小さな家だ。

 社長という立場からしたら、驚かれるほどの小さな館。

 ここから引っ越して、新しく家を建て、気分一新して生活した方が良いのかもしれない。

 そう考えていた時、警察無線が入った。

「子供を確保、無事です」

 わっという声が現場に響いた。

 その声で報道も気づいたらしい。

 子供の無事を伝えていた。


 救出されたルークは、今ジョージの腕の中にいた。

 小さなあたたかい存在。

 確かに生きていると鼓動を感じる温かさだった。

「ファーガソン社長、何か一言お願いします」

「今のお気持ちは?」

「何かコメントをお願いします」

 取材陣がジョージを取り囲んだ。

 ジョージは、この場で何かコメントを残さなければならない。社長として、親として。

「まずは皆さん、子供のプライバシーと心の傷を広げないためにも、配慮をお願いします」

 子供を映すなと伝えたのだ。この辺りは報道に携わる者たちも敏感だ、すぐに子供が入らないように映像のアングルを変更する。

「ご配慮感謝します」

 まずは、瞬時に映像を切り替えた報道へ感謝する。これで報道各社はファーガソンのイメージをアップしたはずだ。

「今回は警察のご尽力の元、無事子供を救出することが出来ました。救出にあたられた皆様、そして警察関係者の皆様に心よりお礼申し上げます」

 そう言うと、腕の中にいるルークを一瞬見てから再度顔を上げ、報道陣に向き合った。

「私は警察にこの度の件はしっかりした捜査をお願いしたいと思います。誘拐未遂に係わった犯人たちは同士討ちという最後を遂げました。これで事件は終わりではないと考えます。今回なぜこのようなことが起こったのか。その理由について私にはまだわかっていません」

 そこまで述べた時、報道陣から質問があった。

「今回の件は、メディブレックス社が関わっているとお考えですか?」

「それについては、私はコメントを差し控えたいと思います。警察には妥協なく捜査を進めてほしい。そう希望します。私からは以上です」

 そう言って現場での会見を終わらせた。

「社長、もう一言コメントを……」

「申し訳ありませんが、今子供が眠っています。控えていただきたい」

 そう言ってその後の質問をシャットアウトすると、子供を車に乗せて、クリスとジョージは一旦会社に戻った。


「本当ならホテルを手配すべきところだけど……ごめんなさい」

 クリスはそうジョージに謝った。

 安全と思われるホテルがすぐには思いつかず、むしろ会社が安全と思い、社長室に連れてきてしまったのだ。

 秘書としては失格と呼べる失態かもしれない。

 だが、ジョージは怒らなかった。

「下手にまっすぐホテルに行ったりしたら、また報道陣に囲まれる可能性もある。この会社ならセキュリティもあるし安全だ」

 実の父にそのセキュリティを突破されそうに何度かなっているが、それは彼の人が「自分の肉親である」ために周りが下手に手を出せなかっただけで、本来は安全の砦だと思っている。

「でも、この部屋にこもりきりでは、ルークが参ってしまうわ。どこか安全な場所を探した方が良いわね」

「手間をかける」

 そんな会話をしていた時、ジョージに通信が入っていると秘書室から連絡があった。

「誰からだ?」

 ジョージが問いかけた。

「秘書統括から。ベルク氏から通信が入っているとのことよ」

 ちっ!

 ジョージは舌打ちした。

 なんてタイミングで連絡をよこす!

 今はルークのことを第一に考えていたいのに!

 そんなジョージを見て、クリスが言った。

「もしよければ、私が対応しましょうか? 貴方はルークについていた方が良いでしょう?」

 このタイミングで通信を送ってきた意味……クリスにもわかっていた。

「社長が対応できないとき、壁になるのもまた秘書として有りよ。ほどほどにあしらっておくわ」

 その言葉に、ジョージは思わず噴き出した。

 前回のやり取りを思い出したからだ。

「しばらく手出しできないようにしてくれるとありがたい。音声を聞いているよ」

「了解!」

 にっこり笑ってクリスは社長室を出て行った。


 秘書室に着くと、そこには少し疲れた顔をしたリーグルが、相手と通信で対面していた。

 クリスはリーグルににっこり笑うと、通信を引き継いだ。

「お久しぶりでございます。ベルク様」

 相手は嫌な顔を前面に出してきた。これでよく企業のトップが務まるものと、内心感心もしていた。

「小娘、お前に用はない。ジョージを出せ」

「今『傷心の』ルークについていますので、それは致しかねます」

 ふん!

 相手はだからどうしたという態度だ。

「子育ても満足できぬ奴に孫を預けられるか。子供をよこせ」

 直球な切り出しに、思わず笑った。笑ってしまった。

 秘書室の者たちは固唾をのんで見守っている。

 このセリフで、本当の黒幕は誰か明かしてしまったようなものだが、気づいていないふりで会話を続けた。

「随分と酷い要求ですね。報道によってはじめて孫の存在を知った……ということでしょうか? ならばそれは出来かねます。そんな薄情な祖父の元に引き取られるとしたら……ルークの将来が悲しいものになりますから」

 その言葉に、ベルクがかみついた。

「ルークの存在はもっと前に知っておったわ! 表面だけしか見ぬ小娘め!」

 あちゃー。

 また言ってしまったか。

 これでここに居るものは、黒幕が誰か完全に気付いたよ。

 画面向こうから怒鳴られたクリスは、そんなことを思いながらも平然としていた。

「では、いつから『ルーク』の存在をご存じでした? 生まれたころからずっと……ではありませんよね? それでしたら『ベラロイスウイルス』の蔓延する難民キャンプでの子育て……なんて『あなた』ならお認めになられないでしょうから」

 ぐうっと相手が息を飲んだのが分かった。

「では、いつなのでしょう? あなたは『社長』に執着しておられる。家の跡継ぎ問題もあって、社長の女性問題も気になっていた。そこに子供が現れて社長がすぐに養子とした。あなたとしては気になったのでしょう? その子供がどんな素性の者か。そこで子供について調べてみた。すると自分の孫であると判明した。そんなところでしょうか」

 クリスはまるで見てきたことのように語った。

 そしてそれは事実だった。

「すべて推測のことではないか。その口を閉じろ。聞いているだけで胸糞悪くなる」

 ベルク氏は吐き捨てた。

「ではもっとご気分を悪くいたしましょう。実子である『ジョージ』が自分の思惑通り動かず、業を煮やしましたね。そのあなたがとった暴挙……。ここではそれ以上言うのは控えましょう。ですが、これだけは伝えておきましょう。先ほどの事件で、『ジョージ・ファーガソン社長』に三歳の子供がいることは世間に知れ渡りました。その子供に何かあったら……。今以上に騒ぎが大きくなることにはお気づきでいらっしゃいますよね?」

 言葉は丁寧だったが、中身はと言えば、可愛らしいものではない。

 クリスは、下手に手を出したら身の破滅になると言外に脅迫したのだ。

 その意味の分かったものは、皆顔色を変えていた。

 当の相手であるベルク氏には分かったのやらそうでないのやら。

「小娘、貴様の顔なぞ見たくもない。二度と顔を出すな」

 そう言ってベルク氏は一方的に通信を切ったのだった。


「フォードラス……」

 リーグルは顔色を悪くしてクリスを呼んだ。

 彼女の言外の意図を正確に読み取っての顔色の悪さだ。

「やりすぎだ……」

 胃の調子が悪くなりそうだった。

「社長の父親という方としては、ちょっと察しが悪いですね。ですから、分かりやすく言ったつもりですが? これでもわからないようなら、徹底的にやらせていただきます」

 クリスのいつもの変わらない笑顔に、リーガルはそれこそ胃がキリキリしてきて、机の引き出しの中にあった常備薬の胃薬に手を伸ばした。


 ジョージは、自分の父親とクリスの通信を聞いていた。

 そして驚いていた。

 ジョージも、クリスがここまで遣り込めるとは思っていなかったのだ。

 ……これは、怒りだ。根底にあるのは小さな子供を極限まで追いやった者への、怒り。

 そう感じた。

 だが、これでルークに手出しされなくなると思うと、彼女に感謝したい気持ちにもなり、また随分気持ちも楽にもなった。

 これで、ルークは自分の手元に居ることになる。

 自分の父親は気づいたかどうかわからないが……彼女は一本の逃げ道を作ったのだ。

 これ以上関わらなければ、今回の事件については詮索しないと。

 お互い関わり合いを持つのを避ければ、今回の件は不問に処すということを。

 父親が理解していなくても、せめて周りの者が理解してくれれば……そう思ったジョージだった。


「あーたん」

 目を覚ましたルークは、クリスを呼んだ。

「目が覚めた? ルーク」

「うん」

 そう言った後、先ほどの事件を思い出したのか、ルークが震えだしクリスに抱き着いた。

「ルーク?」

 クリスが語りかけた。

「……」

 言葉がない。

 ルークはそれこそコアラのようにクリスにしがみついたままだ。震えも伝わってくる。

 その状態を見て、クリスは今回あったことを事実ではなく「夢」として忘れさせた方が良いのだと判断し、ゆっくり頬を撫でると行動に移した。

 ルークの耳元でそっと囁く。

「ルークはね、こわーい夢を見たの」

「ゆめ?」

「そう。ねんねした時に、夢を見るでしょう?」

 こくん。ルークが首を縦に振った。

「こわーい夢だったね。こわーい夢。でも、ねんねすれば忘れるよ」

「あれは、ゆめ? ほんと? あーちゃん」

「ほんとだよ。だから、こわーい夢忘れるために、あーちゃんともう一回ねんねしよう?」

 そう言ってクリスはルークが抱き着いたままの体をゆっくりと揺らし始めた。

「あれは、こわーい夢。こわーい夢。こわーい夢は羊さんが食べちゃった。こわーい夢は羊さんがむしゃむしゃ食べちゃった。むしゃむしゃ食べちゃった。だからこわーい夢はなんにもない。なんにもない。なくなっちゃった。なくなっちゃった」

 一種の暗示に近いものだ。

 子供であるルークには本格的なものでなくても「怖い夢」として認識させておけば良いだろう。そう結論付けた。

 ゆらゆら……。

 クリスは静かに「こわーい夢は羊さんが食べちゃった。なくなっちゃった」を繰り返した。

 ゆらゆら……。

 ゆらゆら……。

「アリスン?」

 ルークはクリスにしがみついたまま、コテンと眠ってしまった。

「寝ちゃったわ」

 苦笑してジョージを見た。クリスの腕の中で眠るルークの顔には、先ほどの「恐怖」は浮かんでいなかった。

「実際にあったことではなく『怖い夢』としていた方が良いかと思ったの……。もし、それでも日常に支障がありそうなときは、カウンセラーに相談した方が良いと思うわ」

 クリスはルークを見ながらそう言った。その顔には慈愛の笑みが浮かんでいた。

 その笑顔に引き付けられるジョージ。

 自分は博学で素晴らしい人物を秘書として迎えたらしい。


 ジョージは自分の気持ちに気づいていなかった。

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