第十六章 一つの論文
バリー・マンソン
クリスの天敵と言ってよい相手である。
その彼が、リクルートされていた?
この会社に?
クリスはそれを聞いて呆然としていた。
「フォードラス、大丈夫か?」
上司の声に、慌てて答える。
「だ、大丈夫です」
だが、その嘘も簡単に見抜かれる。
上辺だけの付き合いをしてきたわけじゃない。
社長と秘書。
それもベンチャー企業の社長と秘書だ。
普通の会社の社長と秘書の関係より関係は濃い。見抜かれるのも当然であった。
「フォードラス、『マンソン』とは知り合いか?」
「いえ……」
とっさに嘘が口に出る。だが、ファーガソンは騙されなかった。
「そんな顔色で何を言っている。まずは体を休ませろ」
とっさに顔を隠したクリスにファーガソンはそう言う。
だが、秘書としては、それは許される行為ではなかった。
「いえ、もう大丈夫です」
そう言って立ち上がった。
「フォードラス、何度も言わせるな、休め」
「いえ、大丈夫です」
そんな彼女の強情に手を焼いたのか、ファーガソンは強引な手に出た。
「いいから、休め!」
そう言って両肩を掴むと、先ほどまでクリスが腰かけていたソファーにどさっと押し付けた。
これに、クリスは驚いた。
そして、行動に出たファーガソンはもっと驚いていた。
「社長?」
「いいから、横になっていろ」
そう言って、肩から力を抜いたクリスを確認すると、両肩に置いた両腕を離した。
「社長?」
クリスの問いかけに社長であるファーガソンは返事が出来ない。
自分でもこの行動に説明が出来ないからだ。
ソファーに横になったまま視線を自分に向けて動かないことを確認して、渋々ながらファーガソンは言葉を継いだ。
「マンソンとは知り合いだったのか?」
再度の問いに、クリスは偽りを言うのをやめた。
「同姓同名でなければ……多分知り合いだと思います」
ぽつりとそう言った。
「どんな関係だったんだ?」
そう問いかけてから、ファーガソンは慌てて訂正した。
「この問いには答えなくてもいい。プライバシーに関係するからな」
そんな言葉を添えた社長にくすりと笑う。
「どんな関係と言われても、困りますね。たった一度会っただけなので」
その言葉にファーガソンは驚く。
「たった一度会っただけの人間を覚えているのか?」
それは当たり前の疑問だったであろう。さもありなんと、クリスは苦笑した。
「そのたった一回が、忘れられない邂逅だったんです。大学の授業を二人で『ぶっ壊し』ましたから」
その過激な表現にファーガソンが驚く。
「ぶっ壊す?」
「それが妥当でしょう。授業が崩壊したんですから」
秘書の見本ですというような今のクリスが、授業を壊す?
とても想像できなかった。
「大学時代、私は優等生をしていたわけではありません。教授に喧嘩売ってたこともあったんですよ」
それこそ信じられない。
クリスは嘘と現実を混ぜて話を進めた。これで、うやむやな部分を突けなくなっただろう。
「医療倫理の授業で喧嘩をしたんです。今から考えると、なんであんなことで……と思いますが、彼の言っていることに間違いはなかった。でも私も意見を曲げることはできなかった。私と彼の最終目標は同じでした。ただそこに至る道が違ったというだけ。それだけだったんです」
クリスはソファーに横になりながら、ファーガソンを見てそう言った。
「君と医療倫理の価値観は一緒……か。ますます欲しくなったな」
そう言うファーガソンにクリスは目を伏せた。
「Dr.マンソンはお亡くなりになりました」
「亡くなった?」
「はい。半年以上、いえ、十か月以上前に事故で死亡したと聞いております」
純粋に驚いているファーガソンに、「悪い方の考え」は当てはまらなかったことに安堵した。つまり、研究員として手に入らなかったから「消した」と内容が否定されたということだ。
「残念だ。絶対に欲しいと思っていた研究家だったからね」
「そこまで欲しい人物だったのですか?」
「彼は発表していない論文を見せてくれたよ。今の会社に居る限り、この論文は発表できないと言って。兄にも専門家として見てもらった。斬新的な発想で、大会社ではこの発想についていけないだろうと。我が社向きの人材だろうと言っていたよ」
ジョージの兄の慧眼に感心した。あの男は確かに大会社の雇われ研究員には向いていない。もっと羽の伸ばせる自由な環境の方が研究しやすいだろうし、結果を残せるだろう。
そのあいつは、今は……。
社長には言えない。この件は。
そんな思いを胸に隠し、クリスはそっとソファーに起き上った。
「もっと横になっていた方が良い」
「いえ、もう大丈夫です」
本当か? と伺ってくる顔に、にっこりと笑って見せた。
「君の笑顔は何か時々裏があるからな」
えっ、と驚いて見せた。
「私、そんなに笑顔が変ですか?」
「そういうことを言っているのではなくて……」
なんと言っていいかわからず、ファーガソンはこの件に匙を投げた。
ビューがこの場に居たらこう言っただろう。
――貴方の笑みには含みがありすぎます。
クリスとファーガソンは普通の社長と秘書との関係よりもより深い関係性を築けていたが、ビューがクリスに言えるような内容について、まだそこまで言えるほどの関係を築けていなかった。
その日は会社の内部情報を少し掴めてよかった、ということにして、クリスは終業後、スーパーで買い物をするとマンションに帰宅した。
冷蔵庫に購入してきた野菜や肉・魚を突っ込むと部屋を出て、ビュー達が捜査の拠点にしている部屋に乱入した。
「マンソンが最後に研究していた内容がわかったぞ」
その情報に、その部屋に居た全員が驚く。
「最後に研究していたのは、あの『ベラロイスウイルス』だ」
全員がぎょっとした。
「え? ファランド司令補のチームが捜査している、あの『ベラロイスウイルス』ですか?」
捜査官の一人が言った。
「ああ、その『ベラロイスウイルス』だ」
クリスは再度繰り返した。
「しかも、こっちの社長はマンソンにリクルートかけていたらしい」
「何ですって?」
ビューが新情報に驚く。
「これで少し事態が見えてきたな」
クリスがそう言って、手に持ったボードを指した。
「この中に、マンソンの最後のものと思われる未発表の論文がある。所属している会社にではなくリクルートかけてきた会社に渡したことが彼の内面の表れかもしれない」
みんな、ボードに注目する。
「専門家も興味を持った内容だ。科学分析部などは目を輝かせるだろう。だが、閲覧には注意してほしい。この論文は『ユーグレートシステム』を使用して書かれているという点だ」
それを聞いて、げっという顔をしたものが数人。そのシステムの内容を知っている者だった。
――ユーグレートシステム
閲覧回数と複製した数とをカウントするファイルシステム。
原文にはロックがかかっており、管理者(論文作成者)以外手を加えることができない。紙媒体にコピーもできないという優れものだ。
内容を確認しようと論文を開けば閲覧数のカウントが増える。
後でみるためにと別の機器にコピーすれば複製数としてカウントされる。
複製したファイルを開けばまた閲覧数のカウントがされるという、捜査側にとって痛いシステムであることは否定できない。
「理解できるかどうかはわからないが、読んでみたいと言って複製を取らせてもらった。これで私の複製分がカウントされたわけだ。これを開いて一カウントは増やすことが出来るが、それ以上のカウントはできない。わかるな?」
「はい」
全員が頷いたのを見て、クリスは自分の情報分析官に連絡を取るように伝える。
「ケイティ、居るか?」
「もう、私のこと忘れちゃったかと思いましたよ」
ケイティがすねたように言う。
「すまない。君のことはちゃんと覚えているよ」
「ま、うれしい。……ところで、そんな挨拶のために連絡してきたわけじゃないでしょ?」
「推察、うれしいよ。さっそくだが『ユーグレートシステム』解除できるか?」
単刀直入な質問に「うげっ」という声が返ってきた。
やっと連絡くれたと思ったのに、それですかぁ~。
と泣きが入っている。
「ユーグレートシステムって、鉄壁論文管理システムですよ。いくら仕事の速い私でも、それには時間が欲しいです」
本当に半泣きの声だった。
「幸い、今は金曜日の夜。週末を挟むから、月曜の朝までには何とかしてくれ。カウント数を増やすような真似はするなよ」
「ラジャー(了解)」
そう言ってケイティとの通信を切った。
「司令、今回のことはどうやって情報を得たのですか?」
ビューが問いかけてきた。
「何、偶然というやつだよ」
機械に囲まれた部屋の中、空いたスペースに置かれたソファーにクリスは腰を掛けた。
そこにスッとお茶を出すところがビューらしい。
「どういうことかお聞きしても?」
ああ構わない。その意を含めてこくりと縦に首を振った。
「会社の秘書としては、パンフレットに書かれていない内情というものを知る必要があると思ってな、空き時間に聞いてみたんだ。ファーガソン氏に」
クリスはゆっくりとお茶を飲む。
その間にビューはクリスの真正面の席に移動した。
「会社の成り立ちや、研究者たちの情報、なかなか興味深かったよ。そんな時、研究員としてスカウトが出来なかった人物の話が出たんだ」
周りにいる捜査官たちも耳を立てて聞いている。
滅多に聞けないクリスの話だ。興味も湧く。
「社長直々にスカウトしに行って出来なかった人物……それがマンソンだった。会社との雇用契約が残っているから、待ってほしいと回答したようだ」
「つまり、雇用契約が切れたら……」
「ナノエックスフリーダム社へ転職するつもりだったな」
ソファーに深く腰掛けながら足を組む姿。悠々としていながら威厳がある。
――司令の姿だ。
「ナノエックス社がマンソンの引き抜きをかけていた時期と、マンソンが事故死した時期はそう離れていないんだ。これから考えられるのは一つ」
「メディブレックス社がマンソンの流出を恐れた?」
「そう考えるのが妥当だろうな」
クリスとビューが推論をまとめてゆく。
その話にゴクリ。捜査官たちののどが鳴った。
「その理由も恐らくこの論文の中にあるのだろう。科学分析部に回したいところだが、ユーグレートシステムを解除できないとどうにもならん」
ふーっとクリスがため息を吐いた。
「では、その論文なしで考えられることは考えましょう」
「そうだな」
クリスが合槌を打った。
「ナノエックス社がマンソンに引き抜きをかけていたことから、『ベラロイスウイルス』に関する研究をしていたのは間違いない」
ビューが頷くのを確認する。
「その『引き抜き』にメディブレックス社が気づいた。ベラロイスウイルス研究にはメディブレックス社でもマンソンが必要だったのだろう。引き留めにかかった」
「でも彼はそれを断った」
「妥当なところだろうな。彼の性格からしたら、頭ごなしに命令してくる奴にはぶつかっていく傾向がある。その点を理解しない上司には見切りをつける。メディブレックス社はそこに気づいていなかったな」
「引き留めることのできない上層部は強硬策に出た」
「ベラロイスウイルス研究に関して、ナノエックス社はライバル会社だ。その会社に奪われるくらいなら……」
「消してしまえと考えるのはおかしなことじゃない」
二人は淡々と話をしている。
聞いている者たちは、その分余計に真実味が増し、恐ろしかった。
「でも、私なら、ただ『消す』ことはしない」
クリスが表情のない顔で言う。
「消したことにして『利用』するということですか?」
「そうだ」
この言葉にぞっとした。身を震わせたのは一人や二人じゃないだろう。
「おそらく、マンソンは『死亡』したことにされて、どこかで『研究』を続けさせられている。あの男が助けを求めてくる状態だ。『非人道的』な行為をさせられている可能性が高い」
クリスは目を細めた。
その正面にいるビューはごくりと息を飲んだ。
「ビュー司令補。科学分析部に『ベラロイスウイルス』関連の研究者に絞って情報を集めさせろ。行方不明になった人物が居たら、はがきに有った指紋の照合をかけるよう伝えてくれ」
「つまり、他に不明や死亡した者が居て、その者たちがマンソン氏と一緒にいる、そうお考えで?」
「そうだ」
普通の感覚では考えつかない推測だった。
「そして、はがきの背景について、花びらについて、もっと徹底的に洗うように言ってくれ。マンソンはどこにいるのか? その答えが必ずあるはずだ。いいな?」
その簡単な問いに、ビューも簡潔に返答した。
「畏まりました」
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