第十三章 秘書スタート

 時は少し遡る――

「随分、面白い人材をよこしたじゃないか」

 クリスはアパートに帰るとクスクスと笑い出した。

「まさか『刺身』を知らないとは。『熱燗』では舌に火傷をするし。これではダメだな。もっと多文化を知る機会を作るとするか」

 異文化コミュニケーションの場を作ろうと、クリスは決心した。

 あれでは、自分の知らない異文化に触れたら使いものにならない。そう判断するほかなかった。

 クリスは銀河連邦航宙士中央養成学校(アカデミー)で揉まれた。言ってみれば異文化だらけの中で生活をしていたわけだ。アカデミーは全寮制。いろいろな星系のいろいろな惑星から学生が選抜されて集結する。そして三年間の寮生活だ。アカデミーではチームを組んで学生生活を共にする。チームメイトは言わば戦友のようなものだ。戦友と言っては大げさだと思われるかもしれないが、アカデミーはサバイバルだ。生き残りを賭けた、学業を含めた訓練面での戦友と言っていいかもしれない。その荒波をチームメイトと乗り越えてきた。三年間、チームから一人も脱落者を出さなかったのは、チームメイトたちの団結のおかげだ。強烈な学生生活だったことは否定しないが、良い経験、そして思い出だ。

 仕事が忙しくてなかなか連絡は取れないが、そういえば他のメンバーはどうしていたかなと思い出す。チームメンバーは全部で五人。――ああ、一人は船医になり、もう一人は船舶技術者、そして科学者になった者と、航宙船の火器物取扱者兼戦闘術教官となった奴がいたなと思い出した。……懐かしいな。この一件が落ち着いたら、久しぶりに集合をかけて飲みに行こうか。そう思った。

 そんな時、クリスに通信が入った。

 ――誰からだ?

 疑問に思う。こんな夜更けに、携帯ではなくアパートに取り付けた通信機に連絡をよこすとは……。

 訝しみながらも通信に出る。

 通信を送ってきたのは、ナノエックスフリーダム社の秘書統括のリーグルだった。

「夜分すまない。何度か君の携帯通信機に連絡を送っていたのだが、出なかったので、こちらに送ってみた。いま大丈夫か?」

「はい、かまいません」

 クリスはそう答えた。

「実は明日からの研修だが、急遽場所が変更となる。君は、こちらに午後から出勤予定だったね?」

「はい?」

 何だろう?

「すまないが、出社したら社長室に直行してくれないか? 私は別件で朝から会社不在となる。他の秘書たちも他の案件で手が回せる状態でないから、社長に同行してほしい」

 ちょっと待て!

 会社について何も知らないガキを、社長につけるのか? この会社は!(自分も同じようなことをボンドにしようとしていることを棚に上げている)

「難しい案件はないので、初日の君での対応できるだろう。では頼んだよ」

 をい!

 クリスが言葉を発する暇なく、通信が切られた。

 自分の力量を図ろうというのか、単なる偶然か。

 ……やってやろうじゃないか!

 クリスの闘争心に火が付いた。


 クリスは資格マニアだ。

 法律をはじめとして、航宙士資格、宇宙空間船外作業員資格、SP資格、外交官資格等様々持っているが、「秘書」の資格は持っていない。秘書という仕事に就くことがあろうとは考えてもみなかったし、アカデミーの学生にはあまり、いや、正直必要のない資格だから、研修も講座もなかった。

 そこで、秘書にはどんな知識が必要なのか、情報の海で探ってみた。

 ふむふむ……。

 一般常識をベースとして、マナーや応対態度、etc etc……。

 何だこれ? 副官業務といっても差し支えない内容ではないのか?

 秘書にもレベルがあるが、一番下のレベルなら、常日頃やっていることである。

 何とかやれるか、この仕事?

 相手も、自分が資格を持っていないことは承知だ。

 なるようになるさ!

 秘書業務に関しては半分開き直りで当たることにし、この日はナノエックスフリーダム社について理解を深めることに没頭した。


 ナノエックスフリーダム社――

 資本金、三千万。

 会社設立は十年前。

 創立者で社長はジョージ・ファーガソン。大学時代に会社設立。

 名誉顧問にサンダース・シモンズ博士。

 シモンズ博士はウイルス学の権威。社長の人柄と理想に共感し、自ら顧問を申し出た。

 ナノエックスフリーダム社は「ベラロイスウイルス」に特化した研究機関として発足する。

 主任研究員はダンソン博士。若くして博士号を取得し「ベラロイスウイルス」を専門に研究しており、研究に賛同した研究員が集結し研究を進める。

 研究施設に関しては、閉鎖した大学の研究施設をそのまま代用。

 施設購入費を大幅に落とし、その分研究費に充てている。

 ベンチャー企業としてはある程度名の知れた会社で、頭角を現しつつあり特許も複数取得している。

 可能性を秘めた会社として、評価する企業も多く、経済誌や地方紙に何回か特集記事が掲載されている。


 ここまでが一般的な情報である。

 さて、自分は、この先の情報を知る必要はあるだろうか。

 ここから先は「特別司法官」だからこそ入手できる情報になる。

 ――情報を持つことで、対応がおかしくなったりしないだろうか。

 迷いも少しあったが、わかる情報はすべて得たうえで素知らぬふりをして業務にあたる方が良いと考え、その先の情報を得ようと機器を扱った。

 そこには……興味深い内容が書いてあった。


 ジョージ・ファーガソン

 コングロマリット経営者であり、最高責任者であるフランク・ベルクの第二子。

 父であるベルクに対立し、両親の離婚時、母親に同行し母の姓を名乗る。

 母親は事故により他界。

 父親との親子関係は劣悪と言っても良い状態。

 会社創立時には、父親関係の会社とは距離を置き、出資依頼をしていない。

 経営は自力で融資を漕ぎつけ、順調に業績を伸ばしている。

 大学に関しても、父親からの援助はなく、学費に関しては全額給付の特待生制度を利用し、生活に関してはアルバイトで生計を立てていたようだ。

 家族と呼べるのは、兄のみ。

 兄も父親とは距離を置き、生活していたようだ。

 フランク・ベルクには、子供は居るが、今、後継者と呼べる子供は居ない。

 ファーガソンの異母兄弟にあたる第三子と第四子は、放蕩息子、娘のようだ。

 こうなってくると、親を拒否している状態ではあるが、相続問題に巻き込まれる可能性も否定できない。

 どのような動きとなろうとも、今現在は関係ない事案として、頭の片隅に置く程度でいいか……。

 クリスはそう判断した。


 そんな時、通信が入っていることに気が付いた。

 連邦政府関係者のみが使用可能な、暗号通信だった。

 双方向通信ではなく、メールの形で送られてきたらしい。

 これはありがたかった。

 ナノエックスフリーダム社に異動になる以上、不必要な接触は避けたかった。

 警戒されては困る、非常に。

 つい先ほども、その会社から連絡があったばかり。

 こちらも悟られないように警戒心なければならない。

 今回は「ZERO」アドレスに送られてきたようだ。

 クリスが今回使用するアドレスは全部で三つ。

 前回の「KEINA」、今回の「ZERO」、予備の「RONZO」である。

 通信面を開く。

 文面は全部記号だらけ。というよりも複数の文字を利用して暗号として成立されている。

 これを解読表に照らし合わせて、解読機にかける。

 文章を送付してきたのは、ビューだった。

 各司令補達の担当事案の詳細、進捗状況の報告だった。

 フムフムと読んでいくと最後に、ビューの私信と呼べるメッセージが書かれていた。

 ――お願いですから、無茶しないでください

 これを見て、クリスは思わず大笑い。

 これを記入した時のビューの顔が目に浮かぶようだ。

「はいはい、了解」

 そう言って、クリスは返信文章を記入し始めた。


 ビューは着信に気が付いた。

 ビューの方でも「KEINA」「ZERO」「RONZO」のメールは確認できる。

 クリスはそこで、「ZERO」あてに来た文章を「ZERO」あてに返してきた。

 もちろん、暗号化済み。これを解読した。

 その文章を読むと……。

 ビューは一行目で大笑いした。

「随分と素直で可愛い坊やを送ってきたではないか」

 これが書き出しであった。

 自分のことを棚に上げて、この文章である。

 ボンドはクリスより年上である。そのことを忘れているのではないだろうか。

 その彼に対し、完全に「坊や」扱いである。

 「坊や」と言われかねない行動があったことは文章から否めないが……。

 その文章の後は、今後ビュー達にどのように動いてほしいのか、その記載があった。

 ビューは何度も読み返しながら、誰にどの業務を割り当てるのか考えていた。

 そして最後の文章でまた笑ってしまう。

「異文化交流について、検討しろ」

 これは、クリスとボンドの間のやり取りで何かあったと感じさせる文章だった。

 実は笑えるやり取りであったのだが。

 とりあえず、面接は成功したらしいと判断し、ビューはその日の業務を終了して眠りについた。


 クリスは翌日、怒涛の嵐だった。

 午前中はボンドのへの引継ぎ(押しつけともいう)、そして午後は慣れない秘書業務である。

「お疲れ様です」

 ドアをノックした後、ナノエックスフリーダム社の社長室のドアを開けた。

 そこには、すでに仕事をしている社長の姿があった。

「やあ、今日からよろしく」

 そう声を掛けられ……。

「よろしく、お願いします」

 そう答えたクリスだった。

 さて、自分は何をすればよいのか。

 軽く見渡すと、デスクの隅に空になったティーカップがある。

 オーソドックスに、お茶くみでもしてみるか。

 デスクにより、カップを持ち上げた。

「取り敢えず、お茶、入れましょう。ご希望はありますか?」

 社長であるファーガソンは、一瞬キョトンとした後

「では、アッサムを貰おうか」

「はい」

 そう言って社長室を出て、給湯室へ向かった。


 給湯室の棚を覗くと、様々な茶葉があった。

 コーヒーについては、一種類しか置いていないことから紅茶好きらしい。

 こんなところは自分と似ているかもしれない。

 自分の執務室横の部屋にも、お茶がぎっしりだ。

 紅茶好きを知っている知人は、出張等地方に行くとその土地の名産の茶葉を買ってくることが多かった。

「さてさて、アッサム……ねぇ」

 アッサムは一般的な茶葉だ。レストラン等で「紅茶」と注文する場合、この種類のお茶が出ることが多い。だからこそ、個性が出やすいかもしれない、とクリスは思う。

 ケトルに水を入れ、電熱器に置く。

 その間にティーポットと茶葉を確認する。

 ティーポットは葉がジャンピングしやすい横長のラウンド型が棚にあった。

 アッサムの紅茶缶を見つけ蓋を開ける。

 紅茶の香りがふわりと漂い、茶葉が見えた。

 細かい茶葉のようだ。

 そうすると、蒸らす時間は……。

 いつも自分が入れるお茶の手順で大丈夫なようだ。

 それがリラックスする要因になったのだろう。

気持ちが楽になった。

 お湯が十分に沸いたことを確認して、ティーポットとティーカップを温める。

 その間に、お茶用のお湯を沸騰させる。

 沸騰する時期を見計らってティーポットに入れていたお湯を捨て、ティースプーンで茶葉を計って入れる。

 そして湧きたてのお湯をティーポットに入れ、茶葉を蒸らした。

 ティーポッドの中では、茶葉がジャンピングして踊っている。

 葉が開いてきて、そろそろかなと思ったとき、温めていたティーカップにお茶を注いだ。

 よし!

 気合いを入れて、社長室に紅茶を運んだ。


「どうぞ」

 ちょうど仕事が一区切りしたらしい社長の前にティーセットを置いた。

 ティーカップを手に取り一口飲んだファーガソンは驚いた顔をした。

「こんなおいしい紅茶は初めてだな」

「そんなお世辞は必要ありませんよ。これから一緒に仕事をしてゆくのですから」

「いや、世辞ではない。香りもいいし、口当たりもまろやかだ。美味しいな。こんな紅茶をこれから飲めるのはうれしい」

 そう言ってさらに口にし、ゆっくりと飲み干した。 

「すまないが……もう一杯頼めないだろうか?」

 その言葉に、クリスは破顔した。

「よろこんで」

 そう言ってカップを持ち去ろうとするクリスに

「今度は君の分も一緒に……」

 クリスは笑顔で

「分かりました」

 そう言って再び給湯室に向かった。


 秘書統括のリーグルが言ったように、今日は「難しい案件」といったものはないようだ。

 外出が一件あったが、それ以降は本社詰めで来客もなく、今進めている複数の事案がクリスと話し合われ、法律的にどうなのか確認しながら方向性を決めて行った。

 もちろん、レファード州法はクリスの専門外なので、法規法令集を片手にしながらの対応であったが。

 二人の間には紅茶があった。

 ……ゆっくり、お茶を飲みながら。

 これがこの日の暗黙の了解になっていた。

 そんな案件の中に予算の決裁書類も紛れて来る。

 これが中小企業の困ったところと言えるかもしれない。

「少しよろしいでしょうか」

そう言って書類を一旦預かり、書類を分別していった。

「今日は統括が居られないせいで、書類がうまく分けられて居ないようですね。これで、捗ると思われますがいかがでしょう?」

クリスは纏めた書類を差し出した。

「見やすくなったな」

予算関係、研究報告関係、社内連絡、他企業への連絡と大きく分けられていた。

「これで捗るようなら嬉しいです」

そう言って、追加になった書類も足して行く。

「君はどうして……」

ファーガソンは口ごもる。

「何でしょう?」

クリスにはファーガソンが言いたいことわからなかった。

そこまで阿吽の呼吸が出来ている関係にはなれていない。まだ初日なのだ。

予算の決裁書類を見ては、クリスは問い掛ける。邪魔でなければという文言が付いていたが、今日は余裕があるらしく、ファーガソンは問い掛けに答えていった。

どこからどのような流れで、ここまで(社長まで)決裁が流れてきたか。

そこは飲み込みの早いクリスらしく、一回で覚えていった。

「これは大変ですね。差し出がましいようですが、もう少し下の部署に決裁権を与えてはどうでしょう。これでは社長の負担が増えるだけです」

控えめというには些か問題があるかもしれないが、クリスが意見を言った。

自分がこの立場だったらと思うと、怖い。

決裁する書類が多くて、冷気を漂わせた笑顔で切れているかもしれない。それほどの書類の量だった。

「そうだな、そのうち考えるとする」

それが現時点での社長、ファーガソンの考えだった。

「つまり、今の時点では、最終的な決裁権は部下に与えないと?」

「それは、考えすぎかな? 今の時点ではそれは私の責任においてすべて行うという心の現れなのだが?」

「詭弁でしょう?」

クリスはキツい言葉でバッサリ切った。聞きようによっては非常に失礼な物言いだ。まして、まだ仕事初日である。相手が不愉快に思っても仕方なかった。だが、クリスの物怖じしない態度を良しとして採用を決めたファーガソンだ。その言葉を聞き、続きを促した。

「信用できる部下であれば任せるのが上司というものでしょう?」

これはクリスの持論だ。相手に押し付けてはならないことはわかっている。

でも、今後会社を続けてゆくのだとしたら、言わなければならないことも理解している。

「ある程度部下を信用して決裁権を与えるのも会社の長たる社長の勤めではありませんか? 責任は自分がとるから、自由採決権内でやってみろというのは、部下の成長を促す効果にはなりませんか?」

 クリスはそれを最大限に利用しているチームリーダーと行ってよい。

 最終責任は司令である自分が持つから自由にやれというのがクリスの基本姿勢だ。

 今のところはという言葉が付くが、これがうまく機能している。

 かえって、決裁権を与えたことで、部下達の気が引き締まったと思う。

 が、ここは彼、ファーガソンの会社だ、決定権は彼にある。

 既に組織化してしまっている特別司法省とは比較が出来ない。

「それについては、結論を出すにはもうしばらくかかるだろう」

 そういうものなのだろうか。

 この会社はまだ設立十年だ。だが、もう十年という見方もできるのだ。

 社内に何か問題でもあるのだろうか? 

 そう疑ってしまうのも仕方なかったが、ファーガソンはその点に触れなかった。

「まあ、そういうこともあるでしょうね」

クリスはことばを濁した。

今のところ、この時点で踏み込むべきではないとは判断したためだ。

「しかし、この仕事量は問題だと思いますよ。現在、決裁権が貴方に集中している状態で貴方が過労で倒れたりしたら、会社が立ち行かなくなってしまいます。ほどほどにという言葉を貴方に贈りますよ」

「肝に命じておこう」

こんな感じで、初日の午後の時間は過ぎていった。


 次の日――

 午前中は会社近くに住むことになるため、アパート物件を探して歩くために時間を貰った。実際、物件を探していたのも事実だった。が、その点はビューや他の司令補たちとの連絡の取りやすさを考え、ビュー達捜査官がナノエックスフリーダム社に近く、かつ、安全性が万全なアパートを探して手配しようと動いているところだった。

 そして午後……。

 クリスは秘書となるために何が不足しているのかを図るため、秘書統括のリーグルの元、テストを行うことになった。自分には何が欠けているのか、自分なりに判断するためにも良い試験となると、クリスも前向きだった。

 結果。

 時事問題や常識問題等に関しては問題なし。むしろ優秀点ともいえる内容だった。

 問題は……レファード州ならではの風習等に通じていないこと。

 このことから、レファード州や惑星域での常識とまではいわないが、土着した風習やピジン化した言葉などを知識として補う必要があった。

 これをもとに、クリスは、秘書統括のリーグルに「秘書とは何か」を徹底的に叩き込まれた。

 その上で、秘書検定を受けるだけの知識はすでにあるので、資格として取得しろと言ってきた。

 しかも「一級」を。

 そんな資格、本来の自分はいりません。と言って突っぱねたいが、今の自分はそうはいかない。

 会社の方針には従わなければならない。

 やるしかないのか……。

 これで、クリスの資格リストに「秘書検定」が加わることは間違いないようである。

 リーグルは、会社間の立ち位置や重要関係者、どのような者がキーパーソンになるのか、実務者の状況など、細かく教えて行った。

 補佐の仕方についても同様である。

 書類を並べる順番から裁可の下りた書類をどう扱うのかまで。

 秘書は裏方仕事であるが、いかに大事かということがわかる。

 そういえばこの仕事、ビューに任せたままにしたものもあったな。

 考える時間もでき、補佐役を行っている部下たちをありがたく思った。


 夕方――

 リーグルにしごかれ、知識を叩き込まれたクリスは、くたびれてアパートに戻った。

 引っ越しの用意をしなければならないな。

 このアパートはボンドに引き渡すため、クローゼットにある洋服等を片付けねばならなかった。幸い、荷物をすべて解いていたわけではなく、箱で放置されていたものもあったので、作業は割と楽かもしれない。

 夕食は軽めにしようと、パスタとサラダを作り、食べていたちょうどその時、通信が入ったようだった。

 通信を開いてみると、画像はなく、文章のみだった。

 不動産会社からの通信。

 条件に合うよさそうな物件があるので見てみないかという文章だった。

 その内容に、明日の始業前に見てみたいと無茶な要望を出したが、不動産会社はすぐに了承の意を伝えてきた。

 明日は、不動産会社推薦のアパート経由で出勤だな。

 万が一のことを考え、リーグルに通信を送った。

 この二日と通勤ルートが違うため、遅刻してしまう可能性があったからだ。

 すると……。

 物件確認にリーグルも同行するという。

 どういうことだろうか?

 疑問に思いつつも、特に拒否する理由はなかったため、了承した。


 翌日――

 教えていた不動産会社の前に、リーグルがいた。

「おはようございます」

 自分は早めに来たつもりだったが、リーグルはもっと早かったらしい。

「遅くなりまして、申し訳ありません」

「いや、私が早く着いただけだ」

 二人が話しをしていると、不動産管理会社の担当者がやってきた。

「おはようございます、すいません、待たせてしまったようですね。フォードラスさん、行きましょうか」

 そう言って隣に立っていたリーグルを見上げた。

「あの、こちらは?」

「会社の上司にあたる、リーグルさんです」

「初めまして、リーグルと申します」

 きりりとした態度で接せられて、相手が驚いている。

「ご一緒に確認ということは、同居でもなさるんでしょうか?」

 純粋な疑問だ。借り手が一人と二人では違ってくる。

「そうではなくて……」

 リーグルが会話を引き取った。

「会社として借り上げることになるかもしれないので、確認のために同行させていただくんですよ」

 その言葉を聞いて、クリスは、はあ? っという顔になった。

「君には言ってなかったね。社長が会社都合で君を転居させることになってしまったので、家賃を経費で落とすと言っていてね。そのこともあって、同行することになったんだ」

 聞いてない。まったく聞いてない。

 そんなにしてもらうのは悪いと言いかけた時……。

「会社として、君のようにリクルートしたことにより転居せざるを得ない場合のモデルケースになってもらおうと思っているんだ。だから、今後の社員のために拒否はしないでほしい」

 そう言われると断れない。

「……わかりました」

 三人は物件に向かって行った。


 築十年。三階建てのマンションだった。

 共用スペースは清潔で、エレベーターもある。階段も広い。

 部屋は2LDK。

 一人暮らしにはちょうど良い。

 キッチンも広めで作業しやすくなっている。

 壁紙もきれいで、あたたかいアイボリー色だ。

 家具や家電は新品の造り付け。

 本当に自分個人の所有物を持ち込めば済めるような状態だ。

 家賃も手ごろというよりも安い。これでいいのかというくらい。

 何でこんな物件が、すぐに見つかるんだ? ビュー達が手を回したとしても、早すぎる。

 疑問をカンで感じ取ったのか、不動産担当者が苦笑しながら言ってきた。

「ここ、マフィアの元締めが愛人のために用意した賃貸物件だったことが住民に知れ渡ってしまいまして……。住民が一斉に退去してしまったんです。今は持ち主が違いますから、言い方は変かもしれませんが、マフィアとは関係ありませんし大丈夫なんです。ですが、噂というのは一回広がればなかなか収束しなくて……。今は空きだらけ、というよりも住民が居ないんです」

 なるほど、とクリスは思った。

 そういう物件なら、むしろ好都合ということだ。

 狙撃等に関しても安全を考慮して建てられたに違いない。

 住人が居ないということもなお良い。

 家賃が安いのは文句なしだ。

 「契約します」と言おうとしたとき、リーグルが「この物件はちょっと……」と言い始めた。

「え? 何でダメなんですか?」

「いわくつきの物件というのは、避けた方が良いのではないか?」

 一般常識としてはそれもそうだろう。

 だが、相手はクリスだ。

 常識というものを理解していても、通用させない場合がある。

「でも、今はオーナーが違うのでしょう?」

 困ることは何もない。

 仮にまだ、マフィアの元締めがオーナーだったとしても、クリスは構わなかった。

「しかし……」

 リーグルは渋る。

「会社まで歩いて五分ですし、近くに緑地公園もあります。見晴らしのいい部屋ですし、家具や家電も備えつき。出費もほとんどありません。私に不都合はありませんけど?」

 ていうか、この部屋にしたいんですけど。

 口には出さず、にっこり笑って見せた。

「大丈夫なのか?」

 リーグルはクリスの胆の太さに感心した。

「では、こちらを借りよう」

 手続きのために三人は不動産会社の社屋に戻る。

 ソファーに座ると書類が差し出され、二人でしっかりと確認すると署名した。

 会社に風評が及ぶとは思わないが、念のため、今回は会社名義で借りるのではなく、クリスが個人で借り、家賃を会社で支払うという形になった。

 サインするとき、一瞬自分の本名を書きそうになったことは、ご愛嬌というところだろう。偽名の「アリスン・フォードラス」として署名し、「アリスン・フォードラス」が借りることとなった。


 秘書としてスタート。

 本番はこの部屋に移ってからになりそうだった。


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