第十二章 がんばれ! ボンド君

 送られてきた職歴と勤務評定を見て、ビューはクリスに転送した。

 ビューとしても、完全に条件を満たす人員は居ないと踏んでいて、それに近い人材を探していたところだ。

 法律を学んでいる最中の、現役事務官。捜査官候補に名前があって、そのプログラムも受講中となれば、願ってもない人材である。法学を「修了」していて、かつ、捜査官初任研修を終えていた「捜査官」ならば、さらに適任だったのだが……。

 クリスがどう判断するか――

 現時点でそれが焦点だったが……。

 当日の深夜、待機場所として借りている部屋に、クリスから暗号通信が送られてきた。

 ――直接会って判断したい

 それが答えだった。

 だが、それは難しい状況だ。

 クリスは今、秘書採用にあたり、人物照会の真最中。根ほり葉ほり情報をひっくり返されている状態だ。ビューの部下は、その作られた「アリスン・フォードラス」の情報を時には出し惜しみしながら対応し、情報に正確性を持たせている。

そんな状況下で、クリスが直に候補者に面接するとなると、話がさらにややこしくなり、今後にも影響する。

 さて、どうするべきか。

 そこで目に着けたのは、昔ながらの就職活動。職業安定所の利用である。前回、クリスの応募の際も、ここに求人募集をかけていた。

 さて、調べてみると……。

 クリスが在籍する弁護士事務所が、求人をかけていた。欠員となる事務員の募集である。

 クリスの時同様、知人縁故からの採用ではなく、公的機関を介して採用したいようだ。

 ビューは考えた。

 いっそのこと、現場に放り込んで実地で経験させ鍛えてみようかと。

 候補者からすれば鬼のような命令であるが、それはそれ。

 連邦特別法務省の一般事務職員であるところを臨時職員ということにして、あとはそのまま。彼の場合は、クリスの場合と違い、本名を使っても差し支えないだろう。そして通信制カレッジで法学受講中も本当であるし、法律関係には該当していないが、事務職も経験済み。祖母の出身地のサンザシアン星系に興味をもって、来てみました! 法律を勉強しながら仕事できるところを探していたんです。パラリーガルについては勉強します! でどうだろうか。

 もし、トライして採用となれば、クリスの後任だ。引継ぎ等でやり取りができるし、その際、人物についてクリスなりの査定が出来るはずだ。どこまで今回の「本当の」案件を任せられるかについて、判断の基準が彼女なりに持てると考えた。

 あくまで、候補者が弁護士事務所に「採用される」ことが前提だが、連邦特別法務省でなぁなぁで過ごしていたわけではなく、二つのキャリアアッププログラムを同時進行させているくらいだ。少しくらい期待していてもいいだろう。そして、なんといっても、ファランドに動じない性格だとすれば、本番にも強いかもしれない。

 そう考えて、ビューは暗号通信でクリスにそう打診した。

 そして少し時間がたった時……。

 通信が入ってきた。クリスからだった。

 すでに就寝しようとしたところに通信が入っていたことに気づいたからだろう。シャワーを浴びたようで髪にタオルを当てた状態での通信だった。

 内容は……。

 ――ワハハ。OK

 で、サムズアップ付き。これのみだった。

 これにより、候補者はファランドに呼び出され、思ってもいなかった任務を言い渡され、ビューの監督下に配置転換となり、考えてもみなかった再就職活動を行う羽目になったのだった。


 「ワハハ。OK」の言葉で配置転換になったボンドは、ため息を吐いていた。

 その場所は、星系間連絡船の中。

 連邦首都星の連邦特別司法省で臨時職の事務職員をしているが、今後のことを考えて転職を希望している。新地一転として知らない場所で働きたいと思っていたが、祖母がサンザシアン星系出身だったので、そこで働いてみたいと思った。これが法律事務所に提出した志望動機だった。

 嘘だらけの中で真実が少し隠れているクリスの場合とは違い、真実だらけの中で、嘘がひっそり隠れている程度だ。いざとなれば誤魔化しがきく。

 法律事務所としては、現在連邦特別司法省で働いているとの記載を読み、一応、在籍確認の問い合わせをしてきた。これには役所としてすぐに対応し、本人が確かに在職していると回答した。

 臨時職員が正規雇用されたいと考えるのは当然であるし、連邦特別司法省という役所の特殊性を考えて、それならば特に身元確認は必要ない、秘匿特権の保持は可能、性格適性についても問題ない人物と判断。経歴書を読んだうえで面接したいと申し出てきた。それも移動経費持ちで。

 これは、面接は形だけだな。

 そう思ったファランドとビューは、「すぐに行け(来い)」との命令を下し、現在に至る。

 その命令一つで一番近い星系間ゲートを通る連絡船を瞬時に手配してしまったところが、事務員としての優秀さなのか、一部下としての悲しいところなのか。

 今回の配置転換には、飴と鞭があった。鞭の部分は、問答無用で事務職員なのに捜査官待遇で実際に潜入捜査させられるところ。それも法律事務所勤務ということで色々と大変な場所だ。今までの知識と経験が試される。そして飴はというと、今回の件が無事終了した際は、捜査官研修は免除、すぐに一般捜査官として肩書が増えるということだ。

 飴と鞭を与えられたボンドは、サンザシアン星系の首都惑星第五惑星レイヴァン外惑にある連絡ステーションでレイヴァン星グッズモンド行きのシャトルに乗り込み、現地へと降り立った。

 そしてそこで……。見てはいけないものを見てしまった気分になった。

 到着ロビーの出口付近に「歓迎! ボンド様」のボードを持った上司の、本来では手に届かない立場にいるはずの上司にあたるクリスが、にこにこと手を振って待っていた。

 驚いたあまり、ポカンと言葉なく突っ立っているボンドに対し、クリスは近くまで寄ると再びにっこりと笑い……むんずと腕をつかむとずるずると出口まで引きずって行った。

「し……」

 司令、と言おうとしたところで、がばっと口を押えられた。

「何でしょう? ボンドさん?」

 またにっこりと笑う。

 だが、この笑顔は怖い!

 ボンドの顔が引きつった。

「私は『アリスン・フォードラス』と言います。よろしいですか? ボンドさん?」

 その言葉に無言でこくこくと頷くと、ボンドは宙港外へと引きずられて行った。


 自動運転の無人タクシーに乗るのかと思いきや、クリスは駐車場に引っ張って行った。

 そこには、自動運転と手動運転とを切り替えられる乗用車があった。

 荷物をトランクに積むように指示を出すと、クリスは運転席に座った。

 上司に運転させるわけにはいかない。

 慌てて運転を変わろうとするボンドに、

「今日はおとなしく隣に座っていなさい」

 と指示を出され、ちんまりと助手席に座る羽目になった。

「なぜ、ご自身で運転されるのですか?」

 これが、ボンドのクリスに対する第一声だった。

「運転するのが好きだから。これが第一点。そして自分が管理する車を使いたかったから。これが第二点」

 ボンドの頭の中で疑問符が飛んでいるようだ。

 クリスは横目でそれを見ながら、運転を続けた。

「盗聴対策ってところ。常に監視している中にこの車を置いているし、盗聴防止の装置もひそかにつけているし。無人タクシーは遠隔操作可能だから、電波に乗って会話が飛んでしまう可能性も否定できない。この車の中なら心配なく自由に話せるから」

 ボンドの疑問を推測し、答えるように言った。

 自覚がなかったが、自分はかなり危ないところに行こうとしているのではないだろうか。

 ボンドの顔が心なしか青くなったように感じられた。

 そんなボンドに対し、クリスは明るく言った。

「貴方の立場はそんなに危険はないはず。基本的には、弁護士事務所の仕事をやるだけでいいから」

「そうなんですか?」

 気持ちがふっと楽になった。

「私やビュー指令補が指示する内容について、貴方のできる範囲で調べてくれればいい。だけど……わかるわね。司法省での捜査とは違って大っぴらにはできない。そういうこと。こそこそ、セコセコ調べてちょうだい。それでいいの。気負わなくていいのよ」

 その言葉を聞いてほっとしたボンドだった。

 その様子を見て、クリスはボンドならこなせるだろうと判断し、任せられる仕事の範囲を自分の中で決めて行った。

「私は、弁護士事務所から身を引くことになる。直接関われるのは弁護士事務所での引継ぎの間だけ。貴方はビュー司令補のユニットに組み込まれることになるから、ビューの指示に従ってちょうだい。とりあえず、今日の面接乗り切って。でないと事は進まないから」

「はい」

「それから、何度も言うようだけど……」

「何でしょう?」

「私は『アリスン・フォードラス』だからね。『アリスン』か『フォードラス』と呼んでちょうだい。間違っても『他の敬称』で呼んだら……わかるわね?」

「はいぃ……」

 一気に車内が寒くなった。


 車が弁護士事務所のあるオフィスビルに到着した。

 地下にある駐車場に車を置くと、ボンドを連れ、クリスはオフィスに向かった。

 事務所に着くと、面接担当のベリーマン弁護士が待ち構えていた。

「やあ、はじめまして。面接を担当する、ベリーマンです。この事務所の代表も兼ねていますのでどうぞよろしく」

「初めまして、マイケル・ボンドと申します。よろしくお願いします」

 二人が握手するのを見て、クリスは微笑んだ。

「フォードラス君もご苦労だったね。わざわざ迎えに行ってもらって」

「いえ、すぐにこの事務所を離れることになったことが申し訳なくて……。彼が私の後任候補の一人なのでしょう? でしたら喜んでお手伝いさせていただきます」

 にっこり。

 クリスの笑顔にベリーマンは笑顔で答えるが、ボンドは内心穏やかではない。

 ……怖い笑顔を先ほど経験したから。

「面接は先生のオフィスでよろしいですか?」

「ああ、予定通り頼む」

「わかりました」

「ああ、お茶持ってきてくれないかな?」

「今はダージリンしかありませんけれど」

「構わないよ」

 ポンポンと会話が飛ぶ。

 知らないって怖い!

 ボンドはそう感じていた。

 法律を学ぶ法学生としては、法曹界に所属する弁護士は立場が上だ。当然だ。

 が、クリスは本来ならば法曹界の中でも最上位階層にいる人物なのだ。

 はっきり言えば、ベリーマン弁護士とは「格」が違う。

 それを知らずに、部下として使うとなるとこうなるのか。

 ――胃が……

 面接を前に、すでに胃を痛めていたボンドだ。

「ボンド君、どうかしたのかね?」

「いえ……」

 クリスの真似をして「にっこり」。

 その笑顔に釣られ、ベリーマンも笑顔を浮かべ、自分の部屋へと向かったのだった。


 ベリーマン弁護士の部屋に入った当初、二人はそれぞれ、どう話を切り出したらよいのか分からなかった。

 ぎこちなかった、というのが一番良い表現だろう。

 ベリーマンは弁護士ならではの舌のまわり具合が発揮できず、人当たりが良いボンドとしても、採用面接ということもあり、話題を振られないとどう話をしてよいのか分からなかった。

 採用面接というからには、主導権はベリーマンにある。

 ベリーマンからは、今回の公募は自分の補佐にあたる事務職の募集であること、採用した場合の条件などが話された。

 が、話が重い。すごく重い。

 重い沈黙を挟みながらの会話で、二人にとっては重荷と感じられたその時……。

「失礼します」

 と言って、クリスがお茶をもって入室してきた。

「先生はストレートティでしたよね?」

 そう言ってベリーマンの机に紅茶を置いた。

「ボンド君はどういったものが好みか分からなかったので、先生と同じストレートティにしましたけど、よろしいですか?」

 そう言いながら、ベリーマンと向かい合わせになるよう置かれた椅子の横にある簡易卓にティーセットを置いた。

「はい、僕もストレートティが好みです」

「それは良かった」

 そう言って、クリスは部屋を去ろうとした、その時……。

「フォードラス君、ちょっと待ってくれるかい?」

 ベリーマンが声をかけた。

「何でしょう?」

 クリスが振り向いた。

「今回の採用の件は、君の後任の件でもある。君も一緒にこの部屋に居てくれないかい?」

 つまり、この面接のサポートしてくれと言葉にせず頼んだことになる。

 その意を汲み取って、クリスは「構いませんけど」と答えた。

 ベリーマンは、なぜ、ボンドと話しづらいのか……と考えた。

 そこで気づく。自分の下に男性の事務官が居たことがなかったのだ。

 男性は、依頼者や企業関係者、同業者。

 男性の部下を持ったことがなかったので、距離感が図れなかったのだ。

 クリスはボンドの隣にあった椅子に座った。

「ボンド君は、連邦首都星の出身と聞きました。言葉の面で不都合が出なくて助かります。サンザシアン星系は地球系移民の開発惑星ですから、連邦標準語が通じます。この点は安心ですね。私はレディンバーグ星系に居ましたから、言葉についてはちょっと不安なところもありましたけれど、何とかやれています」

 どうぞ、とお茶を勧めながらクリスは話を進めた。

「連邦特別司法省で働きながら法を学んでいると伺いました。両立できているのは感心します。大変でしょうに。この事務所は、法学生を優先的に採用してくれているので、私も応募した経緯があります。働きやすいですし勉強になりますよ」

 二人に向かって、にっこり。

 さりげなくボンドをベリーマンに売り込み、事務所についてボンドに説明する。

 クリスの言葉をきっかけに、二人はぽつぽつとした会話から次第にぎこちなさを取り除き、直接話せるようになっていった。

 それを横で見ながら聞いているクリス。

 うまい具合に緩衝材になったようだと感じた。

 その後は面接というよりも歓談といった雰囲気で会話が飛び交うようになり、時間は流れて行った……。

「さて、今回は採用に関しての面接だったな。すっかり忘れてしまっていたよ。採用についてだが、『合格』だ。君を採用したい。君の方はどうだろう? 私の下で働いてくれるかい?」

「ぜひ、お願いします」

 二人は意気投合したようだ。クリスはそう思った。

「フォードラス君、君の仕事を彼に引き継いでくれるかい?」

「了解しました。では、手続きと引継ぎに移りますので、ボンド君、こちらに」

「分かりました」

 こうして二人はベリーマンの部屋から出て行った。


「さて、何とかうまくいったな。関門突破だ」

 クリスの口調が変わった。

 ボンドもほっと息を吐いたところだ。

「まずは挨拶回りだ。必要最小限のところは、今日私と一緒に回った方が良い。ボストンバッグはこの部屋に置いていいから、レザーバッグ持って行くよ!」

 この言葉の通り、クリスにあちこち連れまわされ、新任の挨拶をし、住居等の手配に移った。

「ボンド、君、住居はどうする?」

「昨日の今日で、良い物件を見つけることはできませんよ」

「それなんだがな、私は今のアパートから移る。そこを使用したらよい」

 は? 

 この人は今、何を言った?

「えっと、すみません。要領を得なくて……」

「だから私は異動先の勤務地に近いアパートを借りることになる。これは異動先の会社ともう決定していてな。今物件を探しているところだ。そこで今私が住んでいるアパートが空くことになる。そうすると、超短期契約になってしまうので、違約金が発生してしまうんだ。それを考えると、君にそのまま明け渡した方が経済的にも手続きに関しても簡単になる。あの部屋はいいぞ。単身者用の住居だし、管理人もいる。特別司法省が手配した部屋だからな。安全は保障する」

 そんな、恐れ多い……。

 それに、そんな部屋、いらないです。

 特別司法省が手配って、なんか……怖いです。

 ボンドの意向はそっちのけで、彼の住居先は決まった。

「他人の目があるから、家財等は引っ越しの際に私のアパートに移す。と言っても家電関係やクローゼットは備え付けだから、私服等の必要最小限でいいと思うが。君、荷物は?」

「出張バックのみです。男の一人暮らしなんて、カバン一個で済みますから。僕たちの年代は」

「そういうものなのか?」

「それ以外は現地で調達した方が良いものもありますし、ご心配なく」

「分かったよ」

「では、現地調達したものについては、購入時、君の名前で領収書を切ってもらってくれ。忘れずに。それをビュー司令補に渡してほしい。特別経費で落とす。だからと言って無駄使いはするなよ」

 無言でかくかく首を縦に振っていた。

「では、これからの予定をこうしよう。私はまだ次の転居先が決まっていないのでまだ今のアパートに住むが、決まり次第君に引き渡す。それまでの期間は、ビジネスホテルかウィークリーマンションを借り出てくれ。そして、明日の午前中で仕事の引継ぎをする。午後から私は異動先で研修があるから、明日の午後、君は必要なものを予約したりして生活条件を整えるようにしてくれ。では、今日はもう遅いし、飲みに行くか?」

「……は?」

 ボンドは話の速さについていってなかった。

「今日の泊りはビジネスホテルで決まりだな。まずはチェックインしてこい」

 クリスは蹴りだすようにボンドをビジネスホテルの玄関に送り込んだ。ボンドはその中流階級のホテルにチェックインして荷物を降ろすと、すぐさまホテルのロビーに降りてきた。クリスは待合室でお茶をしながらタウン情報誌を読んでいた。

「この辺りは出張者が多くて、飲食店が多いらしい。まずは『飲みゅにケーション』だ。ここにきてから夕食はアパートで一人だったし、これは楽しみだな」

 クリスは行く気満々である。

 ボンドはというと、恐縮していた。

 立場が超上の人と食事するのだ。緊張もする。

 それを見て……。

「私と君は、仕事の前任者と後任者。それ以外はない。いいか? それではお堅くなくそれでいて美味しそうなこの店はどうだ?」

 そこは居酒屋だった。

 おしゃれな場所ではない。

 飲兵衛の親父が行きそうな、少し小奇麗といったような、そんな居酒屋だ。

「洒落たところよりも、こういう場所の方が旨いんだよな。長く続いているんだろうし。そうすると味は確かってことだ」

「意見がないなら、行くぞ!」

 こうして半ば強引にボンドは店に引っ張って行かれた。

 そこは……。

 カウンター席が主で、テーブル席は二席の、小さな造りの店だった。

  テーブル席に着くと、クリスが飲み物を聞いてくる。

「ビールを……」

 そこで、クリスは自分の分のビールも頼み、付け合わせに出てきた枝豆を食べる。

 一通りメニューを見た後、クリスが、板前に声をかけた。

「親父さん」

「なんだい、嬢ちゃん」

 その言葉に、ボンドは引きつった。

 だが、その変化に気づかないふりで、クリスは問いを続けた。

「この店は何年くらい続いているんだ?」

「そりゃ、見ればわかるだろう?」

 板前が指をさした、その先には……。

 ――祝・ニ十周年記念盛り

 と書かれていた。

「これは、めでたいことで。では、その記念盛りを貰おうか」

「あいよ」

 完全に取り残されたボンドを置き去りにして、クリスは注文を進める。

 冷奴にだし巻き卵、アサリの酒蒸し、厚揚げが追加の注文として並ぶ。

「ボンド、君は何を食べる?」

「僕は、司……いえ、フォードラスさんの注文のご相伴に与れれば、それでいいです……」

「そうか? なら、私の好みで注文するからな」

 そうクリスは言った。

 実は、こんなメニューの店に来たことのないボンドとしては、何を注文してよいのかさっぱり分からなかったのだ。

 注文した記念盛りが目の前に来た。

「親父さん、旨そうだな。頂くよ」

「おう」

 そんな声を耳にしていたが、ボンドは目の前の「もの」が何かわからない。

「あの……」

「何だ?」

「これは、何ですか?」

 純粋な疑問だった。見たことがないし、食べたことはもちろんない。

「? 知らないのか?」

「はい……」

 逆に純粋な興味でクリスはボンドを見た。

「そうか、知らないのか……。わかった。今度、ビューに異文化体験計画を練ってもらうことにしよう」

「いえ、そんな……。僕の勉強不足なだけです。それで、これは何ですか?」

 恐縮さをみせながら、興味津々となっているボンドを見て、クリスが説明を始めた。

「これは『刺身』だよ」

「これがですか?」

 ボンドが驚きの声を上げた。聞いたことはあっても、見たことはなかった。

「生の魚だ。新鮮でないと食べられない」

「生の魚なんですか? それを、食べるんですか?」

 ボンドは驚いた声を上げ、店の注目を集めてしまった。

 その声を聞いて、店の店主は大声で笑い、店の客は苦笑した。

「すいません……」

 ひたすら恐縮するボンド。

 その声に

「まあ、いいさ。知らなければその反応だろう」

 クリスはそう言って、その場を取り繕った。

「そう、これは『地球』の『日本』という地域でよく食べられていた『刺身』というものだ。食べてみろ。旨そうだ」

 そう言って、見本とばかり、ボンドの前で軽く醤油をつけて食べて見せた。

「親父さん、これ、トロじゃないか。よくこんな上等なものが手に入ったな」

「お、わかるねぇ。だから『記念盛り』なんだよ」

「なるほど」

 その会話を聞いて、ボンドは恐る恐る箸を伸ばした。

 クリスのやっていたように真似して食べてみる。

 舌の上で、何とも言えない感触がする。

「これが『刺身』?」

「そうだ」

「とろける感じで、臭みがなくて……。美味しいです」

「だろう?」

 店の親父がガハハと笑い、店の客が熱燗を乾杯する。

「これは『日本酒』という酒ともよく合うんだ。親父さん、熱燗ちょうだい!」

「おうよ」

 クリスが注文した。

 女将さんが、お猪口を持ってくる。

「これは、何ですか?」

 これまた興味津々に聞いてくる。

「これは『お猪口』と言ってな、『日本酒』を入れて飲む器だ」

「そうなんですか……」

 感心したように、お猪口をもって眺めていた。

 そこへ、女将さんが熱燗を持ってやってきた。

「どうぞ」

 そう言ったので、クリスはお猪口を差し出した。

 女将がお酒を注いだのを見て、口に運ぶ。

「旨いな」

「そうでしょう?」

 女将さんも笑顔になる。

「こちらの方もどうぞ」

 徳利を差し出したのを見て、慌ててクリスの真似をしたボンドであったが……。

 お猪口を口に運び……。

「あちっ!」

 お決まりなセリフに、思わずクリスが笑った。

「熱燗なんだから、熱いに決まっているだろう?」

「熱燗って、熱いお酒って意味だったんですか? こんなに熱いお酒は初めてです」

 このセリフを聞いて、クリスをはじめ、女将、店内の客は笑った。

「これは『米』からできたお酒だよ」

「え? 米で酒が造れるんですか?」

 また、素朴な疑問だ。

「蒸した米と米麹、水を原料にして『アルコール発酵』させたんだ」

「へえ……」

 興味は尽きないようだ。

「確かに、美味しいですね。ビールよりも、こちらのお酒の方が食事に合います」

「お、わかるか」

 そう言いながら、刺身をつまむ。

 わさびを付けながら食べるとまた味が引き立つ。

 鯛に烏賊に海老、アワビにトロサーモンと、豪華盛りだった。

 そこに冷奴が来た。

「これは……」

 恐る恐る聞いてくるボンドに、クリスは軽く答えた。

「豆腐だよ。これは食べたことがないかな?」

「豆腐は食べたことありますけど、こんな感じで食べるのは初めてです」

 また見本としてクリスが先に食べる。真似してボンドも食べた。

「シンプルな、素朴な味で、美味しい」

 その言葉に、聞いていた店主はにこにこする。

「いい素材を使って、職人が手間暇かけてじっくり作るとこういう味になるんだ。いいだろう?」

「親父さん、それって、自画自賛入ってる?」

「かもなぁ」

 大きな声で、ガハハと笑う。店にいた客たちも笑っている。

「これは?」

 テーブルの上に置かれた黄色の物体を目にして、またもや興味津々だ。

「出汁巻き卵だよ」

「だし?」

 聞きなれない言葉聞いて、首をかしげている。

「いいから、食べてみろ」

 クリスが勧める。使い慣れていないだろう箸を片手に、卵を一口食べてみた。

「え? これが卵なんですか?」

 ボンドは今までゆで卵やスクランブルエッグ、オムレツなどは食べている。洋風の味の濃いものだ。こんなまろやかで薄味で風味がきいたものは食べたことがない。

「連れてきてもらって、感激です。異文化……いいですね」

「だろ?」

 そう言ってクリスも箸を進め、二人は穏やかな実感を過ごした。


 店の店主と客たちを巻き込んだ大宴会? が終わり、二人は帰路についた。

「ほら。君の予約したホテルがそこだ。じゃあな」

 そう言って帰ろうとするクリスをボンドが慌てて呼び止めた。

「ちょ、ちょっと待ってください」

「何だ?」

 クリスには、ボンドが呼び止めた理由がわからない。

「貴女、歩いて帰る気ですか?」

「そうだが?」

 クリスの借りているアパートまで、そんなに距離はない。歩くのは苦ではないし、運動不足解消も兼ねて、歩きたかったが……。

「歩いて帰るなら、送りますから」

 ボンドがそう申し出た。

「送る? 別に気にしなくていいぞ。ここから五分程度だしな」

「そういう問題じゃありません」

 ボンドは、ビュー司令補の苦労が少しわかるような気がした。

「いいですか? 貴女は女性でしょう?」

「ああ、確かに生物学的には『女』だな」

「その貴女が夜道一人で帰るんですか? 危ないでしょう?」

「危ない? どこが?」

 本人には全く自覚はなかった。

「私はこう言っては悪いが、君よりは強いと思うぞ」

「僕よりはるかに強い貴女がご謙遜を……じゃなくて、世間一般的には、女性が夜道を一人で歩くのは言語道断です。アパートまで送ります。それが嫌なら、タクシーを使ってください」

「えー? たった五分の距離だぞ。料金がもったいない」

 変なところで、クリスは庶民的だった。同年代の女性より、はるかに収入を得ているのに。

 二人が行う堂々巡りが、他の歩行者の目につくようになってしまった。

 これ以上目立つのは良くないな。

 クリスはそう判断し、ふーっと溜息を吐いた。

「しょうがないなぁ」

 頭を掻きながらクリスが妥協し、その日、タクシーを利用して帰宅することとなったのだった。


 翌日――

 ボンドは地獄の一部を垣間見ることになる。

「な、何なんですか、これはー!」

 そんな悲鳴が某弁護士事務所の事務官室から響き渡った。

 それを聞いて、ベリーマン弁護士は慌てて部屋に駆け込んできた。

「何事かね?」

 驚いた風のベリーマンに、クリスはボンドの口を押えたままでこう言った。

「何でもありません。ちょっと仕事量に驚いただけですから。ね? ボンド君」

 口を押えられたままでは、声を出せない。コクコクと首を動かすのみだった。

「先生はあちらで今後の検討をなさってください。こちらは引き続き引継ぎをしますので……」

「そうかね? では、そうさせてもらうことにするか」

 そう言ってベリーマンは部屋を出て行った。

 部屋には二人――

 クリスとボンドが残った。

 ボンドが悲鳴を上げたのには意味があった。

 今回、この弁護士事務所は特許について争っている案件がある。これが今のこの弁護士事務所の最大案件と言ってよい。

 ベリーマンは主任弁護人ながら、特許に特化した弁護士ではない。もちろんクリスもそうだ。

 ベリーマンたちは今回弁護にあたり複数の弁護人で弁護にあたるチームを組んでいた。チームを組む弁護人の中には特許弁護人を名乗る者も含まれていた。が、クリスとしては、その点は「専門外」と切り捨てるのではなく、ある程度、わかる範囲で理解することが必要と考え、資料を集めた。

 だが、その基準がまずかった。

 この弁護士事務所から離れることはない、自分が書類を処理する前提で資料を集めてしまったので、膨大な量になってしまったのだ。クリスはどちらかと言えばアナログ派。電子機器で文章を読むより紙媒体で読んだ方が頭に入る。で、紙面にして揃えてしまった。

 このため、辞書や、検索によって得られた情報、根拠となる法律や商標、論文等を集めたら、複数の山が出来てしまった。

 元々自分で仕事をするために資料化したものであり、ボンドには残念ながらその資料を読んで理解するところまでは求めていなかった。というよりは無理だろう、まだ法学については学生なのだから。

「まあ、とりあえずこれを再電子化して、それぞれどの項目に関連した参考資料かタグ付けして、ベリーマン弁護士が使いやすいよう書類を整えてくれ。机の横のそれぞれの山に付箋がしてあるから、わかりやすくはなっていると思う」

 バツが悪いように、クリスは言った。

 ボンドはただ茫然。

 思うに、資料を集めるだけでも大変だったはずだ。だが、これを理解しようとしていたのか?

 引きつるような思いで、この人物の後任になるのかと思うと、頭が痛かった。

「ま、とにかく、君は言ってみればベリーマン弁護士の補佐兼秘書だ。お互いがやりやすいように方法を確立していったらいい」

 そう言って、給湯室に移った。

「今は優れもので、機械のホルダーにカップをおいて飲みたいものを話すと勝手にお茶が出てくるのが主流だが、それでは味気ない。ここではお茶は自分の『手』で入れることになっているんだ、お茶の葉やお湯の温度、蒸らし時間でお茶の味と香りが変わるのが面白い。覚えるといいよ。お客さんによっては拘りがあって、出すお茶を変えなければならないときもあるからね。あ、そうそう、自分用のマグカップも準備するといい」

 ボンドには「はあ……」という言葉しか出てこなかった。あまりにも多くの情報を詰め込まれ、パンク状態だった。

「自分のペースで、やれる範囲からやったらいいよ。無理はするな。いいな」

「はい……」

 仕事内容に少し押され気味のボンドに、クリスは決定的なことを言った。

「私が関われるのはここまで。私は午後からナノエックスフリーダム社に本格的に異動になるからね、じゃあ、あとはよろしく」

 トートバッグを持ってクリスはひらひらと手を振る。

「え? そ、そんな……」

「あとは自分で何とか出来るだろう?」

 振り返りもせず、クリスは部屋を出て行った。

 残されたのはボンドのみ。

 ……。

 がんばれボンド!

 自分に言い聞かせてみたが、むなしさが心に残った。

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