第六章 貸し一つ
「ベリアーヌ特別特区の出入金の流れを徹底的に洗え」
そうクリスはビューに厳命を与え、担当部署に捜査に当たらせることにしたが、今の段階では超過勤務までして捜査にあたらせる気はなく、残業なしでの捜査を行うことと部署に通達を出した。労働基準法違反で特別司法省が訴えられたら笑えない。これにより、捜査官たちは「八時間定時勤務」を原則とし、三交代の二十四時間勤務で捜査にあたっていくこととなった。
この件はまだ立件できるほどの情報がなく、今の段階では多くの人員を割けるものではない。
どのような状態なのか「目途」つけるための予備段階の捜査だ。
だが、この捜査は難航した。
知的犯罪、いわゆるホワイトカラー犯罪と呼べるものにあたるからだ。
相手も法の隙間をかいくぐり、時には道化師となって人を欺く。
この手の事件は、法律と多量の書類のすり合わせが必要になる。捜査員たちは情報の入った複数のボードを手に調べにあたっていた。
「何か面白いことをしているそうじゃないか」
そう言ってクリスの司令室に入ってきた者がいた。
チームワン司令のグラントである。
「いらっしゃいませ、グラント司令」
そう言ってクリスは応接のソファを勧めた。
これに気軽に応じた後、グラントは腰を掛けた。
「君、経済査察部に『仕事しろ!』って喝を入れたそうじゃないか。査察部員が泡食っていたと聞いたがな」
どこをどうなればそんな話になるのか。
そんなことを言った覚えはないが、聞く人が聞きようによってはそんなとらえ方になるらしい。
「仕事しろと言った覚えも、喝を入れた覚えもありません。調査協力の依頼をしただけです」
「フム、そうなのか」
ビューが差し出した紅茶に手を伸ばした。
「君の所で出るお茶はうまいと聞いていたが、これは確かにうまい。かなり練習しただろう? 君の上司は拘るところは拘るからな」
「いえ、そのようなことは……妻も紅茶が好きなもので……」
「そういえば君は愛妻家と噂されていたな」
ビューが墓穴を掘った。
軽く言い逃れようとしたところに、グラントが食いついた形になった。
さて、どうしよう。
ビューが迷ったところに、クリスが助け舟を出した。
「ところでグラント司令、貴方はどうされたのです? 任務明けの強制休暇中ですよね?」
「いや、それは……」
今度はグラントが困り顔だ。
「ここに居たらまずいでしょう? 『強制』休暇中なんですから」
「それは……」
グラントは返答に困っていた。
「家族サービスだと大張り切りだったのを覚えていますが?」
グラントの顔が引きつった。
そして沈黙。
ひたすら沈黙……。
これが、グラントの答えだった。
「なるほど……グラント司令、貴方、家を追い出されましたね?」
クリスのぐさりと刺さる的確な一撃だった。
「いや、それはだな……その……」
「何をやったんです?」
また沈黙。
言葉が出ない。
「何をやらかしたんです?」
一時の沈黙の後、
「クリス、ビュー、助けてくれ~」
グラントが泣きついた。
グラントはその日、外出していた。
家族サービスだ! と旅行を決行。二日前まで、娘たちを休校扱いにして、家族四人で常夏のバケーションを楽しんできた。アウトドア派のこの男が選んだのは、気候がよく海辺に近いバンガロー。自然の中でバーベキューをし、寝袋に包まって就寝し、昼間は海で海水浴。二人の娘もプールとは違う自然の波を楽しんで、文字通り旅行を楽しんでいた。
変わったのは、旅行が終わり、帰宅した後。
大量の洗濯物と格闘する妻に「手伝おうか?」と提案するも「邪魔」の一言で却下される。普段あまり自宅にいないグラントとしては、どうしてよいのか戸惑ってしまう。週末の過ごし方はわかっていても、平日の子供のいない自宅での過ごし方がわからなかったのである。
自宅に緊急の案件ではない限り、仕事の持ち込みは禁止! と妻はもとより娘にまで言われ、自宅では書類仕事一つできない。やったら別居宣言まで出されていて、一度隠れてやっていたら「実家に帰らせていただきます」のメモを残し、本当に子供を連れて実家に帰ってしまったことがあった。
この件があってからは絶対仕事の持ち込みはしないと誓っているのである。
だが、仕事は出来る男でも家事はそうでもないようだ。食器を洗おうとすれば食器を割り、拭いて片付けるといつもと置き場所が違うと指摘される。
家事は下手に手を出さないほうが良いらしい。そう悟った。
掃除の時にしても邪魔扱いされると思い、ソファ上に自主避難する始末。
今は、強制休暇中で出勤は禁止。
何をやったらいいのかわからなくなり、それで身の置き所がなく、外出した。
この男に、趣味と呼べるものがあったらよかった。だが、普段「司令」という立場に居て、仕事優先で時には悪党から命を狙われることがある身では、ひょいひょいと親しい友人をそう簡単に持つこともできず、孤独に没頭する趣味も持てず……。現在に至る。
まったく悲しい立場だった。
その男が、何の気まぐれか、目に留まったカジノに立ち寄った。
それが良かったのか、悪かったのか。
運が味方し、ブラックジャックでも、ポーカーでも勝ちまくったのである。
だが、いつまでも勝ち続くことはない。
そう判断する理性はしっかりあり、運が手から転がり落ちる前に程よく手を引き(勝ち逃げともいう)、勝った分を金ではなく商品に交換して持ち帰った。
自制心というよりも、今回は単なる時間稼ぎ、お遊びという感覚が良かったのであろう。
ギャンブル依存症になるほどのめりこまず、程よく勝った。これは事実だ。
だが、この『カジノ』へ行って『勝った』こと。それについてきた『戦利品』。
……それが今回の騒動の発端だった。
「それで、貴方はカジノで、光の当たり具合で色味が変わるきれいな宝石のペンダントトップと交換して、奥様のお土産として持ち帰られたのですね?」
コクコク。
グラントは無言で頷いた。
普段大らかな気さくな上司といった風の男が、ここでは尻尾の垂れた子犬のような雰囲気である。
「それを今お持ちですか?」
グラントは内ポケットからハンカチに包んだ石を取り出した。
「これは……」
「アレキサンドライトですね」
チームスリーの二人は宝石を受け取ると光の当て方を変えて、色の変化を見た。
「本物の天然石のようですね。色の変わり方も美しい」
「鑑定書もあるんだ」
書類も懐から出して見せて、それをクリスが受け取った。
「まがい物じゃない、少し小さいけれど本物だ。希少価値がある。これがこんな仕事ばかりの俺についてきてくれる彼女のように思えた。そんな石が彼女の胸元にあると美しいと思って、勝った額全部使ってそれと交換した。なのに、なんでいきなり家を追い出されなければならないんだ?」
グラントには理解不能。
そこで同じ女性であるクリスに、同じ妻子持ちであるビューに泣きついたのである。
さりげなく惚気ていることには気づいていないらしい。
「それは……」
「なぁ?」
クリスとビューが顔を見合わせた。
どう説明しようかと二人は目で相談しあっているのである。
互いに説明役を押しやって、上司であるクリスが代表して言うこととなった。
「まず一つ。貴方は『カジノ』で『勝つ』ことがなければ、贈り物はしないのですか?」
「そんなことはない。記念日にはプレゼントをしているぞ」
何を言っているんだという風にグラントは言い、クリスはさてどう説明しようかと悩む。
愛妻家を通り越して「恐妻家」という噂もあるが、それも本当かもしれない。
「ならば、『カジノ』に『一人』で行ったことがまずかったかもしれませんね」
「カジノは時間つぶしに行っただけだ。何が悪かったんだ?」
目についたところならどこでもよかった、雀荘が先にあったならそこに入ったという風だ。悪気は何もない。後ろ暗いところは何もないから、プレゼントをもって報告した。ただそれだけなのだ、彼にとっては。
クリスは鈍感な旦那を持った奥さんを少し哀れんだ。
「カジノに奥様を連れて行ったことは?」
「ない!」
簡潔だ。
「なぜです?」
「あんな危ないところに連れて行けるか!」
グラントは言い切った。それを見て、クリスはため息を一つ。
「どんなところが危ないのですか? 上流社会では一種の遊びのステータスでしょう?」
「そんなこと、わかりきっているではないか! 君も知っているだろう?」
その言葉を聞いて、クリスは面白そうに顔をグラントに向けた。
そのクリスの顔を見て、グラントは、はたと自分の行動を思い直す。
自分は、もしかして、もしかして……。もしかしなくても、非常にマズいことをしたのではないだろうか……。
「高級カジノでなかったにせよ、カジノには女性の取り巻きが、いえ、男女問わず取り巻きが大勢いますからね。勝っている人には取り巻きが付きまとう。そんな場所に『一人』で行ったとしたら……。奥様はそれを聞いたら面白くなかったでしょうね」
遠回しに女性をひっかけに行ったと捉えられてもおかしくないと非難され、グラントの胸に言葉がぐさりと刺さる。
これはマズかった。非常にマズかった。
すまない、妻よ。俺には下心なんて全くなかったんだ!
信じてくれ! と祈りそうになった。
――もしカジノに先に行くと決めていたなら、今度からは掃除を途中でやめてもいいから一緒に行こうと誘おう。
グラントはそう心に決めた。
そんな彼を他所に、クリスは言葉を続ける。
「そして『アレキサンドライト』。この石言葉をお分かりですか?」
「石言葉?」
「はい、石言葉です」
クリスはじっとグラントを見た。
「石を受け取る前に聞いた気がする。でも悪い言葉ではなかったはずだ。確か……秘めた思い……そうだ、確かそう言ったはずだ」
その言葉を聞いて、クリスはがっくり肩を落とした。
その横でビューも肩を落としている。
その姿を見て、グラントが声をかけた。
「どうしたんだ、二人とも」
ビューはまだ立ち直れない。
クリスは、不思議そうな顔をしているグラントにこう言った。
「この石には、そのほかにも意味があるんですよ。本来の意味ではない俗意ですが」
ほう、と感心した素振りを見せて、グラントがその言葉を教えてほしいとせがんだ。
だが、どうしても言いよどんでしまう。
言ってもいいのか?
迷いがある。だが、これを知らなければ解決できないはずだ。
迷った自分に喝を入れて、クリスは言葉を吐いた。
「いいですか? この石は光の加減で色が変わるでしょう?」
再度確認した。
頷いたのを確認して、言葉を続けた。
「あまり手に入らない貴重なことから、僻んで俗的な意味合いを持たせてもいるんです」
グラントがごくりと息を飲んだ。
何か重要なことが話されようとしている。
――直感だった。
「俗的な意味は……光の加減で色が変わることから、『移り気な奴』『浮気性』『八方美人』……といったところでしょうか」
グラントの顔が、ザーッと変わった。
見事な変化だった。顔色は白を通り越して青と言ってよい。
「そ、そんな意味を持たせた覚えはない!」
「それはそうでしょうね」
あきれたような、哀れんだような目で、クリスはグラントを見た。
そして口を開く。
「でも、奥様がそんな態度を取られたとしたら……」
一息ついて、クリスとビューがそろって言った。
「奥様は俗説しか知らなかったのでしょうね」
グラントは、自分の行動と石の持つ意味にダブルパンチを食らい、妻を知る二人に、どうにか仲の取り持ちを頼んで、夫婦生活の危機を乗り越えようとしていた。
これが夫婦喧嘩の要因かと、普段取り扱う事件とはレベルが違う問題なのに、グラント「司令」は事件を取り扱う時よりも憔悴していた。
そんな彼を見て、クリスはふーっと息を吐くと、応接のソファから自分の執務机に移り、引き出しからメッセージカードを取り出した。
万年筆を用意し、すらすらと文字を書き始めた。
そこに記入したのは一行。
――The meaning of Alexandrite is a secret feeling.(アレキサンドライトの意味は『秘めた想い:貴女のことを心の底でずっと想っているのです』)
自分の署名をした後、グラントに手渡した。
「あとは自分の腕で解決してください。これで一つ、貸しですからね」
「ああ」
そう言ってグラントはカードを受け取り、内ポケットに宝石と一緒にしまった。
「混乱させたお詫びを兼ねて、花束も一緒にお渡しするといいですよ。女性は花を貰うと喜びますから」
ビューがそうアドバイスした。
「花束か……いいかもしれないな」
悩み事が晴れて、気分が浮かれているらしい。
そんな彼に、一部の危惧を感じて、クリスは問いかけた。
「どんな花を贈られるおつもりですか?」
その問いに、グラントは間髪入れずに答えた。
「そりゃ、バラだろう」
思っていた通りの回答に、クリスは少し疲れた。
ビューも疲れていた。
「バラの花言葉は『愛』だからな」
これには間違いないと胸を張っている。
そんな彼に、非常に危ないものを感じて、また問いを投げかけた。
「で、何色のバラを贈るつもりなのですか?」
色?
疑問符が飛んでいるようだ。
「そうだな、あいつは黄色が好きだから、黄色にしようかとお……」
「ダメです!」
グラントの言葉を遮って、二人は同時に言った。
「黄色はダメです」
「何でだ?」
意味が分かっていないグラントは、疑問を投げつけた。
「いいですか。黄色のバラの意味は『ジェラシー』です。貴方は妻に『嫉妬』していますとでもいうのですか?」
「また家庭内騒動でも起こすつもりですか?」
その言葉に対し、グラントは大きく首を横に振った。
「では、違う色を選んでください」
無言で大きく、今度は縦に首を振る。
「……では、赤……」
「赤いバラの本来の意味は『愛』ではなく『私を射止めて』です。すでに射止められている貴方が贈ってどうするんですか?」
この言葉には、惚気に対する皮肉も入っている。だが、グラントは気づかない。
「……ピ、ピンク……」
可愛らしい選択だ。
「そうですね。花言葉は『輝かしい』ですから、大丈夫でしょう」
「では、妻だけに贈るのではなく、娘たちも含めても大丈夫だよな!」
愛妻家の顔だけではなく愛娘家の顔も現れたらしい。
クリスの言葉にぱっと顔を輝かせると、子供のように喜び、「助かった、ありがとう」の言葉を残して、グラントは風のように去っていった。
取り残された二人は、ポカンとしていた。
そして、クリスがこぼした一言に妙に納得してしまう。
「嵐だったな」
グラントに確実な貸しを一つ作ったクリスは上機嫌になった。
「しかし、グラント夫妻は二人娘さんがおられるのに、万年新婚夫婦と思うのは私だけか?」
「……いえ、私もその印象をぬぐえません」
これがチームスリーを率いる二人の感想だった。
あてられたと思ったのは自分だけではなかったことに、お互いほっとした。
今は応接ソファに座り、向かい合って紅茶を飲んでいる。
「君のところは男の子だったな。ジャックは元気か?」
「はい。このところやんちゃになってきて、妻も手を焼いています」
にこにこ顔で語る副官に、クリスも自然と笑顔になった。
「毎日サッカーの真似事をしているようです」
クリスには兄弟姉妹がいない。
両親も他界している。親戚と呼べるような身内はいなかった。
近くて母のハトコだった。
だから、チームメンバーやグラントたちとの交流がうれしいのである。
「今のうち、家族サービスしておいてくれ」
クリスのその言葉に、ビューは口に運びかけていたティーカップを一瞬止めた。
そしてクリスの様子を伺う。
「司令?」
問いかけの呼びかけをクリスは無視した。
そして一言。
「嵐が来るぞ」
それは不気味な一言だった。
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