第三章 深海魚
クリスが三件のさらなる調査を求めてから、一週間が過ぎた。
報告を上げてきた部下たちを中心に、どんどん情報が集まってくる。
今は大きな事件を担当していないこともあり、主査や、司令補を巻き込んでいる件もある。巻き込まれた側も楽しんでいるようなので、この際、一緒に楽しんでもらおうと、クリスはひそかに思っている。
持ち込まれたクレイフィル市の市長の演説は……。映像が丸ごと届けられたが、クリス側としては見られたものではない。口ぶり、身振り、大げさに手を広げる姿に、まるで自己陶酔しているように見えるのである。
はじめは、机に頬杖ついて映像を見ていたのだが、次第に姿勢が崩れてゆき……。最後には完全に机に突っ伏して、映像は完全に眼中から外し、音声だけ聞くようにしていた。その音量も……次第に小さくなって、演説の終了時には、完全に消えていた。
全く、見事なパフォーマンスとも言えなくもない。
そこに、「三流の」とつけたくなるのだが。
「これで、よく行政の長が務まるものだな……」
決裁を下す時も、このように大ぶりな所作で署名しているのだろうか……。
そんな、どうでもよいことを考えてしまう。
放映を終えた映像記録メディアを放り投げて、少し掘り下げられた報告書を読む。
確かに、最下層人口、いわゆるホームレス等は減っている。
数字を見れば明らかだ。
だが、その他の人口の推移をみれば、疑問が湧いてくる。
最下層人口以外の構成人口がそれほど大きく変わっていないのだ。
富裕層も、中産階級も、低所得層も、大きな増減はない。
出生率や、死亡率、合計特殊出生率、景気変動や失業率、転入出率などを考えても、これはおかしい。
おかしいと思わない方がどうかしているのだとクリスは思う。
人口が減っているのは最下層人口が極端に減っているためで、この人口が減れば、他の割合が高くなる。
市長の言っていることは間違いではない。
だが、その減った人口はどこに消えているのだろう。
当然の疑問だ。
他の都市に多く人口が移動しているのであれば、その都市が黙ってはいない。何らかのリアクションがあるはずだ。だが、そのような動きは無いようである。
純粋に死亡したと考えると、死亡率が上昇しているはずだ。そして、ホームレス、いわゆる無住居者が死亡した場合、道路に腐乱死体が転がっていてもおかしくないはずなのである。普通に埋葬されているはずはない。おそらく、他人は死体に見ぬふりで放置されているといった感じであろう。
もし司法関係に引き取られていたら司法解剖され、死者としてカウントされているはずである。
これが多数ともなれば、それは新聞の一面とはいかずとも、三面記事として面白おかしく、もしくはその三面記事の片隅に数行でも載っているはずだ。
それもない。
これには某個所から圧力がかかっていない限りという限定が付くが。
一体、どういうことなのか。
疑問は膨らんでいった。
「司令」
ビューがクリスを呼び止めた。
この声で、クリスは思考の深みから浮上することができた。
「どうかなさいましたか? 随分考え込まれているようですが……」
報告書を見て渋い顔をしているところを見られたようだ。今更隠す間柄でもないかと表情をそのままに、ビューが持ってきたお茶に手を付けた。
「今日は、キーマンか?」
一口飲みこんで、そう問いかけた。
「はい。貴女が考え込まれているときはストレートティの方が良いようなので……」
見抜かれていたのか。まったく自分の主席司令補は秘書としても有能らしい、と改めて感じさせられた。自分が司令補を勤めていた時は、ここまでマメではなかったはずだ。
「見てみるか?」
手元にあった報告書をヒョイとビューの手に渡した。
手に渡されたボードの文字をスクロールさせながら、ビューは報告を手早く読んだ。
「これを見る限り、良いことだらけですね」
「全くだ。だから気に食わない」
「司令?」
むっつりと黙り込んだ上司は、こんな時は年相応の女性らしさというよりも少女に近い表情が出ているなと、ビューは横目でちらりと見て笑い出しそうな口元をどうにか元に戻した。この女性は、司令という立場にはいるが、まだ二十代前半。他の同じ年頃の女性達はまだ多くが学生だということに気づき、この女性の特殊性に改めて気づかされた。
そんな様子のビューに気づかずに、彼女はこうのたまった。
「このツッコミどころ満載な報告書をどうにかさせろ! 能天気にもほどがある。良いところがあったのなら、その裏に何があるのか考えさせろ! これがもし法廷で弁護側がこんな報告書を胸張って出して来たら、検事が私だったら容赦なく穴を突きまくって再起不能になるくらいのダメージを与えるぞ。まったく、捜査官なら物事をもう少し疑ってみることをキッチリ教えてやれ!」
その言葉に、ビューの頬が引きつった。
宇宙航空局の法務官時代のクリスの噂は聞いている。
法廷の中を竜巻が、いや嵐が、いやハリケーンが通過した様のようになると言われていた。相手の盲点を突きまくって、法廷をひっくり返したことは一度や二度ではない。
どんでん返しの結末を迎えて、泡を食らったものはいくらでもいた。法曹界から引退した者も居るという。法務部在籍わずか半年で、恐ろしい伝説を作ったのだ。
だが、クリスは口先だけではない。
地道な捜査と検証、過去の判例検証などの土台があって反証はできるものだ。
彼女はそれをおろそかにはしていなかったし、裁判の勝利を誇るようなことはしなかった。事実は事実として受け止める。たとえあり得ないと思ったことでも、事実は事実。真実は真実。心構えが違っていた。
クリスは大人になったばかりの女性ではない。
もう何年も少女時代から大人の猛者の中に混じって生き残ってきた強者だ。
改めて気を引き締めて、ビューは今後の対応についてどうするのか尋ねた。
「クリップBを表示させてくれ」
言われた通り、ボードにクリップBを表示させた。
すると、原文の上に赤文字で反証が書き込まれていて、さらに追加の情報を送るよう指示が書かれていた。……大量に。
「部下たちが嘆きますね」
「嘆いて事実や真実が湧き上がってくるのならそうしていろと伝えろ。そこまで馬鹿な部下を持った覚えはない。今の彼らには、考え方の転換方法を理解する必要がある。その方法をこの報告で学んでゆけるのならばそれでいい。だが、もう少しマシにしないと、このチーム、十二チームの中でもどん尻になるな」
ビューには返す言葉がなかった。
クリスがこのチームを引き継いだ時、司令が倒れチーム崩壊の危機に立たされた。
今はまだ道半ばではあるが、それを立て直しつつある。
仕事の基幹である「報告・連絡・相談」を確実にやるために人と人との和を重んじるところまでは漕ぎつけたと言っていいだろう。そこから先は、それぞれ個々の能力が試され、常に自分自身にも問いかけを忘れてはならない。正しき道を歩いているか。岐路に立たされた時、それは常に問い続けなければならない。選択は経験による土台があってこそ。経験が不足ならば知識を得てそれを土台に変えればよい。そして、その選択を正しいと信じ抜けることも、時には愚かを認め方向転換することも大事である。
クリスは、チーム立て直しの時、何度も岐路に立たされてきた。地道な努力を重ねて、このチームはガタガタの状態から立ち上がってきたのである。ここで歩みを止めてはならない。さらなる高みを向けて、チームを引っ張ろうとしていた。
「さて、司令が報告を指示していたレイヴァンの特許の件ですが、面白いことになってきたようです」
そう言って、ビューは報告書を差し出した。
報告書のボードを操作して、報告を読んでいく。
クリスの顔が何か含んだようなにやりとした顔となった。
「特許戦争勃発か」
想像の一部であった。
だが、違う点が一つ。
争っているのが大手製薬会社と新規のベンチャー企業だというのだ。
「この、ナノエックスフリーダム社というのは、どんな企業だ?」
新規参入のベンチャー企業だった。
ベラロイスウイルスに対する抗薬が完成すれば、名が知れ、一気に一流企業に名乗り出ることができる。
「十年前に会社設立。名誉顧問にサンダース・シモンズ博士。研究機関での中堅研究員や、就職希望の大学院生等を研究員として雇ったようですね。会社自体も大きくなく、非常勤職員を含めても五十人強のようです」
「そんな小さな会社が、大手のメディブレックス社に対抗しているのか」
感心してしまう。
そんな企業があるならば、未来も見えてくるというわけだ。
「して、特許の抗争はなんだ?」
「ベラロイスウイルスの毒素排出阻害物質の精製について」
クリスは頬杖をついてビューを見上げた。続けろという意味だ。
「ナノエックスフリーダム社はαχ酵素と名付け、メディブレックス社はメデックス-00X酵素と名付けています」
「その酵素の精製方法は?」
そこまで聞かれるとは思ってもいなかったのであろう。ビューの顔が驚きに変わっていた。
「そこまで情報をお求めですか?」
「ちょっと気になってな。ベンチャー企業が大手製薬会社相手に喧嘩売っているんだ。研究員の数も違えば、予算規模も違う。そんな中で頭角を現したいという会社が、おそらく社運を賭けて法廷でやりあっているんだろう? 元法務官としてはぜひとも知りたいところだろう。もっとも、私は特許に精通した法務官ではないから、法廷では戦う無茶はしないがな」
ぺろりと舌を出し、片目をつむってクリスはこう答えた。
「結局は、貴女の好奇心なんですね」
「好奇心がなければ、人間は前に進まないよ」
ビューは一つため息をつき、こう言った。
「では、分子生化学、ウイルス学に精通した分析官に特許申請の内容を分析してもらうよう手配しますよ」
ビューが去った司令室で、クリスはくるりと椅子を回し、背面にあった窓に目を向けた。
今日は晴天らしい。
青い空が広がっていた。
この窓の外では、色々なことが起こっているらしい。
自分は、この室内でいったい何をしているのだろうか。
元々、あまりデスクワークは好きではない。
外で動き回っている方が良いのだ。
だが、自分は今、こうして地面に足を引き付けられている。
「私は、本来、航宙士なんだがな……」
誰にも聞こえない小さな声で、空を見上げながら、ぼそっとクリスはそう呟いていた。
たったった……
軽快な足音が続く。
ここは連邦特別司法省本部内にあるジムである。
「あれ? 司令、ここで会うとは珍しいですね」
一般捜査官のクレイグがそう言った。
「別に珍しいことじゃない。私は結構利用しているぞ。君と会わなかっただけじゃないのかな?」
トレーニングマシーンの上で走りながら、クリスはそう言った。
指令室に籠っていても気分が晴れないと、気分転換にジムへやってきた。
ランニングしていてもクリスの息は切れていない。走りながら普通の会話をしていた。
「げ、結構設定速いじゃないですか。いったいどのくらい続けているんですか?」
「もうそろそろ十五分かな」
たったった……
まだ足音が続く。
「本当なら、大自然の中をランニングしたいところなんだが、なかなかそうもいかなくてね」
クリスはジャージを脱いで、上半身はぴったりと体の線につくノースリーブを、下半身には膝丈のトレーニングウェアを履いていた。
「しっかし、司令、きれいに筋肉ついていますよね。しなやかっていうか……。俺とは筋肉の付き方違いますね」
「それはそうだろう。君は男で、私は女だ。骨格も違えば、体格も違う。君が私のような筋肉の付き方をしたら、まずいんじゃないのか?」
「どうマズいというんですか?」
クレイグは、クリスとの会話を楽しんでいた。
司令とは普段直接話すことはまずない。この機会を逃したら、次の機会はいつになるかわからないのだ。
「まず、体脂肪率の問題」
「体脂肪率?」
周りにいるジム利用者も知らず知らず聞き耳を立てていた。
「女性は体脂肪率二十パーセントから三十パーセントが標準。一方男性は十パーセントから二十パーセントが標準。すでにここで差があるわけだ。女性は出産等があるから、脂肪がつきやすいし、ついていた方が良いとされる。一方男性は脂肪が多いと即肥満になるわけだ。お互い気を付けようじゃないか」
たったった……
まだ音はよどみなく続く。
「司令」
「何だ?」
「司令は脂肪率どのくらいなんですか?」
「何だいきなり?」
「いえ、純粋な興味です」
無駄な脂肪が全く無さそうな体のラインを見てそう言った。
周りにいる男性陣は、すごい! よく言った! という心境であろう。この問いは、ここに居る男性なら誰でも問いかけたい内容であるのだから。
「その質問は、とらえ方によってはセクハラになるぞ」
別の方向から声が飛んだ。
「久しぶりじゃないか、クリス」
ジムにいた全員が声の方向に振り向いた。
「グラント司令」
グラントは三十代半ばの、チームワンの司令である。別名チームレッドとも呼ばれる。
頭の切れる司令官だった。そしてユーモアのセンスもある司令だった。
ちなみにクリスのチームは、チームスリー。色で言えばシルバーと呼ばれる。
先輩司令の登場に、慌ててマシンを止めようとしたクリスに、グラントはそのまま続けるよう言った。
「さて、俺は、クリスの横のマシンを借りようとするかな?」
軽く準備体操をすると、グラントはクリスの横で走り始めた。
「さて、さっきの件だが……」
「? 何でしょう?」
「先ほど、君の部下と話していたじゃないか。体脂肪について。俺も純粋に興味があるなぁ」
クリスはがくりと肩を落としたが、マシンは動いている。足はペースを乱すことなく動かしていた。ある意味器用といえよう。
「先ほど、とらえ方によってはセクハラと言ったのは、貴方では?」
「別に性的な意味は持っていない。純粋な興味と言っただろう? うちのかみさんも興味あるらしくて。どのくらいの脂肪率だと君のような体形になるのかと聞かれていてな。困っていたんだ。……で、どのくらいだ?」
これは、セクハラ質問ではない。単純な質問、興味だ。奥さんも関わってくるとなると答えないわけにはいかない。愛妻家の彼のためにも、そして、今後のために恩を売っておくのも良いかもしれない。恩ととらえるかどうかは相手次第だが、種を蒔いていても良いはずだ。
「……十パーセントちょいくらいでしょうか」
「十!」
女性の中では体脂肪的には痩せすぎ体形になるが、その分筋肉が普通の女性よりついている。体形的にはスリムな女性といったところか。身長も女性としては少し高めであることから、体重は見た目より重いかもしれない。
「十パーセントか……。君は、もっと太れ」
グラントは引きつりながらそう言った。
女性で十パーセントとは、アスリート体形と言っても良い。
「新陳代謝が良いせいか、脂肪がなかなかつかないんです。脂肪があった方が、万が一刺された時、内臓の盾になるんですがね……」
「……物騒なことを言うな、君は……。うちのかみさんには、脂肪もほどほどにあった方がいいと伝えておく」
ワイワイ言いながら、ジム内での運動は続いて行った。
「グラント司令、今回の任務ご苦労様でした」
「なんだ、突然。クリスが言うと何か裏がありそうだな」
お互い、タオルで汗を拭きながら会話していた。
トレーニングマシーンから降りて、二人とも小休憩に入っていた。
「何も裏なんてありませんよ。これから暫くは家族サービスですか?」
「そうだ。任務明けの強制休暇となるわけだ。明日からのんびりさせてもらう」
心持ち楽しそうな顔をしている。
そんなグラントに、クリスが問いかけた。
「小耳にはさんだことがありまして……率直に尋ねたいと思っていたんですが」
「何を?」
グラントはキョトンとした顔でクリスを見た。
そんなグラントを、面白そうな顔をして見返し、こう言った。
「深海魚を釣り損ねたでしょう?」
……ぶほっ!
グラントは飲み込もうとしていたスポーツドリンクを盛大に吹き出した。
グラントに釣りの趣味はないし、そもそも釣りをしたこともない。
釣りをしたいとも思ったこともない。
そう、この「深海魚」とは隠語だ。
クリス達が所属する連邦特別司法省の特別司法官の間では、犯罪者逮捕を「釣る」と表現することがある。
その釣る犯罪者を「魚」として表現する場合があるのだ。
逃げ足の速い犯罪者を「カジキ」、ホワイトカラー、いわゆる富裕層を「鯛」、それをターゲットにした犯罪者を「海老」といったように。
深海魚とは、めったにかからない、深い場所にいる魚。釣り糸を垂らしても普通釣れない魚。仮に長い長い釣り糸を垂らしても引っかからない魚。
つまり「深海魚」とは深い闇の深海にいる「そのような対象」を指す。
「別に釣ろうとしたわけじゃないぞ」
休憩をしながら、こっそりとグラントが言った。
別に隠すことではないが、自然と声が小さくなった。
「あっちが勝手に撒き餌にかかってきただけだ」
今度はクリスが噴き出すところだった。
何とか現象を収め、グラントに問いただした。
「え? 深海魚メインじゃなかったのですか?」
「深海魚相手じゃ、チームワンだけで事足りるか! もう二、三チーム駆り出さなきゃ相手にならないだろう。今回は勝手に深海魚が何考えてんだか、ぽっかり浮かんできて撒き餌に食らいついたんだ。まったく、こっちもビックリだ。おかげで驚きすぎて網を巻き上げるときに、隙間から落としてしまった」
ふうっと溜息をついて、グラントはおどけたように肩をすくめて見せた。
「深海魚も驚いて慌てて深海に戻ったんだろうよ。しばらくは用心して、深海をさまよっているだろうさ。俺たちもそうそう水圧の高いところに潜れるわけじゃない。危ない橋は渡りたくないしな。俺には女房子供もいるし、路頭に迷わせることはしたくない。また深海魚が深海から迷い出た時に捕えなきゃならないだろうし、今度は釣るよ」
「そうですね」
簡単に、だが深くクリスは答えた。
握りしめたスポーツドリンクのボトルを見ながら言う。
「深海魚も様々ですからね。今度質の悪い深海魚が顔を出したときは、声をかけてください。お手伝いさせていただきます」
「おう、頼りにさせてもらうぜ」
そんな会話をして、二人はジムを去って行った。
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