アナスターシャ
和泉茉樹
アナスターシャ
◆
そこに立った時、見はるかす水平線の少し手前を一隻の貨物船がゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。
いつか、と呼ぶには近すぎて、しかしもう記憶の中にしかない時間の、ここではない場所で、彼女はいつもよりどこか真面目な口調で、言っていた。
あの船はどこに向かうのかな。
僕たちは限られた時間の中にいて、それとは正反対に野放図なほどに広いこの世界で、偶然にもすれ違った。それは、ある種の奇跡だったと思う。今になれば、と付け加える必要があるけれど。
大学に入って、同じクラスで、たまたま出会っただけで、それは運命なんて呼ぶほど大仰ではない。少しくらいは、そう、宿命はあったかもしれない。
幸福とともに、悲しみを伴う、やりきれない宿命。
地方都市の、どこにでもあるような私立大学の、平凡な講義室で、僕たちは出会って、恋をした。
長い休みに、二人で旅行へ行った時に、あの貨物船を見たんだ。
彼女は目の上に手で庇を作って初夏の日差しを避けて、つぶやいた。
「どこの文字だろう。英語じゃない。ロシア語かな」
僕の視力ではよく見えなかったけど、そう、キリル文字だったかもしれない。
僕たちはその岬にある、何かの記念碑みたいなものの横で、落下防止のための柵に寄りかかって、並んでその貨物船がゆっくりと通り過ぎていくのを見ていた。
どちらも何も言えずに、ただその光景を前にして、立ちすくんでいた。
僕も彼女も、ただの学生で、未来は拘束される以外の可能性を持っていない。
あと何年かすれば、どこかの会社に勤めて、どこかの街で新しい生活を始めるだろう。
そうなった時、僕は彼女の横にいるのだろうか? 僕はどこでどんな生活をして、彼女はどこでどんな生活を送るのか。
「鳥が飛んでいるね」
そう言って彼女が空の彼方を指差すその先には、一羽の鳥が、風を受けて舞い上がり、ゆっくりと円を描いている。
僕たちはしばらく、去っていく貨物船と、その目的地が決められている貨物船よりは遥かに自由な未来へ向かう、一羽の鳥の行方を見守っていた。
僕はまだ長い人生を残していて、選択肢は両手に余るほどあることを、ある瞬間には安堵の材料にして、ある瞬間には不安の原因にしていた。
自分自身の選択でどんな未来を生きることもできるはずなのに、最良の未来を否定するのも、結局は自分の選択であることを、受け入れるにはまだ僕には経験が足りなくて、つまり、弱かった。
猶予期間とも言える学校生活は、彼女という彩りを十分に反映して、鮮やかな記憶を長く、この後の僕の意識の中に残していくことになる。
僕たちは将来の話を、本当に稀に、口にしていた。僕は地元へ帰って、適当な仕事をして、趣味に生きたかった。当時の僕の趣味はバイクで、いつかは日本を縦断したい、そうでなければ、海岸線をぐるっと一周したい、と本気で思っていた。そう言うと、彼女はくすくすと笑いながら、あのスクーターで? とからかった。
その時はまだ大型二輪の免許を持っていなくて、僕は中古で買った古びた、年季の入ったスクーターに乗っていて、それにはそれの思い入れがあり、好きだったけど、大学を卒業するのと同時に手放すことになるのも、やはり当時の僕は知らない。
とにかく、僕も彼女も、学校生活に慣れれば、それぞれにサークル活動やアルバイトに時間を割くようになった。僕には免許を取るためのお金や、バイクを買うお金、そして来るべき大いなる冒険とでも呼ぶべきたくらみの資金が必要だった。
彼女と会う時間だけは、きっちりと確保されていて、彼女もそこは真摯に、決して約束を違えることはなかった。
二人で顔を合わせると、僕も彼女も、不思議と他人の愚痴なんて言葉にせず、それぞれのアルバイト先の笑い話、サークルでの可笑しかった場面を尽きることなく交換していた。後になってみると、彼女ほど他人に寛容で、何も否定しない人間なんて珍しいとよくわかった。社会には悪意が満ちていて、隠れての悪意の交換が奇妙な団結を生み、それこそを大事にする人間がいる。それも、大勢。僕は今も、そんな人たちに馴染むことができないでいる。
その価値観というものに僕と彼女にはある種の共通点があり、共通点は人格の深い部分での共有と融合に直結したんだろう。
僕と彼女は、いわば二つに分かれてしまった一人であって、話せば話すほど、時間を過ごせば過ごすほど、馴染みすぎるほどに馴染んでいった。
日々は慌ただしく過ぎる。友情は恋愛に完全に変わり、安定していた。
朝が来て、夜が来る。学校があり、仕事があり、彼女との時間がある。どんな日にも必ず夜がやってきて、何かがリセットされて、また朝がやってくる。朝は昨日の続きの今日を、ちゃんと連れてきた。
なのに、僕は確かに、何かが終わる瞬間へと世界が進んでいくのも、感じていたんだ。
それは命が終わるような決定的な状況ではないのに、命が終わる以上の恐怖を伴っている。何もかもに終わりが来ることを、夜は僕に示しているようだった。命を奪われるより強い悲劇が、どうやらこの世界にはあるらしい、と僕はたった今という時間から、推測していた。
いつまでも学生ではいられない。いつまでも、のらりくらりとは生きていけない。
今の自由にも、いつかは終わりが来る。選択したくなくても、全てを見ることができない大きな仕組みが、選択を強制する。
何より、僕が彼女と一緒にいられる時間は、いったい、あとどれくらいが残されているのか。
ある夜、彼女を下宿へ送っていく時、夜道の真ん中で、僕は未来を一つ、定めるべきではないかと気づいた。
秋も中盤を過ぎ、落ち葉を運ぶ風には冷たいものが色濃かった。夜空には月が輝いて、雲の輪郭をささやかな光が縁取っている。
横を歩く彼女を、今なら繋ぎ止めることができる。
僕の未来の一部に、彼女のための席を用意することができると、脅迫感じみたものが主張していた。そうしておけば、決して彼女を失うことはない。夜の闇がそう僕に囁きかけ、迫ってくるのだ。
無意識に、空を見上げた。一度、強い風が吹いて、彼女の髪の匂いが微かに香った。
この夜に、彼女の心を引き止めることができれば、今の僕も少しは救われただろうか。それとも、彼女を引き止めてすぐそばに置いたことで、今の僕の中にあるよりも強い喪失感、痛みや苦しみを伴ったより強い悲しみが、僕を襲っただろうか。
そんなことを考えても、仕方がないのだけど。
僕はその夜、彼女に何も言えなかった。
そばにいて欲しいと。できるなら、ずっと一緒にいて欲しいと、僕は彼女に言えなかった。
彼女のことを、僕はよく理解していたつもりで、たぶん、彼女は僕の言葉を拒絶しなかっただろうとは、今も当時も、よくわかる。わかっても言えなかったことが、その瞬間から心を縛る棘に変わってもいた。かすかな痛みが、心を常に突き刺す。
夜道で、最後の最後に僕をためらわせたのは、結局、僕自身が受ける痛みではなく、彼女が受けるかもしれない痛み、その想像だったと思う。
僕の不確定な未来の中で、何かが変わって僕が彼女を傷つけることになる。そんな可能性が絶対にないなんて、言い切れなかった。彼女の未来を僕が奪う。あまつさえ、それで彼女の人生が台無しになるなんて、あってはいけないことだった。
僕以外の誰かが彼女を幸せにできないと知っていながら、僕以外の誰かの方がより彼女を幸せにできる、そんな矛盾する想像が、僕の心の一部を密やかに、しかしがっちりと絡め取ってもいたのだった。
自信がなかった、と言ってしまえば呆気ないけれど、大切な人の全てという、僕が、誰もが挑む相手が、あの瞬間にはあまりに大きすぎて、僕にはそれをねじ伏せるなんて、とてもできなかった。
僕の幸せのために、誰かを不幸せにすることが、許されるわけがない。
僕たちが目の当たりにしている、曖昧でありながら、万物が胸襟を開いて歓迎する未来という奴は、ただ待ち構えるだけで、向こうからは滅多に手を差し伸べてはくれない。僕が見てきた大勢が、未来の中で幸福を享受し、未来の中で不幸を甘受していた。その両者にどれだけの違いがある? 彼らと僕や彼女に、どれほどの差があっただろう。
みんな同じ人間で、同じ世界に、同じ時間を生きている。
世界というものの非情さが、日を追うごとに僕を責め立て、今にも崩れそうな姿勢でどうにか僕は立ち続けた。彼女という存在が、僕の支えの一つになり、しかし彼女に支えられなければいられないが情けなくもあった。できるだけ彼女に悟られないように、僕は強がったと思う。必死で、平然を装った。
彼女もきっと同じ時に同じ恐怖を感じただろう。僕たちには未来があると同時に、選択する義務があったのだから。その選択は極端に幅の広い選択肢を用意しながら、一度選べば、同じ場所へ同じ形では戻れない性質の選択で、僕はそれに恐怖を感じつつあったし、彼女もそうに違いない。
逃げるように勉強に打ち込み、仕事を続けた。朝が夜になり、また朝になる。
僕は免許を取り、しかし大型のバイクを買うほどの経済的な余地はない。スクーターで、僕は日本海を見に行ったりした。季節は冬になろうとしていて、雪が降らなくて心底からホッとした。それでも冷たい空気の中を走ると、その冷気は骨の芯まで凍えさせるようだった。
時間は確かに、進んでいる。この寒さは、いつまで続くのか。先の見えない道を走りながら、バイザー越しにただ、目の前を睨んだ。
大学では就職活動が始まる。僕も彼女も、それぞれに志望する職種を決めて、ぶつかっていく。やる気と疲労、冗談と嘆きの中で、それぞれが戦うしかない。
いつの間にか二人で会う時間が減って、しかしそれを殊更、話題にすることもできなくなった。ついに僕たちは、選択するべき時を迎えているようだった。
彼女の就職先が先に決まった。それは東京にある小さな企業で、彼女が志望している業種の一端に連なってはいるらしい。彼女はその話をした時、何年かしたらキャリアアップでメインストリームに乗る、と笑っていた。
僕は地元の企業の内定を受けて、こちらはまったく、興味も何もない企業だった。
僕は長いのか短いのかわからない就職活動に疲労困憊していて、内定を得た瞬間に、心はその場にへたり込んでいた。これでとりあえず、一つは選択を終えたわけだ。
選択したことで得たはずの自由は、どこかくすんでいて、ちっとも輝いていなかった。
彼女との別れが迫っている。
僕たちはどちらからともなく、離れていくことになった。あれほどぴたりと寄りそっていた自分の分身が、気づくと別の一人の人間になっていて、離れ離れになるのが当たり前になるというのは、奇妙な感覚だった。
いつかの夜のことが繰り返し、繰り返し、思い出された。
あの夜、彼女をぐっと引き寄せていれば、違った未来があったのだろうか。
今とはまるで違う、少しは鮮やかな未来が、目の前にあっただろうか。それだけが何度も頭に浮かんだ、
彼女が東京に旅立ち、僕も下宿の整理を始めた。
教科書を捨てるか迷って、めくっている時だった。一枚のメモが床にひらひらと落ちた。
拾い上げると、見慣れた文字で、どこかの住所が書かれていた。そして彼女の文字で、こう添えられていた。
ここが再会の場所。
それだけだ。
僕はそのメモを見て、何かがズシリとのしかかり、同時に何かが自分から失われていることが、はっきり理解できた。
僕だった。彼女との未来を裏切ったのは、僕自身だったのだ。
あの夜も、他に繰り返しあった様々な場面でも、僕は彼女を引き止めるべきだった。そうすれば今とは違う未来が、確かにそこにあったのだ。今よりも眩い明るい未来があったんだ。
そして彼女も僕のすぐ横で、同じことを考えていたんだ。
彼女は、未来を信じていた。
彼女が信じていた未来は、僕が信じられなかった未来になった。
そして彼女も僕と同じように、最後にはどこかで未来を諦めていた。
僕の臆病がその想像、彼女の決断で救われることはない。彼女には何の非もなく、あるとしても僕が少しでも動くことが出来れば、一歩だけでも踏み出せれば、それでチャラにできることだった。二人ともが立ちすくんで、それは不幸な譲り合いにも後になってみれば思えた。
彼女を失ったのは、誰の原因でもなく、純粋な僕の弱さだったことになる。
下宿を引き払い、僕は地元へ戻った。仕事だから、と気力を尽くして仕事に打ち込んだ。価値観を共有できない、まるで違う世界の住人のような人々に混ざって、生きた。
バイクだけが、過去を僕に思い起こさせた。思い切ってローンを組んで買ったバイクで、休日は一人で遠出をした。山間の道を走り、海沿いの道を走った。風を切る時、エンジンを吹かす時、その時だけ、何かを置き去りにできる。でもその何かが、すぐにひたひたと僕に近づいてきて、体にまとわりつき、呼吸さえも重くさせる。
夢の中で、何度も彼女と顔を合わせた。彼女は今も笑ってそこにいる。
二つに分かれた、僕の半身。
夢から覚めると、朝になっている。朝になっても、僕はどこへも辿り着いていない。平穏で、しかし無色で何の香りもしない、粘りのある流動体じみた空気の中に、僕はいる。夜が来て、また夢を見る。彼女の笑顔と空気が、その度に遠くなり、僕は必死に手繰り寄せ、目が覚める。また朝だ。
僕は頻繁に、例のメモを手に取った。
東京のどこかの住所に、何かが待っているのかもしれない。
でも、何が待っているのだろう?
過去はもう、変えることができない。過去に帰ることは、できない。
僕はぐるぐると、今と過去の間を回り続けている。温かい愛情と、それを失ってしまった今という冷たい世界の間を、行ったり来たりしていた。それも、温かみは僕の心の中から徐々に失われ、冷気が体から離れなくなってきた。
でも、僕は彼女に恋したことを、彼女に出会ったことを、忘れようとは思わなかった。未練ではなく、僕の心の芯の芯、底の底で、絶対に消えない温もりとして、それが確かにある。それは疑いようもない事実だった。
たとえ今、温もりが僕を傷つけ、より深い暗闇に突き落とすとしても、彼女のことは忘れないだろう。それは僕が受けるべき苦痛であり、当然のことだ。
あの夜、僕が言葉を発しなかったこと、彼女の手を掴みさえしなかったことが、未来を決めてしまった。それを決めたのは、僕だった。
僕は僕の選択の結果を、今、罰のようにこの身に受けているのだ。
だから、僕はこの痛みを、受け入れよう。
バイクによる日本縦断は、長期休暇を利用して、実現した。
ある時、やっぱり何かの記念碑のある岬で、僕は水平線に貨物船を見た気がした。
鳥は飛んでいるだろうか。
どこかへ辿り着ける貨物船と、どこへでも行くことができる鳥と。
僕はどちらだろう。
鳥だったら、彼女の元へも、行けるのだろうか。
長期休暇の旅行を終えて、今の生活の場である会社の寮へ戻ると、封書が一通、届いていた。
送り主は、彼女だった。
中には一枚の切符が入っていて、メモが添えられていた。今も覚えている彼女の筆跡。
僕はその切符を手にして、窓の外を見た。
僕は今、勇気を持てるだろうか。
あの夜の、勇気がなかった僕と、決別できるだろうか。
もう一度、今の悲しみを生んだ、その源流を遡っていくことを、僕は選べるのか。そして一度は投げ出したものをもう一度、背負い直せるのか。
窓の向こうを、一羽の鳥が、ゆっくりと旋回している。
どこへでもいける、あの鳥は、どこへ行くのだろか。
悲しみも、過去も超えて。
(了)
アナスターシャ 和泉茉樹 @idumimaki
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