サマースクール・ウォー 後編
カレーは無事にできあがった。おなかすいたね、と塚本さんと言い合い、紙のお皿にごはんを人数分盛った。湯気のあがるカレーをよそい、台に置いた時、さりげなく忍太郎が近づいてくるのが見えた。
ポニーテール頭ふぁさふぁさ、いつもの侍面。だけど、四六時中こいつを見ているわたしは、何か違和感を感じた。
(なんか企んでる・・・・・・)
忍太郎はカレーの周りをふらふら歩き、何事もなかったかのように去った。なんだ、おなかが空いていただけか。
忍太郎と入れ違うように、あきちゃんがカレーのお皿に近づいて来た。「わー、すごい、おいしそー」と無邪気に言いながら、カレーの周りをぐるっと歩いている。
(あれっ)
なんか、あきちゃんがジャージのポケットを探っていた気がするけれど。
いや、気のせいだ。親友を疑うなんて、いけないいけない。
いよいよ席について食べる段になる。
空はまだ明るいけれど、夕暮れの気配が近い。風が涼しかった。
各グループのカレーの香りが漂っている。においをかいでいるだけでお腹が鳴りそう。
男子と女子で向き合って座って、いただきます、と手を合わせる。その時、いきなりあきちゃんが、「わたしの多いなー。忍太郎、交換して」と言い、自分のお皿をさっと前に出したのだった。
あきちゃんは愛らしい笑顔である。そこに、何らかの黒い意図があるようには到底見えない。
塚本さんが、ごめん、多かった、と気がかりそうだった。あきちゃんがにっこり笑って「ううん、違うの。わたしあんまりお腹空いてないだけ。ごめんね」と言った。
忍太郎、さあ、交換して。このカレーと、あんたのカレーを、さあ。
にこにこにこにこ。
ぐいぐいとお皿を突き出すあきちゃん。一方、忍太郎はいつもの侍面で、無言であきちゃんを見つめている。なんだか妙な雰囲気だった。
「ねっ、頼むよ男子。いっぱい食べるでしょ、男子だもん」
と、あきちゃんはほとんど忍太郎の面前にまで自分のお皿を突き出している。
「なんだ、そんなに多くもないじゃん」
忍太郎の隣に座っていた大野君が、ちらっと覗いて言った。いいよ、俺のと交換してやるよ、そら。そう言って、大野君は気軽そうにあきちゃんのお皿と自分のお皿を交換してしまった。
確かに大野君のカレーは、若干、盛りが少ないかもしれない。
(よかったね、あきちゃん)
ほらね、大野君はやっぱりいい人じゃない。あきちゃんも、昔のことなんか忘れて、彼の良いところを見てあげたら――え。
お皿を交換してもらったあきちゃんは、凄い表情をしていた。眉間に深いしわが刻まれ、口をぽかんと開けている。カレーを受け取った手が、ぷるぷるしていた。
一方、忍太郎は黙々と自分の分を食べ始めている。いい食べっぷりだ。男の子ってカレーを本当に美味しそうに食べる。
「うまいなー」
と、大野君も美味しそうに食べている。
「美味しいね」
塚本さんが話しかけて来た。う、うん、美味しい、美味しいね。
山の中でみんなと食べるカレー、確かに美味しい。けれど、何だろう、この不穏な予感は。
カレーを食べ終える頃、片づけを始めた。あきちゃんが、おなべに触れて悲鳴を上げた。ステンレスのお鍋は、まだ冷めていなかったらしい。取っ手に触れた指をおさえて顔をしかめていた。
「馬鹿、なにしてるんだよ」
大野君があきちゃんの腕を掴んで、流しの水に浸した。あっという間の出来事だった。
あきちゃんと大野君、肩と肩が触れ合っている。なんだかどきどきしてしまう。
「大丈夫」
覗いてみたら、あきちゃんの指は赤くなっていた。軽い火傷をしたみたいだ。
塚本さんが、先生呼んで来る、と言って走って行った。じゃーっと冷たい水が流れ、あきちゃんの指を冷やし続けている。大野君は無言であきちゃんの手首を掴んでいる。
あれっ。
なんか、あきちゃんの顔が赤い気がする――否、気がする、というレベルではなく、頭から湯気が出てきそうなほど真っ赤になっている。目はぎとぎと油ぎっていて、鼻息が荒いわ。
(駄目だよあきちゃん、そんな顔、大野君に見られたらっ)
一体どうしてしまったんだろう、あきちゃん、まるで――嫁入り前の女の子がこんなこと言えない――まるで、アレみたい。
ふんがふんが、むらむらむらっ。なんか、春先にうちの外でアーオアーオ鳴いてる野良猫が、こんな感じになってるッ。
大野君、身の危険を感じてないだろうか。はらはらして大野君を見たら、大野君までうっすら頬を染めていたので驚いた。
流石、爽やかスポーツ少年、よく自分を律しているけれど、はたから見ていても、胸のどきどきが聞こえてきそうだ。
いや、どうなってるの、この二人、どうしちゃったの。
「拙者としたことが間違えてしまった。姫に盛ったはずのものが、まさか大野に行っていたとは」
ぼそりと、何か聞こえた。ファッと振り向いたら、忍太郎が難しい顔をし、顎に指をあてている。ぬかった、イヤアぬかった、と繰り返しているが、オマエ一体、カレーに何をした。
つかつかと近づいて、考え込んでいる忍太郎の襟首をつかんだ。流石にこれは度が過ぎる。眼鏡の奥から睨んでやったら、忍太郎が慌てたように視線を泳がせた。
「何を入れたのよ、カレーに」
低い声で言うと、忍太郎は「なんのことでござるか」としらを切った。もう片方の手で耳たぶを思い切り引っ張ってやったら、アイテテテと忍太郎は観念した。
「媚薬を入れたのは、拙者だけではなかったでござる。あき殿だって、カレーに媚薬を――それも強烈なのを――盛った様子でござるよッ」
び、媚薬。
唖然とした。宿泊学習のカレーに、媚薬を盛って、この助平忍者一体なにを企みやがった。
っていうか。っていうか。
「あきちゃん、媚薬使って誰をどうするつもりだったんだろう」
囁き声で忍太郎に質問してしまった。
忍太郎はわたしの手を柔らかく放し、ちょっと後ろめたそうに視線を逸らした。
「恐らく、拙者を発情期の猛獣のようにして、姫をドン引きさせようとしたのではなかろうか」
はあー。
開いた口が塞がらなくなった。あきちゃん、ちょっとあきちゃん、手段を択ばないのにも程があるわよっ。
いや、それ以前に忍太郎。
「ねえ、アンタ、わたしに媚薬盛ってどうする気だったのよ。白状しなさいなっ」
きっと睨みつけようとしたら、そこにはもう忍太郎はいなくなっていた。逃げられたらしい。
一方、流しのところで体を寄せ合っている二人は、もう噴火寸前の顔でぶるぶる震えている。大野君なんか、脂汗を流しているじゃないの――可哀そう。
「火傷したってぇ」
先生が慌てて走ってくる。塚本さんが救急箱を持ってきた。
「ほらっ、救急箱きたよっ、もう十分冷やしたから、二人ともっ、ねっ」
離れて離れてっ。もういいからっ。
急いでわたしは間に入った。
あきちゃん、指をおさえながら微妙な表情をしている。大野君は無言で背を向け、速足で歩き去ってしまった。そうよ大野君、平常心を取り戻すのよ、あなたならできるっ。
先生はあきちゃんの指を見て、大丈夫だね、と安心したように言った。
「すぐに冷やしたのが良かったんだね。消毒しておくから、触らないようにしておいてね」
丸椅子に座り、先生の手当てを受けながら、あきちゃんは無言だった。まだ顔が赤い。
何となく気になって、あきちゃんの横顔を見つめてしまった。あきちゃんは、傷ついたような目をしていたから。
**
夜になり、みんな部屋に入った。
先生の点呼の時間まで、わいわいお喋りするのだろう。部屋で大人しくしているひとなんか、いない。男子たちなんか枕投げをしているのだろう、どたどたと凄い音が廊下に聞こえてくる。
学級委員は部屋を見て回り、みんなちゃんといるか確認しなくてはならない。一部屋ごとに見て回った。まあ、毎年の恒例で、ひっそり窓から抜け出している子もいたけれど、いつものことだから目を瞑る。
「誰某君が告白するって」
「きゃー」
ひそひそと色恋話が耳に入ってくる。今日は晴れているし、さぞかし夜空は綺麗だろう。告白タイムにはもってこいだ。
サマースクールで、今年は何組のカップルが成立するんだろう。
一部屋ずつ見て回り、先生のところに行って「みんないました」と虚偽の報告を済ませてから自分の部屋に戻った。すると、あきちゃんがいなくなっていたので驚いた。
「三河さん、さっき呼ばれて出ていったよ」
意味深な様子で、残っていた子たちが言った。
あきちゃんが呼ばれた。大野君だろうか。ピンと来た。
もぬけの空の、あきちゃんのベッド。
大野君、やっぱりあきちゃんのこと諦めきれていなかったんだ。ついに面と向かって告白しちゃうのか。
それにしても、あきちゃん大丈夫だろうか。火傷の時、微妙な表情をしていたけれど、まだ大野君に対してトラウマを抱いているのだろうか。心配になった。
覗き見するつもりではなかったけれど、あきちゃんの傷ついたような目や、泣きそうに震えていた口元を思い出すと、気になって仕方がない。トイレに行くふりをして部屋を出ると、こっそりと外に出てみた。
夜になると自然の家の周辺は、一層緑のにおいが生々しくて、青臭さが際立つ。さわっと夜風が渡り、木々がざわめいた。空は思った通り満天の星空で、今にも流れ星がこぼれてきそうだ。
あきちゃん、どこだろう。
大野君とカップルになるかどうかはともかく、大丈夫なら良いんだけど。
自然の家の周りをこっそりと歩いた。あちこちで人の気配がするけれど、多分、今、告白ラッシュなんだ。あちこちで両想いが確定し、カップルがどんどん誕生しているのだろう。
幸せなのは良いけれど、頼むから先生の点呼前までには部屋に戻ってくれぃ――と、学級委員長のわたしは思うわけで。
大野君の声が聞こえた。はっと壁に背中をはりつけて、恐る恐る覗いてみると、茂みの前で、大野君とあきちゃんが向き合っていた。あきちゃんは口をへの字にして俯き、大野君は真剣な顔であきちゃんを見つめている。
「まだ俺の事、嫌い」
と、大野君が言った。あきちゃんはそれには答えない。さあっと風が流れた。
「ごめん。今、わたしにとって一番大事なのは、乙女ちゃんだから」
あきちゃんはそう言った。
「今から乙女ちゃんを護ってあげなくちゃいけない。わかるでしょ、今から始まるんだから、今から・・・・・・」
あきちゃんは辛そうに言うと、さっと大野君から離れて走って行ってしまった。
大野君は呆然と立ち尽くし、あきちゃんを見送っている。ああ――わたしは胸をおさえた。
あきちゃん、きっと大野君のこと、もう嫌っていないんだろうな。けれど、わたしを護らないといけないからって。
(え、ちょっとまって、何その理由)
乙女ちゃんを護らなくちゃ。今から始まる。わかるでしょ。
あきちゃんの放った言葉は謎に満ちている。なんだろう、なにが始まるっていうんだろう。
「あき殿ならば、姫をお任せできるのかもしれないな」
ぽそっと、声が背後で聞こえた。とびあがりそうになった。
振り向くと、忍太郎がポニーテールを風にそよがせて立っていた。ぐっと口を引き結んでいる。忍太郎も、今の一部始終を見ていたらしい。
「だめだよ、人の告白を覗いちゃ」
と、言うと、忍太郎は「姫も見ていたではないか」と言い返してきた。なにも言えなくなった。
ざわざわと木々が揺れている。風が心地よかった。
こっそり抜け出してきたから、帰りも人に見られるわけにはいかない。足音を忍ばせて建物の周りを歩いた。忍太郎も、わたしの側を歩いていた。
「男には、逃げてはならない戦いがござる」
ふいに忍太郎が、どこかからパクったようなセリフを吐いた。えっと振り向いたら、忍太郎ともろに目が合った。思いがけないほど至近距離だったので、どきんと心臓が飛び上がった。
「どこにいても、拙者は姫を護るでござる。拙者は生涯、姫にお仕えすると心に決め申した故」
と、忍太郎は言うと、いきなりわたしの手を握りしめ、体を寄せた。
あっと驚いて見上げた空には、今まさに、つうっと流れ星がひとつ、落ちたところだった。忍太郎のポニーテールがさらっと踊り、その向こう側に夜空が広がる。
忍太郎は、つつましくわたしの額に口づけ、さっと体を離すと、いきなり跳躍した。ひゅんと小さな風が舞い、次の瞬間には、忍太郎の姿はそこにはなかった。たたた、と、屋根の上を走る音が微かに聞こえた。
今、あいつ、何をした。
感触が残るおでこに指を触れ、わたしは茫然とする。パッチン止めがなくなっていた。忍太郎に盗られたか。
額に唇をつけるついでに、パッチン止めをくわえて走り去ったか、忍太郎。まあ、パッチン止めくらい、いいんだけど。
それにしても。
なんだか色々と気になる。そして、何だろう、この不穏な感じは。
おでことは言え、初めてのチューだったのだけど、その余韻に浸りきることもできないまま、わたしは部屋に戻った。
**
サマースクールは無事に終わった。
翌朝、ベッドを綺麗にし、朝ごはんを食べた後、最後の掃除をしてから――やっぱり、サマースクールの真の目的は自然の家の清掃だと思う――わたしたちはバスに乗った。
自然の家のおじさんたちが出てきて、大きく手を振ってくれている。ばいばい、楽しかった、ありがとうございます。
「来年はもう、サマースクールないんだよね」
バスが出発してから、隣に座っているあきちゃんが呟いた。
あきちゃん、眠っていない目をしている。少し泣いたような顔だったけれど、わたしは気付かないふりをしていた。
あきちゃんが幸せになりますように。どうか、大野君と両想いになりますように。
わたしは祈るしかできない。
そうだ、来年はもう中学生。これが最後のサマースクールだったんだ。
バスの震動は心地よくて、あちこちで爆睡する子が見られる。きっとみんな、昨夜はじけすぎて寝られなかったんだろう。
忍太郎はというと、男子に混じって席に座り、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
車窓の外は鮮やかな夏の緑。蝉の声。
もうすぐ夏休みが始まる。始まるといえば。
「今から始まる、わかるでしょ」
あきちゃんの謎の言葉。
「男には、逃げてはならない戦いがござる」
忍太郎。
なんだろう、一体、なにが始まるんだろう。
もやもやが込み上げたけれど、わたしは何度か首を振った。ううん、なにも変わるわけがない、いつもと同じだ。
学級委員長にとって、夏休みなんか憂鬱でしかない。長期の休み明けの宿題の提出ラッシュ。みんなちゃんと出してくれたかどうかの確認をしなくてはならないんだ。
いつもの夏休み。そうに決まってる。
**
バスは山を降りてゆく。
みんな、無邪気に喋っている。あるいは、疲れて眠っている。
わたしも少し目を閉じてみたら、昨日の夜、忍太郎の頭越しに見えた、綺麗な流れ星がまぶたの裏に過って消えた。
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