いつも通り、異常なし、絶対にいつも通り、そうじゃないわけがない

 明日のことどころか、一瞬先の事すら判らないものだ――ということを、齢12歳で、わたしは知ることとなる。

 もしかしたら、兆候はずっと前から現れていたのかもしれない。それは日常の中でチラリチラリと姿を見せていたのだが、あまりにもさりげないので、異変の前触れとは思えなかった。

 それとも、違和感を感じていたとしても、その予感があまりにも突拍子もないことだったから、無理やり蓋をして、普段のままの生活がこの先永遠に続くのだと思い込んでいたのかもしれない。


 ある日、学校に行ったら、校庭が忍者だらけになっていた。

 校庭の隅では、数人の黒装束が疾風の如く駆けまわっている。少し離れた場所では、また何人かの黒装束が「ぼうん」「ぼぼぼう」と、火薬の弾丸を投げつけては煙の出し方を試していた。

 また別のところでは、何人かが並木の桜に向かい、手裏剣の訓練をしている。

 

 三時間目の音楽のためにリコーダーを差したランドセルをかついで、わたしは愕然としていた。

 メガネが壊れていないのなら、始業前の校庭で忍者ごっこをしている一団は、うちのクラスである。中心になってホイッスルを吹き鳴らし「そこッ、そんなんでは忍者とは言えないッ」と叫んでいるのは、どう見ても桜子さまなのだった。


 桜子さまは黒装束姿ではなく、ランドセルをかつぎ、白いソックスにぱっつん前髪と三つ編みの、いつもの優等生の装いである。だがそれは、うようよいる黒装束の中で、桜子さまこそが特別な存在であることを示す効果があった。そしてもちろん、桜子さまのランドセルには、わたしと同じようにソプラノリコーダーが差し込まれている。


 「戦国小6年1組こそ、最強の忍び集団ですのよッ」

 桜子さまが誇らしげに叫んでいる。それを聞いた凸子と凹子は――それぞれ黒装束を纏い、なんだかわけのわからない鍛錬に打ち込んでいたが――はっと振り返り、拳をつきあげて「ハイル、ニンジャー」と叫んだ。

 ハイル、ニンジャー。ハイル、忍者。忍者万歳。

 

 唖然と立ち尽くすわたしの後ろで、忍太郎が「始まったでござるか」と呟くのが聞こえた。ちらっと見返ると、忍太郎はくっきり眉毛を寄せ、険しい表情で校庭の六年一組を睨んでいる。

 ハイル、ニンジャー。ハイル、ニンジャー。

 黒装束たちはいきなり直立不動の姿勢になり、ライブ会場のように熱狂した叫びをあげた。くらくらっとしたわたしを、忍太郎がはっしと抱き留めてくれる。その時、黒装束のクラスメイトの囲まれて、凛と腕組みをして立っていらっしゃった桜子さまが、こちらを振り向いた。


 にっこり。

 嫣然とした微笑みは、いつもクラスで見る優等生の副委員長の表情ではない。桜子さまはつうんと顎をあげて、わたしを見下ろした。ほほほ、ほーほほほほ。高笑いが渦を巻きながら校庭に、戦国小学校に響き渡るようだ。

 「花山田さん、今からでも遅くはないことよっ」

 桜子さまは堂々と叫んだのだ。


 「学級委員長を辞退し、その座をわたしにお譲りあそばせっ」

 以前お話した通り、わたしならば6年1組を最強のクラスにまとめ上げるノウハウを持っておりますのよっ。ええ、そう、ですからっ。ほほほ、ほーほほほ。

 

 「仲良くしませんこと、わたしたち」


 リン、ゴーン。

 予鈴が鳴った。ああ、わたしは立ちすくんだまま金縛りにあったように動けずにいる。どうしよう、遅刻してしまう。というか、クラスのみんな、ちゃんと教室に入らなきゃだめだよ。

 先生が来ちゃうよ!

 一時間目の算数、小テストがあるんだよ!


 「しっかりするでござる」


 ぱんっ。

 目の前で掌が音を立てた。

 我に返った時、わたしは後ろから忍太郎に抱きかかえられていた。忍太郎はわたしの体に腕をぐるりと回していた。わたしの顔の前で両手を打ち鳴らし、正気にかえらせてくれたらしい。

 忍太郎の柏手の音のおかげで、わたしは現実に引き戻された。校庭はがらんとしていて、さっきまでうようよいた黒装束のクラスメイトは一人残らず消えていた。もちろんそこには桜子さまもいない。


 始業数分前、校舎の外には誰もいない。

 ひうう。生ぬるい風が吹き、プランターの赤いサルビアが揺れた。


 「忍太郎、今の見た」

 震え声でわたしが言うと、忍太郎は「見たでござる」と低い声で答えた。きつい目、一文字に結んだ唇。

 

 「これはもしや、まずいことになったやも知れぬ」

 

 まずいこと。一体なんのことよ。

 何でもいいわ、急がないと授業に遅れてしまう。慌てて忍太郎の腕を振りほどくと玄関に駆け込み、内履きに履き替えて教室に急いだ。

 息せききって教室に入った時、わたしは再び仰天した。


 ほんのわずか前まで校庭で黒装束を纏って忍びの訓練に打ち込んでいたはずのクラスメイトたちが、いつものように席に座り、わいわいがやがやとおしゃべりをしている。

 「算数の小テストやばーい」

 と、言い合っている女子たち。

 「ひーひょろろ」

 リコーダーを鳴らして遊んでいる男子たち。

 そして、整然と座り、落ち着いて教科書を開いている桜子さま――一瞬、桜子さまがわたしを見て微笑んだような気がした。


 狐につままれたような心地で自分の席に座る。ランドセルから教科書とノートを出して机に入れた。

 もうじき先生が来る。そして、きっと何事もなかったかのように一日が始まる。そうだ、夢だったんだ。さっき見たのは全部幻だったんだ。そうに決まってる。


 つんっと背中をつつかれて振り向いたら、あきちゃんが真剣な顔でこちらを見ていた。

 「下剋上が起きたのよ」

 囁き声で、あきちゃんは言った。下剋上。すぐには飲み込めず、わたしは無言であきちゃんを見返した。下剋上って、あの、戦国時代でよくあった、アレのことか。


 「今の6年1組の、実質上の学級委員長は桜子さま。表面上は副委員長だけど、みんな、桜子さまの指示で動いているわ」

 卑劣な根回しでクラス全員を味方につけたのよ。悔しいけれど、今はどうしようもないわ。

 あきちゃんはわたしの耳元で、小さい声で教えてくれた。そうしている間も、クラスメイトたちはいつもと全く変わらない、平和な様子で授業前のひと時を過ごしている。


 「今、乙女ちゃんは形だけの学級委員長。だけどね、大丈夫」

 

 ぐっと拳を握り、顔を近づけ、あきちゃんは言う。吐息が頬に当たる位の至近距離。あきちゃんはぎらぎらした危険な目つきと不敵な微笑みで、言った。


 「大魔王は――じゃなくて――わたしはいつでも乙女ちゃんの味方だから」

 

 がらがらっ。教室の引き戸が開く。先生が入って来た。

 一瞬戸惑ったが、クラスがしいんとなり、一斉に視線が自分に注がれたので、はっとした。何してるわたし。号令をかけなくちゃ。

 

 「きりーつ、れいっ、ちゃくせーきっ」

 がた、がたがた。立ち上がり、頭をさげ、また座るクラスメイトたち。無表情でロボットみたいだと思った。


**


 朝いちばんで訳の分からないものを見てしまったせいで、一日が終わる頃にはくたくたになっていた。

 クラス全員が忍者になって、桜子さまが中心になり、最強のクラスになるために忍者の訓練をしていた。確かに、わたしはそれを見た。

 あきちゃんは下剋上が起きたと言い、忍太郎はまずいことになったと呟いた。


 わたしは何がなんだかわからないまま、うちに帰って宿題をして、いつもの三倍くらい疲れ切ってしまい、おやつを食べる気力もなかった。

 結局、今日一日、なにごとも変わらず、全くいつもと同じ平和な日で終わった。みんな普通にテレビドラマの話題や、人のうわさ話などで盛り上がっていた。そして、相変わらずわたしは学級委員長のままだし、多分明日も、生活はなんら変わらない。

 

 台所ではラジオを聞きながら、ママがトントンと野菜を刻んでいた。

 カレーを作るみたい。玉ねぎがおなべに入り、じゃあっと油が弾けた。黙々とごはんを作るママの後姿を、ぼうっと見つめた。


 「ルルル、忍者党、ルルルー忍者党ぉ。あああ忍者ー、忍者党」

 忍者党がスポンサーのラジオ番組らしく、こまめに忍者党の歌が流れている。この間までママは、忍者党の話題がラジオで流れる度、いらいらとしたものだ。けれど今は、しいんとして、淡々と野菜を刻んでいるのだった。


 「忍者は最強の存在。忍者が本気を出せば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など歴史に名を残さなかった。本当は忍者はとっくの昔に日本を征服しており、今頃は世界を征服していたかもしれない」

 CMが終わったらしい。ラジオ番組が演説を流している。忍者党の演説か。

 忍者最強。世界征服っ。

 なんだろうこの特殊な感じは。演説の口調は独特の抑揚を持ち、聞いていると脳内が侵されていきそうだ。


 「しかし今、忍者は団結して、忍者の自由を手に入れようと立ち上がろうとしている。だがっ、我々はそんな生ぬるいものではなく、もっと別のものを望むのだっ」

 演説のトーンがはね上がった。

 

 忍者は歴史の裏の存在、縁の下の力持ちに甘んじて来た。本来、日本は忍者の力で統一され、治められてきた。今ある歴史は忍者の努力、苦労、実力を踏みにじり、手柄を横取りして打ち立てられた偽物の歴史である。

 今こそ忍者は歴史を取り戻すのだ。そのためには、思いを異にする生ぬるい忍者どもと戦わけなばらない。所詮、忍者の敵は忍者なのだ。忍者の戦いに勝ち抜いたものが、日本を征服する権利を握るのだ。


 (なんだこの番組。コントかな)

 宿題を終え、テーブルで頬杖をつきながら、ぼんやりラジオを聞いていた。

 意味が分からない、一体なんだこの演説。そのうち、相方がツッコミを入れるんじゃないかと待った。けれど、ラジオの演説は真面目そのものである。


 日本の「に」は、忍者の「に」。ルルル忍者党、ルルル、にーんじゃーとーぅー。

 

 「ママ、これって何かのギャグだよね、あはは、笑えないね、あは」

 わたしは言った。

 ママは無言で人参を切っている。とんっ、とんっ――ととととととととっ。


 あ。

 ママが切れた。

 人参じゃなくて、ママが。


 「っだああああああああああっ」


 いつになく淡々とカレー作りにいそしんでいたママが、いきなり怪鳥のような声をあげる。

 ととととと、と、包丁がまな板の上を全速力で走り、しぱぱぱぱぱ、と、人参が綺麗に刻まれて宙を踊った。

 

 「はあああああああっ」

 

 ママが気合を入れると人参共は玉ねぎが弾ける鍋の中に乱入し、じゃああああああっと、鍋は賑やかな音を立てたのだった。


 くるっとママは振り向いた。包丁を握りしめている。蒼白な顔色、血走った目。まずい。ママが本気で錯乱している。


 「ギャグよねそうよこれはギャグよギャグ以外のなにものでもないわよ馬鹿みたいほんと馬鹿みたいありえないありえないありえ」


 (パパ、早く帰ってきて)

 宿題のノートを胸に抱え、そろそろと椅子から降り、一歩一歩、台所から逃げようとしながら、わたしは祈った。

 

 「あのね乙女っ、よく聞いてっ」


 逃げようと思っていたのに、ママはひとっとびに飛んで、わたしの後ろに回り込み、ぐっと肩を掴んで顔を覗き込んできた。だらだらと汗が流れている、ママの顔。

 エマージェンシーエマージェンシー。ウーウウー。頭の中で警報が鳴り響く。

 やばい。ママがやばい。


 「忍者日本統一計画は、味方の裏切りによって暗礁に乗り上げた」

 血走ったママの目。なんでもいいから、その包丁をしまって頂戴。

 ママは興奮したらエキセントリックな行動に走る。いつものことだ。だけど普段、そのエキセントリックは主にパパに向けて発射されていた。今、ママの相手はわたしである。


 どうしようパパ。目隠しイノシシ状態のママに、わたし、対応できないっ。

 

 じゃあっ、じゃあっ。

 お鍋が音を立ててるじゃないの。お願いママ、とりあえずガスの火を止めて。

 

 「忍者党に付いた忍者どもは、もはや敵。連中も、わたしたちを倒すつもりでいるじゃないのっ。こうしてはいられないわ、明日からママ、仕事休む。休んで本職のほうに専念するっ」


 ママの本職=忍者。

 (いやいやいやいや、何それ聞いてないよママ、ねえママ)


 「忍者は家族すら欺くわ。乙女、アンタにははっきり言っていなかったけれど、ママもパパも忍者なの。ということは、アンタも忍者の素質があるってことだけどっ」

 

 (いやいやいやいや、ないないないない)


 がしっ。ママの両手に力が籠る。掴まれた肩が痛い。そして、ママの背後ではもくもくとお鍋が煙を上げてるんだけど、ねえこれ、どうするのよ、ねえママ。


 「でもねママはアンタまで束縛したくない。アンタは自分でよく考えて行動しなさい。ママ達と一緒に戦うか、それとも何も知らないふりをして、この生ぬるい偽の平和の中で小学生ライフを全うするか」

 選びなさい、乙女、アンタの道はアンタで決めるのっ。


 ルルル、忍者党。ルルル、忍者党。嬉し恥ずかしニニンガニン、みんなで一緒に、はー、ニンニン。


 ラジオが耳障りに歌っている。瞬間、ママの目が物騒な光を放った。

 しゅん、と、光るものが台所の宙を貫き、「どす」と、包丁がトマホークみたいに、ラジオに突き刺さっていたのだった。

 「がちゃん」と、ラジオは食器棚から射落とされ、それきり音を立てなくなる。


 ママは、「ふー」と大息をついた。ラジオを破壊したことで、とりあえずは気がおさまったみたい。


 「あらあらあら、お鍋がたいへんたいへん」

 いきなりいつもの呑気な調子に戻り、ママはガスコンロに向った。

 「あっらー、乙女、玉ねぎとじゃがいもと人参が焼死体よ。これじゃあカレーができないわ。今夜はありあわせのもので別のおかず作らなくちゃー」


 なんでもいいわよね、文句言わないで食べてちょうだいねー、ねー、乙女―。


**


 ふらふらと、わたしは台所を出た。宿題のノートは、まるで平穏な日常の証みたい。これ、明日提出するノートだから。いつもみたいに、クラス全員からノートを集めて先生に出さなくちゃいけないやつだから。


 何か、とんでもないことが起こりつつあるらしい。

 

 ちょっと風に当たって頭を冷やそう、と、縁側に出た。空は夕暮れで、涼しい風が流れている。

 しゅしゅっ、しゅしゅしゅっ。

 お隣の塀の中からは、いつものように、忍太郎が鍛錬に励む物音が漏れ聞こえていた。


 いつもの夕方。

 同じ夕方。

 そうだ、決まっている。明日もいつもの日々なのだ。何かが変わるなんて、ありえない。


 わたしは深呼吸した。

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