いつか、忍太郎がいなくなる日
どうやら壁新聞は全員の分の提出が無事に終わった。毎回、手の込んだ宿題が出る度にクラス全員の提出状況を調べなくてはならない学級委員長は、本当に気分が重い。
自分の分さえ済ませてしまえば良いわけではない上に、相手によっては「宿題の提出まだですか」と聞いた瞬間に被害者面をされることがあるので、面倒なのだった。
「花山田さんってぇ、いいこぶってるよねー」
「先生のお気に入りだもん。だってほら、毎年学級委員長なんかしてるじゃん」
ひそひそひそ。
女子トイレで噂話の真っ最中だったりするので、トイレに行くにも、今誰と誰が使っているのか、だいたい把握しておかなくてはならない。気まずくなっても損だからね。
宿題の提出は、個人の問題だと思う。嫌だけど何とか終わらせようという人と、嫌だからしない、何でしないといけないんだと不満しか言わない人と。悪口を言う人は、自分の問題をすり替えているのに過ぎない。
(学級委員長も六年目となると、いろいろ悟りが開けてくるってもんよ)
三時間目の休み時間。トイレに行ったら、早速悪口大会を耳にしてしまい、仕方なく教室に戻って来た。授業開始すれすれにもう一度行ってみよう。まだ粘っているようなら、職員室の近くトイレを使うしかないな。
戻って来て席につき、ふうと息をついた時、あきちゃんがじっと見ているのに気づいた。何か話があるのかな、と思っていたら、いきなりあきちゃんはすっと立ち上がり、教室から出ていった。しばらくしてあきちゃんは戻って来た。にこにこしていた。
「乙女ちゃん、トイレ使えるよー」
さりげなく囁かれた。にっこにっこ。あきちゃん、その笑顔は一体。
それにしても、さっきトイレに詰めて、悪口大会していた女子グループはまだ教室に戻っていないみたいだけど。
不穏な予感を抱きながらトイレに行ってみたら、さっきの女子グループが全員、がくがくぶるぶる青くなっていた。わたしの姿を見たら、みんなさあっと顔色を失い、中には「ひいぃ」と泣き出す子もいる。
(あー・・・・・・)
「ごっ」
一人がいきなり頭を下げた。生まれたての小鹿みたいに足をぷるぷるさせている。どんな恐怖を味わったのかと思う位、震えているじゃないの。
ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ほんっとーにごめんなさいっ。
ぶんぶん頭を下げまくられた。それの頭の振り具合は、東北土産の赤べこのようだった。
「ほんっとーにごめんなさいっ。もう不埒な事は言いませんからっ。だからっ」
だから、大魔王様には、どうかお怒りをお鎮め下さいと、お伝えくださーいいいい、いぃぃぃ、いいん、ひいいいいんっ。
あっけにとられるわたしの前から、悪口女子たちは走って逃げた。わんわん泣いているのもいる。
まあ、良い。トイレはこれでがら空きになった、授業が始まる前に済ませておこう。
それにしても、大魔王様。
六年間、あきちゃんと親友をやってきたんだけど、時々こういう不可思議なことが起きる。決まって、誰かがわたしの悪口を言ったり、意地悪を仕掛けてきたりした時だ。
「ねー、あきちゃん、なんか、大魔王様っていう人が、わたしのこと護ってくれてるみたいなんだけど、誰だろうねー」
四年生くらいの時、あきちゃんの様子を探る意味でも、ぼそっと喋ってみたことがあった。ん、と、あきちゃんはにこにこした。優しい大人しい善良ないつもの笑顔。にこにこ、にこにこ。
「うーん、それは、乙女ちゃんが可愛くてすごく良い子だから、神様が助けてくれてるんだと思うよ」
と、あきちゃんはにこにこ笑顔で言った。にこにこ、にこにこ。
う、うん、そう、そうかな。
それ以来、わたしはあきちゃんに、大魔王様について聞けなくなった。
花山田乙女には、意地悪で不敵なクラスメイトを一瞬で恐怖に陥れる、無敵の大魔王様がついている。
(そういうことにしておこう)
**
壁新聞の提出が無事終わったよ、と、由梨花お姉ちゃんに電話した。
どの壁新聞が県の大会に出されるのか、来週わかるらしい。選ばれたいのはやまやまだけど、もし駄目でも、協力してくれた本家にはお礼を言わなくちゃ。
「たぶん、いけると思うわよ」
ゆったりとした調子で、由梨花お姉ちゃんが言った。
今は夜の八時。ごはんもお風呂も終わって、寝る前のひと時を過ごしている時間。
本家の電話は廊下にあるけれど、由梨花お姉ちゃん宛ての電話は内線でお部屋まで回すことができる。だから今、きっと由梨花お姉ちゃんは、あの良い香りのする女子力の高いお部屋で、優雅に寝そべりながらお喋りしているのに違いない。
「ところで、ちょっと気になったことがあって」
わたしはためらいながら切り出した。
先日感じた、素朴な疑問。忍者が日本征服するという計画――未だにジョークとしか思えないのだけど――そもそも、それは「忍び」精神に反していることではないのか。壁新聞造りの中でいろいろ調べたけれど、やっぱり忍者は忍んでこそ忍者なのだ。中には服部半蔵みたいなのもいるけれど、基本、忍者は表に出てこないものだと思う。
どう伝えれば良いものか、もどかしく疑問を伝えてみたら、由梨花お姉ちゃんは「ふふっ、そう思うわよね」と軽く言った。優しい笑顔が浮かぶみたいだった。
「忍者は相応の厳しい修行、掟の元で命がけの仕事に携わり、日本の歴史を陰で支えて来たわ。本当に、縁の下の力持ちだったの」
由梨花お姉ちゃんは言った。
「けどね、あんまり長い事、そういうの続いたら、人間だれしも欲求不満が募るものじゃなーい」
くっそ、俺っちが身体張って敵陣に潜入して入手した情報のおかげで戦に勝てたっていうのによう。なんで喝采浴びてんのが武将どもばっかりなんだよ。
なんか、場末の酒場でやけ酒飲んでるサラリーマン忍者の愚痴が聞こえてきそうだ。
あーそりゃ、俺っち忍者だからよぅ、それが仕事だろって言われりゃ何も言えねーよ。けどよ、けど、せめて「賞状、忍者の松本クンっ、この度は戦で優秀な働きをしたので、これを表します」とか、みんなの前で言われたいじゃねえかよぅ。
一度でいいからよぅ!
みんなの前で、堂々と褒められてみてぇんだよおおおおおおっ!
「ね、分かるでしょ乙女ちゃん」
優しい声で、由梨花お姉ちゃんが言った。
「忍者だって忍んでばっかりいられないのよ」
忍んでいられなくなった時点で忍者とは言えないのではないか、という最初の疑問は、ねじ伏せられるように抑え込まれた。
歴史の中で鬱屈した思いを、今パーンと弾かせて、令和こそ忍者文化が花開く。忍者の時代がやっと来た。忍者よ踊れ、唄え、はっちゃけろ。
「職業、忍者、とか、はっきり胸張って言える時代。素敵だと思わない」
夢見るように由梨花お姉ちゃんが言う。う、うん。うん、そう、そうかな。わたしは必死で相槌を打った。もはや、由梨花お姉ちゃんから納得できる説明を得ることは無理かもしれない。
「誰が計画の言い出しっぺなの」
と、わたしが言ったら、由梨花お姉ちゃんは「誰でもないわよ。忍者たちが自然にそう考えて一致団結したの」と、誇らしげに語った。
「え、でも、もし日本征服が叶ったら、王様的な存在が統治したり、するんでしょ」
わたしが戸惑いながら言うと、「忍者に王様はいないわよー」と、由梨花お姉ちゃんは笑った。
忍者よ、自由の時が来た!
黒装束を晴天の空の下、ばさばさ脱ぎ捨てる。ものすっごいえげつない柄のTシャツとか、えっちな水着とか着て、みんなの視線独り占め。いえーい、目立ってるぅ。
(日本征服して忍者の王国って、なにがどうなってそうなるんだろう)
受話器を持ったまま、呆然とした。頭の中では、忍者たちがパリピのような格好でキラキラピカピカしながら公道を堂々と歩いている姿が浮かんでいる。人々は噂する。「ほら見て、忍者たちよ。イケてるぅ」――ああ、それが理想なんだろうな、長い間、歴史の中で鬱屈してきた忍者たちの。
(けれど、その理想にいきつくための道筋が全く見えないッ)
「ふふふ、忍者はいろいろな所に潜んでいるわ」
由梨花お姉ちゃんは謎めいたことを言う。
「会社や、ゲームセンターや、学校。それこそあらゆる場所に潜んでいると思って間違いがない。その中で、いかに忍者を人々に受け入れてもらえるか、日々画策しているのよ」
必要があれば、みんなを忍者に改造しちゃうかもしれない。
ほら、白の中に黒がぽつんとあったら目立つけれど、白をみんな黒にしちゃえば、みんな一緒になっちゃうじゃなーい。
頭がぼうっとしてきた。由梨花お姉ちゃんの言葉が、よく呑み込めなかった。
「ま、楽しみにしていてね。忍者はいつも、思いがけないことを実現するのよ」
と、由梨花お姉ちゃんは嬉しそうに言った。そろそろ電話を切る頃あいだ。
おやすみなさい。おやすみー。
その時、ちらっと由梨花お姉ちゃんが言った。
「忍者は自由自在、突然現れるけれど一瞬で消える。だから、突然側にいる忍者がいなくなることもあるのよ」
えっと聞き返した。ふふ、と、由梨花お姉ちゃんは笑った。何、この意味深な感じは。
「だから、今側にいる忍者を、大事にしてあげてね」
お姉ちゃんはそう言うと、またね、と言って電話を切った。
突然現れるけれど、一瞬で消える。
気になるワード。受話器を置いて、自分の部屋に行った。ベッドに座りながら、なんでこんなに胸が騒ぐんだろうと思った。
気になって眠れなくなってしまったじゃない。
部屋の窓を開けたら、夜の空気がふわっと入ってくる。そして、庭のほうから「しゅしゅしゅっ」「たんたたんっ」という音が聞こえて来た。
忍太郎のうちの方からだ。いつものことだ。
(今日も忍太郎、鍛錬してるのかなー)
塀の向こうで。手裏剣が飛んできたり、落とし穴があったりする仕掛けの中で。
**
あっ。
気が付いた。
忍太郎も、ある日突然現れた。だとすると、いつか、いきなり消えてしまうこともあるのか。
そういえば忍太郎のパパも、あちこち渡り歩いているお医者さんだというし。
いつか、忍太郎がいなくなる日が来るのかもしれない。そう思ったら、なんだか胸がきゅんとした。
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