赤ひげ先生と、お助け忍者

 風邪をひいてしまった。

 多分、桜子さまから伝染されたのだ。あの日以来、なんとなくだるかったから。


 「ねえ、わたしたち、仲良くしませんこと」

 あの日の桜子さまは、学校とは様子が違っていた。髪の毛をふっさりゆるく束ね、優雅な部屋着を纏い、表情もどこか妖艶で。

 ああいう表情をすると、やっぱり美人でいらっしゃるんだなと思う。艶やかな唇、潤んだ黒い瞳。思い出すとドキドキしてしまう。そのドキドキが、何となく後ろめたく感じてしまうのは何故だろう。


 桜子さまは、何て言っていたっけ。

 学級委員長のノウハウを自分ならよく心得ているから、自分の指示通りに動けという意味のことを仰ったんだろうか。そして、「六年一組を世界最強のクラスに」とか言わなかったか。

 あの濃厚な雰囲気は一体何だったんだろう。ぐいぐい迫ってくるような桜子さまから逃げたいのに体が動けなかった。甘い香りが籠っていて、ぼうっと酔っぱらってしまうような感じ。

 あの時忍太郎が飛び込んでくれなかったら、どうなっていたんだろう。


 桜子さまはもちろんもう学校に復帰しておられて、いつもとお変わりない。

 クラスの高嶺の花、桜子さま。あのオーラこそ学級委員長のオーラだと思う。

 (だから、わたしは学級委員長なんか嫌だったのよ)

 桜子さまを見ていると、落ち込んでしまいそうになる。どう考えても、桜子さまのほうが学級委員長に向いている。なんでわたしになってしまったんだろう。ああー。


 今日は特に頭の中の悶々もやもやが酷いなあ、体も辛いし、ああー憂鬱、と思っていたら、ママが「アンタどうしたの、顔が赤いじゃない」と言って、洗い物で濡れた手でわたしの額に触れた。

 しばらくの沈黙の後、ママは「学校はお休み」ときっぱり言った。え、いや、そんな、大丈夫だよ、と言うと、ごはんを食べながら新聞を読んでいたパパが、箸と新聞を置いて立ち上がり、救急箱から体温計を出してきた。

 ピピッ。39度2分。

 

 「ママ今日、会社半日休むわ。病院行くよ」

 問答無用なキツイ目つきで、ママはそう言った。


**


 忍太郎、今日は一人で学校に行ったのかな。わたしが通りかかるのを待って、遅刻したんじゃないだろうか。

 なんて、考えてしまった。病院の待合時間って、本当に精神的に悪いと思う。悪寒が押し寄せてきて体は辛いし、周囲は混んでいるし、いっそ診察を待たずに帰って寝たい。

 ママは淡々と足を組み、料理雑誌を見て時間を潰している。あちこちで、こん、こんと咳が聞こえきた。

 (風邪のたまり場だあ)

 がんがん痛い頭痛を堪えながら、わたしは目を閉じた。


 それにしても、本当に長い。周囲の患者さんたちは苛々して、「今日はことさら遅い」とか言っている。

 確かに、さっき呼ばれた患者さんがなかなか診察室から出てこない。そのうち、バタンと扉が開き、ストレッチャーに乗せられた人ががらがらと看護師さんたちに運ばれていった。

 「急患です」

 と、聞こえてくる。看護師さん達の後で、太った先生がせっせと小走りでついていった。

 みんな、呆然としてストレッチャーを見送った。がらがらわらわら騒動が去った後、一時的にしいんと沈黙が落ちた。診察室の扉は閉められたまま、びくともしない。患者さん達は顔を見合わせている。


 「さっき、先生、急患の人について行っちゃったよね」

 ぼそっとママが言った。ぴくっと周囲の人々が耳をそばだてた。ママは眉間にしわを寄せている。料理雑誌を持つ手に力が入っていた――わたし以上に待たされるのが嫌いなのだ、ママは――ああ、ママの堪忍袋の緒が切れかけている、キケンキケン。ただでさえ辛いのに、余計な厄介ごとが増える予感がする。

 こういう時は寝たふりするのに限る。ママの言葉に敢えて反応せず、わたしはぐったり目を閉じていた。


 「朝いちで並んで、もう2時間待ってんのよ、仕事休んで」

 また、ぼそっとママが言った。さっきより怒気が籠っている。ドドドドドドッ。ママの怒りのバロメーターがぎゅいいんと上がって行き、危険領域に到達した。

 ママ、どうする。このまま待つか、保険証と診察券を取り返して家に帰るか。

 (どっちでもいい、わたしは寝る・・・・・・)


 ばらばらと、周囲の患者さんが立ちあがり始める。既に受付に行き、自分の診察券を取り返そうとする人も出て来た。

 ママも、ゆっくりとカバンを膝に手繰り寄せている。ああ、ママはついに心を決めた。帰る気だ――わたしもそっと目を開こうとした時、バタンと診察室の扉が開いた。きりっとした声がフロアに響き渡る。

 

 「医者は一人ではございません。専門外とは言え、ここにも一人、医者がおりますッ」

 

 すっごい、気合の入った声だ。凛々しい看護師さんだな。わたしは薄眼を開いた。

 診察室の扉は開かれていて、そこにはすらっとした美人のナースが立っている。くっきり眉毛、整った顔立ち。あれ、この顔の作りはどこかで見たことがあるぞ。

 (まさかこの人)


 綺麗な看護師さん。ナースキャップをつけた髪の毛は、古風に結ってある。

 「先ほど、院長にも許可を戴いて参りました。これ以上患者さんに身体的肉体的苦痛を味わわせるわけにはいけませんから」

 困惑した顔で集まって来た他のナースに対し、美人ナースさんはきっぱりと言い放った。凄い迫力だ。看護師さんって、気の強い人が多いと思うけれど、みんな美人ナースさんの迫力に負けているみたい。

 

 診察室の中がちらっと見えた。そこにいる医者の先生の姿を見て、ああ、やっぱりそうだ、と確信した。

 白衣のお医者さん。やせぎすで背が高くて、きりっとしていて男前なんだけど、ちょんまげ頭なのだった。それがまた、あまりにも似合っているので、ちょんまげであることすら気づかないほど、自然だった。ちょんまげ先生に寄り添うようにして、さっきの美人ナースが立ち、あれこれカルテを調べている。よく見ると、美人ナースさんは白衣に襷を縛っていた。


 診察室の中が時代劇だ。


 先生は背筋を伸ばし、パソコンを見て、今日の患者さんを確認している。微動だにせず、パソコンの画面を見ていると思ったら、キーボードをたたく指が凄まじい速さだった。

 かたかたかた、かたかたかたっ。患者さんの情報を一人残らず頭に叩き込もうとしておられる。

 凄い、凄い気合だった。

 そして、こんな先生とナース、忍太郎のパパとママに決まっている。他に考えようがない。


 「甲賀さんだわー」

 ママがワンテンポ遅れて呟いた。ぼけっとしている。さっきまでの苛々は吹っ飛んだようだ。

 (やっぱり)

 わたしはもう、狸寝入りすることも忘れて、コクコクと頷いてしまった。間違いない、忍太郎のパパとママだ。なんて似たもの夫婦なの。そして、なんて忍太郎そっくりなの。


 帰ろうとしていた患者さん達は、困惑しながらもまた待合室の席に戻った。あの先生、外科の先生じゃなかったか、という囁きも聞こえてきたが、もう誰もが待ちくたびれており、診察さえしてもらえるならもう、外科だろうか産婦人科だろうか文句はなさそうだった。


 実際、それからの流れは速かった。

 それまで滞っていたのは何だったのかと思う程、次々と患者が診察室に呼ばれてゆく。次、はい次。ちゃんちゃかちゃんちゃか。たったかたったか。凄まじいスピードで、待合室にぎゅうぎゅうに座っていた患者さん達が減って行き、やがてわたしの名前が呼ばれたのだった。


 「適当なやっつけ診断してるんじゃないでしょうね」

 ぼそっと、ママが不謹慎なことを言った。聞こえないふりをした。もうすぐお昼の時間になるし、正直、もう待つのはうんざりだった。

 熱はますます上がっているみたいだし、ふらふらだ。ママに支えられながら診察室に入ると、侍みたいな先生と、武家娘みたいなナースが凛とした顔で待っていた。

 

 「花山田乙女さん。うちの隣のお嬢さんですね」

 にっこりと笑った。きらりん白い歯。なんて爽やかなちょんまげなんだろう。正義のために刀を振るいそうな先生だった。


 「半年ぶりに熱を出されたんですか。前回はインフルエンザだったみたいですが、今回はどうでしょうね」

 凄い。甲賀先生、ちゃんとわたしの情報が頭に入っている。この短時間にどうやって記憶したんだろう。

 

 側で控えている奥さんナースが「はい、口を開いてね」と、わたしの頭を両手で支えた。さりげなく「いつも忍太郎がお世話になっています」と言った。ドキドキしてしまったじゃないの、全く。


 喉を見たり、胸の音を聞いたりして、先生は「今はやりの風邪ですね、お薬出しておきます」と、きびきびと言った。

 「お大事に」

 と、忍太郎のママが言った。

 ポカーン、と、わたしとママは診察室を出た。ものの三分かかっていない。正確かつ超特急な診察。それでいて、丁寧にしてもらった感がある。凄すぎる。


 受付のところで待っていると、さっき先生に診察してもらったらしい患者さん達が、ひそひそ話をしているのが聞こえて来た。

 「甲賀先生、赤ひげ先生って呼ばれてるんだよねえ」

 「この町の病院に来て下さるなんて。だけど基本、流れ者の医者だから、またすぐ別のところに移ってしまうんだろうけれど」

 

 ええ、いつまでも町にいてほしいなあ。

 いっそのこと、甲賀先生が独立して診療所を持てばいいと思うけどなあ。


 噂をしていた人たちは、名前を呼ばれて処方箋を受け取って、病院を出ていった。

 「赤ひげだって」

 わたしが呟くと、ママが「時代劇だわね」と言った。うん、確かに。


 「花山田乙女さーん」

 名前が呼ばれた。ただ今の時刻、お昼の5分前。

 そろそろママが焦りだしていた。これ以上ぐずぐずしていると、半日有給じゃ済まなくなるんだろう。


 「いいよ、ママ。あとは薬を貰って帰るだけだし。タクシー使っていいなら、わたし一人で大丈夫だよ」

 と、わたしは言った。

 調剤薬局で待つ時間は決して短くはない。ママはもう、仕事に行った方がいい。


 ママは少し考えてから、「じゃあお願い」と言った。

 受付で処方箋を受け取ってからママのところに戻ると、お財布からお金を出してわたしにくれた。タクシー代だった。


 「いい、帰ったらすぐ寝るのよ」

 と、念を押すようにママは言った。わかったよ大丈夫、とわたしは言い、こんこんと咳が出た。ママは眉をひそめた。


 「うちに無事着いたらラインしなさい。心配だから」

 と、ママは言った。大丈夫よ、もう六年生だし、ちゃんと一人で帰れるってば。

 調剤薬局は病院の向いだ。玄関を一緒に出て、そこでママと別れた。


 「行ってらっしゃーい、ごほごほげほげほ」

 と、私は言い、

 「早く治しなさい」

 と、ママは振り向いてから、小走りで駐車場に向った。


 空は淡く晴れている。きっと気温も適度に温かいのだろうけれど、さっきから悪寒が酷いのよ。

 早く薬を貰ってかえらなきゃ。


**


 薬を受け取り、タクシーを呼んでもらって家までたどり着き、ママにラインを送った。

 それが限界だったようで、わたしはバタッと居間で倒れてしまったのだった。辛い。もう一歩も動けない。体が辛すぎる。


 最初の待ち時間があまりにも長すぎたのだ。おまけに、あんなに籠った空気の中で、あちこちで咳が聞こえていたし、風邪が悪化したのに違いない。

 ぞくぞくした寒気がきたけれど、眠たくてもう目を開いていられない。これじゃあだめだ、はやく二階にあがってお布団に入らなきゃ、と思うが、できなかった。


 遠のいてゆく意識の中で「ニンニンッ」という声が聞こえた気がしたが、まさか忍太郎がこんな時にまで来てくれるわけがない。だいいち、今は授業中の時間だ。いや、給食の時間が終わり、昼休みに入ったところかもしれないけれど。


 ごりっ。ごりごりごりっ。

 なんか、何かをすり鉢ですりおろしているような音が聞こえるんだけど、熱のせいだろう。変な妄想が働くものだから、高熱の時は。

 ねりねり、ねりねり。今度はなにかを練りまわすような音がした。一体これ、何の妄想だろう。


 すっと頭の下に手が差し込まれ、体を抱き起こされた。耳元で、「万能薬でござる」と囁かれた。なによ、万能薬って、ちゃんとお医者さんの薬をもらってきてるのよ。

 しかし、有無を言わさぬ強引さで唇に匙が突っ込まれ、ものすごく臭くて苦いごろごろざらざらしたものが舌の上に転がり込んできた。おえっと吐きかけたら、馬鹿力で口と鼻をふさがれた。


 ゴックン。

 その得体の知れない気色悪いものを、飲み込んでしまった。

 わたしは反射的に目を覚まし、自分が部屋のベッドに寝かされているのを知った。

 部屋は薬臭かった。けれど、ごりごり何かをすりつぶしていたすり鉢はどこにも見当たらなかったし、部屋の中には誰もいなかったのだ。


 いや、わたし確かに居間で倒れちゃったよね。ママにラインして力尽きて。

 その後、どうやってここまで来たんだろう。それに、今、万能薬とかいうモノを飲み込んだみたいだけど。


 ぐるぐる何度も見回したけれど、部屋は無人だった。

 

 まだ頭が痛い。体も熱っぽかった。

 枕にはタオルが巻かれたアイスノンがあり、それでクーリングされていたらしい。後頭部がひんやりしている。

 すうっと風が部屋に流れたのではっとした。窓が、開いていた。


 まさか、忍太郎。

 (そんなことあるわけない)

 

 甲賀忍者は人の目を欺くために、売薬さんの仕事をしていたと、あきちゃんの本には書いてあったけれど。

 

 開いた窓から流れ込む風のせいで、部屋にこもった薬のにおいはどんどん薄れた。

 ひらっと机の上で紙が踊るのが見えたので、ふらふらしながらそれを取り上げてみると「宿題のプリントは夕方届けるでござる」と流麗で力強い達筆で、しかも筆ペンでしたためられていた。

 

 忍太郎のくっきり眉毛、一文字の口を思い出す。

 すると、やっぱりあいつが来たんだ。助けてくれたんだ。


 パジャマに着替えてベッドにもぐりこみながら、忍太郎が無事に午後の授業を受けられますように、と、祈った。

 それにしても、いつでもわたしのことを見ているのだろうか。


 忍太郎。

 (姫だなんて、わたしはただのつまんない子だよ)

 

 目を閉じたら、ずぶずぶと眠りの中に沈んでいきそうだ。

 口の中が、薬で苦かった。

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