桜子さま、ご健在でいらっしゃる

 梅雨に入った。

 このところ、涼しい日と暑い日の差が激しすぎて、学校に通っているだけでも疲れるほどだ。晴れた日は、ああもう梅雨は明けたのかな、夏かな、と思うけれど、ところがどっこい、翌日にはまたじめっとした天気になる。

 じれじれした季節だ。ガードレール沿いの川の水量は増え、ざあざあと派手な音を立てている。葉桜たちはいきいきとして、葉っぱはぬらぬら光沢を持っている。お庭には雑草が伸びてきているし、生き物たちにとっては最高の時期なんだろう――人間も生き物のはずなのに、おかしいなあ。


 学校に行く前、台所ではラジオが流れていて、ママが洗い物をしながらパパに話しかけている。パパは新聞を広げ、パンを食べつつ、うんうん、そうか、で聞き流している。そろそろいつものアレが始まる頃なので、とばっちりを受ける前に歯を磨きにいかなくては。


 毎日のように、黒装束の話題がニュースで流れている。このごろは、それを物騒な不審者というよりも、面白話としてトピックスに取り上げることが多いみたい。こないだなんか、夕方の番組で、「こないだ通りすがりの黒装束さんと写メとっちゃった」とかいう女子高生の投稿があり、きらきらハートでデコられた写メが全国で流されていた。

 もはや、テーマパークの着ぐるみさんと同じ扱いだ。「話してみると気さくな方でした」なんていう話題もあり、全国で出没している黒装束さんは、案外普通の人なのかもしれなかった。

 今日もラジオは黒装束さんの話題を出し、「何だか、ほほえましいですねー」と、纏められていた。道をよこぎるカルガモの親子には優しくしよう。お年寄りには席を譲ろう。街角の黒装束さんには挨拶しよう。

 

 (おかしいと思っている人は、きっとわたし以外にもいるに違いない。きっと、絶対、必ず、うん)


 ラジオは別のニュースを取り上げる。このところの気候が不安定なせいか、この時期には珍しく、高い熱が出る風邪が幼児や児童の間で流行っているとか。

 「あんたのクラスにも休んでる子いるんじゃなーい」

 タオルを持って台所を出ようとしていたわたしに、いきなりママが話題を振った。

 休んでいる子。あー、いる。いたわー。


 「いるよー」

 宮里桜子さま。熱血副学級委員長。休んだことがないはずの桜子さまが、珍しく高熱でお休みしている。

 今日は金曜日だから、もしまだお休みだったら、一週間分のプリントをおうちまで届けにいかなくちゃ。側近の凸子と凹子まで休んでいるので、必然的にお届け役は学級委員になってしまう。

 (あー・・・・・・)

 

 歯磨きをしながら、憂鬱になった。

 桜子さまのおうちに行かなくちゃいけないのか。まあいいけれど、玄関先でプリントをさっと渡して、さっと帰ってしまえばいい。

 わたしが憂鬱な理由は、苦手な桜子さまのうちに行かねばならないということ自体ではなくて、おうちにお邪魔する際にも、きっと斜め後ろに付き従っている「奴」だった。


 (忍太郎もついてくるんだろうなあ)

 来るなといったって、絶対についてくる。一度など、「もうやめて欲しい。人の目があるから」と言ったことがあった。そしたら忍太郎は「承知いたしたでござる。人目につかぬよう努めるでござる」と斜め上の返事をした。確かに一見、忍太郎の姿は見えなくなったが、足元から伸びる影が妙に生温かったり、よりかかった壁が鼻息を荒くしていたりして、すぐそこにいるんだということが、嫌でも分かった。

 (姿を消している時の方が、絶対にパーソナルスペースを侵略されている気がする)

 ので、それ以来わたしは、「やっぱり普通にしていてほしい」と前言撤回した。同じ気色悪いのなら、ちゃんと目に見えている方が、まだましだった。


 今日は桜子さま、来ているといいなあ。

 まあ、登校していたとしても、相変わらず学級委員長の座を奪われたことを根に持って、ねちっとした目でこっちを見るんだろうけれどさ。


 歯磨きして顔を洗った。そろそろ行こう。

 ランドセルを背負い、お勝手から外に出て「行ってきまーす」と告げた。背後ではママが「近頃は、連中たち、ちょっと勘違いし始めている輩も出て来てるみたいねえ。気軽に姿を現したりしてちゃ、忍びの名が廃るわよねえ。まさか寝返ったりする奴ら、いないでしょうねえ。ねええ。ねえエェエェエッ、アンタッ、ちゃんと話を聞いてええええええエエッ」と雄たけびをあげ、手に持っていたものを投げた。くるくるしゅるしゅる回りながら、濡れたオタマがパパに激突しかけたが、新聞から目を離さないまま、パパは片手でオタマを掴んだのだった。

 ウォーミングアップみたいなものだ、多分。


**


 悪い予感は当たるものだ。

 桜子さまはお休み。凸子と凹子は辛うじて出席していたが、ゲホゲホゴホゴホ咳をして、具合が悪くて早退してしまった。

 担任の先生がわたしを呼び「学級委員長、宮里さんにプリントを届けてください」と言って、クリアファイルにまとめた紙の束をくれた。


 あきちゃんが心配そうに「大丈夫、乙女ちゃん。わたしついていってあげようか」と言ってきたけれど、届け物くらい一人でできる。「大丈夫だよ、ありがと」と答えておいた。

 あきちゃんは、そう、それなら、と何故か残念そうに引き下がりながら、ちらっと鋭い視線をわたしの背後に投げた。忍太郎と視線でバトルしている。怖い。


 「甲賀君も行くの」

 あきちゃんは表面はにこにこ、だけど両こぶしがわなわな震えている。

 背後では忍太郎が、打てば返す勢いで「無論――」と言いかけたが、わたしはばしっとそれを否定した。


 「いいや。忍太郎は桜子さんのおうちの外で待っていて。中に入るのはわたしだけでいい」


 そうでござるか、と、忍太郎はぼそっと言った。ござるかじゃないよ、ただでさえ、忍太郎にくっ付かれて、学級委員長の品位云々と桜子さまから陰口を叩かれているんだ。おうちの中にまで入ってこられてはたまらない。


 「そうよねえ、男子が女子にくっついているなんて変だもの」

 チクッとあきちゃんが言った。腕組みをして、横目になって、忍太郎を睨んでいる。

 「女子にくっついているのは女子でいいのー。男子は男子同士でいればいいじゃなーい」


 ぐう。

 忍太郎は変な音を立てた。あきちゃんに反論しないまま、黙りこくっている。

 忍太郎は身体能力は人間離れしているけれど、口げんかの類はまるでダメなのではないか。ぼそっと「おなごは面倒也」と聞こえたような気がした。幸い、あきちゃんには聞こえなかったようだ。


**


 良く晴れている日だこと。

 

 桜子さまのうちは古くからある団地の一角にある。たぶん、その地域では一等地にあたるのではないか。でーん、と、広い敷地をお洒落な壁が囲んでおり、アーチ形の門をくぐると、よく手入れされた芝生のお庭が広がっていた。鮮やかな花壇。本当に素敵なお庭だ。そして、おうちもとても素敵だった。

 三階建ての洋館。

 ドラマにでも出てきそうなお宅だ。家政婦さんもいるんじゃないだろうか、こんな大きなおうち。

 いざ玄関まで来たけれど、チャイムを鳴らすのがためらわれた。どきどきしていると、背後で忍太郎が「押さないのでござるか」と聞いて来た。


 「外で待っててよー」

 わたしは忍太郎を振り向いて言った。ほんのちょっとの間で済むはずだ、プリントを渡すくらい。

 忍太郎は生真面目な侍面で「御意に」と答えた。

 (普通に喋らんのか)


 息を整えてから、ピンポン、と押した。

 ぱたぱたとスリッパの音が近づき、インターホンから「はあい、どなたさま」と、明るい声が聞こえた。桜子さんと同じクラスの花山田です、プリントを届けに来ました、と言ったら、がちゃっと扉は開いた。

 まるまると太った割烹着のおばさんが満面の笑顔で迎えてくれた。これは桜子さまのママではない、きっと家政婦さんだ。


 「お嬢様は今、やっと起きられるようになられまして。どうぞ中へ。お嬢様も長い間休んで寂しいと思いますから、少しだけでもお話していってくださいませ」


 え、いや、プリントを渡すだけでいいんだけど。

 戸惑いながら、わたしはその素敵なおうちに上がった。さあさあと案内されたのは、シャンデリアがかかった瀟洒な客間だった。ふかふかのソファに座らされ、わたしは途方に暮れてしまった。

 ランドセルを足元に置き、プリントを手に持って。

 間もなく家政婦のおばさんが、「さあさあどうぞ」と、ジュースとケーキを持って来てくれて、ガラスのテーブルに置いた。いやいや、本当にプリント持ってきただけなんだけど。とても手を付けられるもんじゃなかった。


 (桜子さん、元気なのかなあ)

 

 しいんとした客間。

 暇つぶしにお部屋の中をぐるっと見た。素敵な調度品は、外国映画に出てきそうなものばかり。重厚な飾り棚には高そうなお酒やグラスが並んでいる。

 桜子さま、生粋のお嬢様なんだ。

 確かに、前髪ぱっつんでも、三つ編み姿でも、桜子さまにはどこか気品がある。同じスタイルをわたしがしたら、田舎くさいブス子になってしまうけれど、桜子さまの三つ編みは、なんだかドラマチックなのよ。黙って目を伏せていらしゃったら、背後で大輪の薔薇の花がひらっと散るみたい。


 いろいろ眺めていた、ただただ溜息が出た。けれど、視線がちょっと上に流れ、それを見つけてしまった瞬間、わたしは開いた口が塞がらなくなった。

 (うわー)


 名のある書家の筆だろうか。墨が爽やかにはじけ飛んでいる。溌剌とした筆跡で、でかでかとしたためられていたのは。

 「生涯、学級委員長」

 

 家訓か。これ、家訓なのか。

 あんぐりした口を落ち着かせたくて、ジュースを一口飲んだ。

 よく見たら、壁には額縁がかけられていて、そこには歴代の宮里家の学級委員長歴が記されている。江戸時代では、寺子屋の学級委員長を務めていたという宮里権左衛門。明治時代では女大学の学級委員長だったという宮里緑子。

 なんだ、なんだ、なんだ。

 くらっとした。


 「ようこそ、花山田さん」

 ぱたんと扉が開き、フリルの素敵な部屋着姿で桜子さまが現れた。いつもの三つ編みではなく、軽くひとつで束ねたスタイルだ。

 ちょっとやつれていたが、桜子さまは元気そうだった。わたしの前に座ると、「ありがとう」と、プリントを受け取った。ぱらぱら中身を確認してからテーブルに置き、にっこりと麗しく笑った。怖い。


 「クラスは変わりはなくて」

 と聞かれたので、「はい、何人か熱で休んだ人はいますが、今日は全員いました。あ、凸子さんと凹子さんは早退されましたが」と、答えた。

 くすっと桜子さまは笑った。


 「花山田さん、学級委員長はあなたですのよ。わたしなどに敬語を使うことはありませんわ」


 ふわっと緊張した。桜子さまは、好戦的な光る眼で、前のめりになり、わたしをじいっと見つめている。赤い唇が微笑んでいる。


 「一度、こうやって二人きりでお話したかったのです。花山田さん、驚かれまして」

 部屋の額縁を振り返り、桜子さまは言った。

 歴代、宮里家の学級委員長たち――江戸時代の学級委員長って一体なんなんだ――わたしはしどろもどろになった。視線が泳いだ。


 「宮里家は、学級委員長を輩出してきた一族なのです。生涯学級委員長、これが我が家の家訓なのですわ」

 ううう、そうですかそうですか。わかりました、ところでそろそろわたし、おいとましても良いですか。喉まで言葉が出かかったが、桜子さまの威圧的な空気がそうさせなかった。

 

 「わたしも、小学校に入ってから順調に学級委員長歴を繋いでまいりました。ところが、六年になって、副委員長の座に甘んじることになりました」

 微笑んでいらっしゃる。だけどそれは、本心からの微笑みでしょうか、桜子さま。


 「花山田さん、あなたが初めてですわ、わたしに敗北の苦さを味わわせることができた人は」


 すっと、桜子さまは立ち上がり、フリルのドレスを揺らしながらわたしの隣に腰掛ける。良い香りが漂う。すごい近くに桜子さまがいる。どうしよう怖い。ばくばく心臓が音を立てている。

 

 「ねえ、わたしたち、仲良くしませんこと。わたしなら学級委員長のノウハウも心得ていますし、ここは二人協力し合い、六年一組を世界最強のクラスに・・・・・・」


 いや、わけがわかりませんよ桜子さま。世界最強とか意味がわかりませんよ桜子さま。っていうか、っていうか。

 (なんか、気のせいか、わたしの周囲の人って、変な人が多くない)


 いやきっと気のせい。こんなことよくあることだ。普通普通。ノーマル。

 両肩をがしっと掴まれ、桜子さまのぎらぎらした目に見つめられ、わたしはあわあわとした。どうしよう、逃げたい、逃げられない。

 

 意味が分からない、この状況の。助けて、誰か助けて。

 助けて、忍太郎。


 心で叫んだつもりだったけれど、どうしてそれが伝わったのか。

 否、どうしてオマエ、そこにいたのか。


 桜子さまが、妖艶な目つきで「ね、わたしの言うとおりになさったら、クラス運営はうまく行きますわよ」と言い、優雅な指でわたしの顎をくいっと上向けた瞬間。

 

 ぱたん、と、天井板が一枚開き、そこから飛び出た忍太郎。

 「ニンッ」

 あわや桜子さまに押し倒される寸前だったわたしは、気が付いたら忍太郎におんぶされていた。忍太郎は片手で背中にせおったわたしを支え、片手でわたしのランドセルを持ち、ケーキがおかれているガラステーブルに膝をついて身をかがめている。

 (踏むなよ)

 と、わたしは忍太郎の足下のケーキを心配した。一方桜子さまは、いきなり現れた不法侵入者に目を吊り上げている。立ち上がるとこちらに指をつきつけ、「なにしてんのよこのクソッタレ」と、とっても御下品にお叫びになった。


 「姫はお疲れのご様子なので、これにてお暇いたす」

 さらば。


 一応礼儀正しく頭を下げて、忍太郎はしゅたっとガラスのテーブルから跳躍した。

 わあ、ぎゃあ。蜘蛛の巣が顔に貼りつく。天井板の上は埃だらけの蜘蛛の巣まみれ。ぎゅっと忍太郎の背中にしがみつくと、「にひ」と、変な笑い方が返ってきた。

 何だ今のすけべな笑い方は。こいつが笑ったのか。


 一方、天井板の下ではガラスのテーブルはひっくり返りこそしなかったが、乗っていたケーキは派手に跳ね飛んだらしい。

 気になってちらっと見たら、顔面クリームまみれになって「きいー、おぼえていやがれー」と地団太を踏む桜子さまの姿があった。


**


 「拙者、行き過ぎたことをしたでござるか」

 蜘蛛の巣だらけのところをはいずりながら、忍太郎が言った。

 少し考えてからわたしは小さく、「いや。ありがとう」と答えた。


 「にひ」

 あ、また。


 実は忍太郎、ムッツリなのかもしれなかった。

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