第4話 空

 鐘の音がこの暗い部屋にまで響いてくる。町の人間たちに日没を知らせ、その日一日の仕事の終わりを告げる音。その音を聞いてようやく僕は一息つけた。

 汲み取り部屋の外に出る。茜色の日が西の城壁越しに沈みゆき、代わって銀色の月が東の空から昇り始めた。初冬の風は肌寒いけれど、糞尿の匂いから解放されたことに比べれば些細なことだ。

僕は糞尿から身を守るローブを脱いで、外の空気を全身で感じる。

産業革命の大気汚染も車の排気ガスもないこの世界では、元の世界とは比べ物にならないくらいに空気が美味しい。糞尿が放置されていると町に乾燥した糞の粉が飛び散って肺疾患の原因になるらしいし、これも衛生政策のお陰だろう。

斜面に建てられている汲み取り部屋の外に出ると、下の方には城壁に囲まれた城の敷地があり、草のまばらに生えた地面に石造りの建物がいくつも建てられている。

上の方は王族や国の重鎮が住む場所で、バルコニーがせり出した造りの良いフロアが見えた。壁も窓も他の場所より手入れが良い。

このフロイデンベルク城は高い丘の上に建てられたため城そのものも高低差が大きく、眼下には町や郊外の畑が一望できる。一度城の外から見たとき、濃い霧に町と畑が覆われていたのに高い位置にある城だけは晴れており、まるで雲に浮かぶ城のように見えた。

謁見の間や王族が住む部屋が城の上の方、食事を準備したり、城を守るため騎士たちが常駐・訓練を行なったりする空間はその下で、城のトイレから糞尿が集まってくる汲み取り小屋は一番下のエリアだ。

取り敢えず飛び散った糞尿で元の色がわからないくらいに汚れたローブを井戸水で洗う。水組み係の奴隷があらかじめ汲んでおいてくれる洗濯用の水につけてごしごしと洗い、洗濯用の部屋に行って室内に張られたロープに吊るしておく。明日の朝になると洗濯係の奴隷が干してくれるだろう。

流石に水で洗うと匂いがきついのか、臭いを中和するハーブが洗濯水に混ざっているので異臭が部屋に立ちこめることはない。糞尿が付着した身体は同じ洗濯水で絞ったタオルで拭き、ローブと同じように干した。

 清潔な服にやっと着替えた僕は再び外に出た。



糞尿小屋から出ると、僕を様々な視線が捉える。騎士、奴隷、文官、老若男女の差はあれど、みな一様に僕を嘲っていた。

 この世界の衛生観念を劇的に改善したとはいうものの糞尿を処理する仕事はやはり忌避され、それに従事する奴隷は他の奴隷からも蔑まれる傾向にある。

僕はそれに加えて。

「あれが勇者様だと」

「クソの処理する勇者なんて初めて見た」

「さしずめ、肥溜め勇者ってとこか」

 そんな嘲笑に僕は拳を握りしめ、ひたすら耐える。いじめられっこが何を言っても聞いてもらえないのと同じで、「こいつ何言ってもいい」と一度認定されればもう何を言い返しても笑われるだけだ。

「あいつ拳握り締めてるぜ」

「震えてる、ぷっ、聞こえてんじゃん」

 にもかかわらずこちらの仕草の一つ一つまであげつらってくる、人間はここまで残酷になれるのか。

 僕と同じように汲み取り部屋で働く奴隷たちまでが一緒になって僕のことを嘲っていた。

 立場は僕と同じはずなのに。

 汲み取り小屋の新しい奴隷として紹介された時、すでに僕が資質のない勇者だと知れ渡っていたらしく僕を見る目がすでにゴミを見る目だった。

 普段は彼らも他の奴隷や騎士から見下されている存在だから、僕をスケープゴートにしてうっぷんを晴らしている感じだ。ストレスのたまりやすい環境では、人は弱い存在や物に当たり散らすという話を思い出した。

 ふと、この場にはふさわしくない足音が近づいてくる。安くて頑丈な革の靴ではなく、貴族が履く見た目重視の靴の音。

 彼らは一斉に仕事の手を休め、足音のした方を向いて頭を下げた。

 そこには白を基調とし、精緻な刺繍が施されたドレスに身を包んだ王女様がたたずんでいた。初めのころは大勢の護衛の騎士を連れて僕の様子を見に来ていたが、近頃は僕を恐れる価値なしと判断したのか、城内だから安全と思っているのかほかの場所と同じように最低限の護衛だけだ。

 二十一世紀の皇族・王族のように、一般人の働きぶりや孤児院や病院などの施設を見に行くことが職務の一つのようで、奴隷の様子を見に行くこともこの一環らしい。

 さすがに人一人を呼びだして最底辺に堕としたことに罪悪感はあるのか、時々こうやって申し訳なさそうな顔をして僕の様子を見に来る。

「皆さま、今日もお仕事お疲れ様です」

「姫様!」

この城の王女、ミヒャエラ・フォン・フロイデンベルクはあっという間に多くの奴隷に囲まれて、笑顔を向けられる。

彼女は奴隷に対しても人道的に接するためか城内・町の人間からは慕われていた。

 とはいってもこの世界の奴隷は鎖で首をつながれて仕事をミスすれば鞭で打たれるというようなものではなく、普通に仕事をして普通に暮らしているように見える。

 金で売り買いされるところが普通の労働者と違うだけで、イメージとしては「風と共に去りぬ」に出てくるマミーとかポークのような感じか。

 でも僕がこの城の中で最下層に位置することには変わりない。

そもそも僕はミヒャエラが嫌いだ。

 僕をこの世界に召喚したのが彼女ということもあるけれど何より、全ての人に分け隔てなく、常に笑顔で接するという態度が嘘臭い。

 僕のねじくれた性格がこの世界に来て一層ひどくなったせいもあるかもしれないけど、その態度の裏に何か隠されているような気がしてならない。

「トール様も、お疲れ様です……」 

ただ一人彼女を囲む輪の中に加わらなかった僕に対し、ミヒャエラが遠慮がちに声をかける。僕は言葉を交わさず、頭だけを下げた。一度は無視したけど他の奴隷たちからえらく責められたので、それ以降頭だけは下げるようにしている。

 そのまま立ち去って汲み取り部屋の陰に向かう。

 日が暮れてくるとここは日に当たらずに寒くなるから、他の奴隷たちは誰も近づかない。今はとにかく、一人になりたかった。

 建物の壁にもたれかかると冷気が伝わって寒いから、疲れた体で立ちつくす。空を見上げると日がまだ落ち切っていないのに雲の隙間から星がいくつも見えて、宝石を夜空に散らしたようだった。

 この世界で唯一美しいと思えるのが、空や雲だった。スマホもパソコンもないから、アニメもゲームもできない。見たいものが何もないから空を眺めるくらいしか無聊を慰める方法がなかった。

 

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