第五話「真夜中の声」

「もしもし、私、メリーさん。今、あなたのよく行くラーメン屋の前」


「おい! あんたシュウトじゃないだろ? いい加減シュウトに代わってくれ……チッ。また切れやがった」


 青年は電話を睨みつけ、諦めたようにまた歩き始める。

 先程から後輩とは別の声でかかってくるメリーさんの電話。それもどうやら同一人物。

 彼は仕方なく、その声が誘導する場所を根気よく追いかけていた。

 それが後輩に、あの雨の昼下がりの不思議な時間に、再びつながる唯一の手段だと考えていたから。


「それにしても……メリーさんの話って、エンディングはどうなるんだっけ?」


 青年は携帯電話を眺め、電池の残量を確認してから再びポケットへと携帯電話をしまう。

 いくら都市伝説とはいえ、受ける携帯電話側の電池が切れていたら、届かないんじゃないだろうか……そう考えたから。

 それに青年が今いる場所から、ラーメン屋までは自転車全力で10分は要する距離。

 彼は深夜の住宅街で、ペダルを踏む足に力を入れた。




 キィィィィ。

 

 彼が急ブレーキをかけたのは、ラーメン屋までだいぶ近づいた商店街の外れ付近。

 小さな女の子が飛び出してきたから。

 小学校に入るか入らないかくらいの小さな女の子……しかも深夜に。青年は慌てて自転車を降り、女の子へと近づ……こうとして、足を留めた。


「もしかして……君、メリーさん?」


 青年のその言葉に、女の子は目を輝かせて近づいてくる。

 女の子が、青年のすぐ目の前まで着たのと同時だった。 

 深夜過ぎの商店街に、着信音が鳴り響いた。

 青年の携帯電話だった。


 青年は慌てて画面表示を確認する。

 発信元の表示のない……それまでかかってきたメリーさんと同じだった。

 青年は携帯電話を静かに耳にあてた。


「もしもし、私、メリーさん」


 またしても、青年の期待する声ではなかった。

 しかし、その声を喜ぶ者が居た。あの女の子だった。


「ママメリーさん?」


「え? ママ?」


「ママメリーさん! すたあだよ! ずっとさがしてたんだよ!」


 青年は困惑していたし、混乱もしていた。

 彼が数日前に体験した出来事と、今直面している現実離れした現実とに。


「ママメリーさん! すたあ、ずっとママをさがしてたの!」


 女の子はいつの間にか青年のジャージの裾をしっかりとつかんでいた。

 サッカーの試合で服をつかまれることも、それを振りほどいたことも、何度も経験してきた青年ではあったが、この小さな手は、どうにも振りほどけないでいた。


「もしもし、私、メリーさん。今、あなたの……」


 青年の携帯電話から再び声がする。


「ママの声!」


 女の子が叫んだその声で、青年はどこに居るのかを聞き損なった。


「おにいさん、おねがいです! すたあにかわって!」


 青年は自分よりもはるかに小さな女の子に、気圧されていた。

 ただ、彼が女の子に携帯電話を貸してあげようと決心したのは、決して女の子の勢いに負けたからではなかった。自分の、後輩の声を聞きたかった想いを、女の子の想いと重ねていた。そして、後輩がわざわざ自分にかけてきてくれた、その時の想いを、この女の子の今は既に亡くなっているはずの母親に重ねたから。


「おい、メリーさん? まだつながってるか?」


 青年は、携帯電話の向こう側に初めて「メリーさんの声」以外の音を聞いた。

 それは、車が行きかう音のように聞こえていた。


「もしもし、私、メリーさ」


「おい! シュウトじゃないメリーさん! 多分あんたの娘さんに代わるから。それが終わったらあんたもシュウトに代わってくれ」


 青年は一方的に早口でまくし立て、メリーさんの返事も聞かずに携帯電話を女の子に渡した。

 女の子は嬉々として両手でそれを受け取り、耳にあてる。


「もしもし! すたあです!」


 女の子は携帯電話電話に向かって必死に呼びかけている。


「ママ? あのばしょにいるの? ママ?」


 女の子は何度も頷いて……急に、走りだした。

 青年は慌てて追いかける。


「ちょ、ちょっと待って。それ、お兄ちゃんの携帯電話電話だよ」


 女の子は走るのを止めないまま、半泣きで答える。


「でんわのむこうはすたあのママだもん!」


 青年は女の子の携帯電話へ伸ばした手を、ためらいながら宙空で閉じる。

 息をふぅと吐き出したあと、優しい、ゆっくりとした声で、女の子へ語りかけた。


「今、お兄ちゃんも大事な電話がかかってくるのを待っているんだ。お願いだから返してちょうだい」


 しかし女の子は頬を大きくふくらませて首を横に振る。


「すたあのでんわにはママかけてくれないんだもん!」


 そう言って女の子が差し出した携帯電話は……携帯電話ショップで展示用に使われる中身のないもの。


「じゃあさ……おうちの電話番号、わかる?」


 青年が別の解決策を模索しかけたその時、また着信音が鳴った。


「はい、すたあです!」


「……すたあなの? わたしのかわいい娘……ママのところに来てくれるの?」


「うん、いくよ!」


 女の子の勢いがいい返事だけではなく、先程までメリーさんと名乗っていた声が喋った内容も、青年にははっきりと聞こえた。

 そしてその内容に背筋を震わせる。


「ちょ、ちょっとまって……えーと、すたーちゃん? ママのところってママは……」


 そこで言い淀む。

 その先を小さな子どもに対して問いかけられずに居る青年を尻目に、女の子は歩き出してしまう。


「わかってる!」


「うん!」


「わかった!」


 女の子は何の迷いもなく走り出す。


「とにかく止めなきゃ、だなよ!」


 青年は慌てて自転車のところまで戻ると、改めて女の子を追いかけた




「ね、もっと早く逃げられないの? って、ゆっちが重いからとかそういう言い訳は禁止ね!」


 下半身のない少女を背負った若者が走り続けている。

 あの夕暮れ前に現れた老婆から逃げ出したままで。


「でもシュウトさんすごいね。こんなに走っても息切れしないんだ。あ、ひょっとして霊だから?」


「た、たしかに、走りながらでも普通にしゃべれる」


 ゆっちは振り返り、老婆の姿を遠くに探す。


「少しひき離したっぽいよ! この調子でいけいけー!」


 疲労を感じない心地よさのせいかシュウトはさらに加速し、その背景の世界が流れて溶けてゆく。

 やがて背景の中の一つの色が世界に広がり始める。

 それは闇の色。

 暗闇に染まりゆく世界の中を、足音のない足が駆け抜けてゆく。


 気がついたら世界は夜になっていた。


「あ」


 ゆっちが唐突に声をあげた。

 シュウトがびくっと立ち止まる。


「あ、ごめん。あのオバーサンじゃなくて……」


 シュウトは周囲を見渡し、気付いた。


「そうだね。ゆっちと最初に出遭った踏み切りだ」


「ゆっちの下半身、ずっと落ちたままかなぁ」


「それって離れていてもわかるものなの?」


「んー。感覚は全然ないんだけど……ね、ゆっちの下半身、変な霊とかにイタズラされたりしてないよね?」


「ぼ、僕にそんなこと聞かれても」


「もう、シュウトさんってば相変わらず。たまにはなんか面白い返ししてよ」


「……面白いって言われたって……」


 ゆっちはひとしきり笑ったあと、思い出したように不安げな顔に戻り、周囲を見回しはじめた。


「オバーサン追いかけてこないけれど、うまくまけたのかなぁ」


「どうだろね……」


 束の間の静寂が、踏み切りの甲高くキンキンと響く音に無残にも裂かれる。


「ね、シュウトさん。今、何時?」


「ごめん。時計は持ってないんだ」


「そっか……でもさ、あそこのホーム見てよ。電気消えてなくない?」


「本当だね。ということはこの踏切は……点検用の車両とかなのかな」


「点検用? なにそれ?」


「終電の後に線路の点検をする特別な車両があ」


「シュウトさん! あれ!」


 シュウトの説明を遮り、ゆっちが指差した方向から、一人の女の子が走ってくるのが見えた。

 そしてそのすぐ後ろに、自転車を押した青年が早足で着いてきているのも。


「……すたあちゃん? え、せ、先輩?」


「シュウトさん、知り合い?」


「あ、うん。前に」


 ガトンゴトンガトンゴトン……作業員が数人乗った見慣れない車両が、重たい音を響かせ踏み切りを横切ってゆく。

 そして辺りには再び静寂が戻った。


 小さな女の子は踏切を越える。

 そしてその後を青年も。


「シュウトさん、行っちゃうよ? いいの?」


「……よくない」


 シュウトはゆっちを再び背負い直すと、二人を追いかけはじめた。




 やがて町並みから小さな家々が減り、大きな建物が次第に増えてゆく。

 こんな夜中でなければここいらでは一番人通りの多い場所。

 深夜とはいえ車の通りも少なくない。


 歩行者用の信号が青く変わり、そのわずかな車の流れもせき止められる。

 女の子、そして自転車を押した青年が渡る。

 その後を同じペースで渡る2人……いや、1.5人。


「ね、シュウトさん。私たち、誰にも見えてないみたいだね」


「……そうだね。『メリーさん』じゃないと声を届けることすらできないんだな……」


「まだわからないじゃん! だって、別にメリーさんじゃなくてもしゃべる幽霊いっぱいいるじゃん! 心霊特集とかでよく見るよ?」


「そ、そうだね。諦めるのは早いよね」


 突然、女の子が走り出す。

 今までにないスピードで。


「ママ! もうすぐだよ!」


 自転車を押す青年も歩くスピードを上げる。

 だがシュウトは足を止めてしまう


「シュウトさん? どうしたの?」


「ここ、見覚えあるんだ。この先に桜並木があって……すたあちゃんを、そこから家まで送り届けたんだ」


「あの子が? 幼稚園があるとか?」


 シュウトは少し口ごもり、それから声のトーンを落として答える。


「……すたあちゃんのお母さんが……死んだ場所なんだ」


「え……あ……ごめんなさい」


「いや、いいんだ。ゆっちが謝ることなんかないから」


「でも……」


「とりあえず追いかけなきゃ。すたあちゃんのお母さんが……美空さんがここに居るはず」


 シュウトは再び走り出した。




「ママぁぁぁ!」


 桜並木に女の子の声が響く。

 それと同時だった。

 大きな衝撃音が響いたのは。


 シュウトとゆっちがそこに到着したとき、そこには女の子を抱きしめた青年が倒れていた。

 彼らの横にはひしゃげた自転車が転がり、ハンドルを切り損ねたのであろう一台のトラックが桜並木のうちの一本へ先端をめり込ませていた。


「先輩! すたあちゃん!」


「行ってあげて! ゆっちのこといいから!」


 シュウトは半身の少女を地面へと下ろし、倒れ込む二人のもとへと駆け寄った。

 しかし彼には何も出来ない。二人へと伸ばされたシュウトの手は、彼らに触れることが出来なかった。


「どうして……どうして……先輩……すたあちゃん……」


 シュウトのこぼした涙が、青年の頬へと落ちた。

 その涙は、なぜか青年の頬を通り抜けずに、残った。


「……ん……」


 おもむろに青年が目を開く。

 そしてガバっと起き上がり、周囲を見渡す。

 まず、傍らの女の子、それからトラック、そして自分の携帯電話を確認する。


「……こういう時、ゆすったらいけないんだよな……まずは救急車か?」


 青年は女の子の様子を心配しながらも、先に携帯電話を取り戻す。

 しかし青年が番号を入力する前に、その携帯電話は鳴った。

 その音は、女の子の目を覚まさせる。


「……ママメリーさん?」


 女の子は呆然としている青年の手から携帯電話に飛びつく。


「シュウトさん! なにあれ、怖っ!」


 ゆっちが叫んだ。


 青年たちのすぐ傍らに、黒い靄のようなものが在った。

 深夜の闇に半分溶け込んだそれは、よく見ると人のような姿をしている。

 そのナニカから、細長いナニカがゆるりと分かれて伸びて……女の子の方へスルスルと近づいてゆく。


「美空さん!」


 シュウトは叫んだ。

 彼の知っているその人の面影は欠片もなかったが、彼にはわかった。それが美空であると。

 しかし美空の……美空だったナニカの耳には、シュウトの声が届いている様子はない。


「ママの声がする」


 女の子がぼそりとつぶやいた。

 その声からは先程までのような喜びは消え、代わりに不安と怯えとが混ざっている。

 女の子の言う「ママの声」のような音は、やがて青年やシュウトたちの耳にも届く。


「……ハヤクイラッシャイ……ママノトコロヘ……ハヤク……ママ、マッテイルワヨ……ハヤク……」


「ちょ、あの黒いの、ヤバくない?」


 ほふく前進でシュウトの近くまで近づいてきたゆっちが、シュウトの足首につかまる。


「美空さんが、黒くなっている……」


「え、知ってる人なの? てか絶対ヤバいっしょ……どうにかしてよ!」


「どうにもならないさね」


 ゆっちの声に答えたのは、あの白いドレスの老婆だった。


「あの母親は、堕ちたんだよ」


 その目には憂いが浮かんでいる。


「ちょ、オバーサン! って逃げなきゃ! じゃない! えっと!」


「今、メリーさんのルールを破っているのは、アンタらじゃない。あちらさんの方だよ」


「え、メリーさんが……悪霊に? ね、シュウトさん。メリーさんってば実は悪霊つくる儀式なんじゃないの?」


「面白いことを言うね……だが、そうじゃない。そうじゃないんだよ、メリーさんは」


 老婆は首を横に振った。


「そんなことしても、あの子は喜ばないんだから」


「あの子?」


 ゆっちとシュウトが同時に聞き返した。


「わたしは、メリーさん。メリーさんは『よいこ』じゃないといけないの」


 老婆の目から一滴の涙がこぼれ落ちる。


「メリーさんが、人を不幸にする存在であってはならないのだよ」


 黒い影から女の子へと伸びてゆくナニカを、老婆は白い傘で叩く。

 ナニカはしゅるしゅると、元のナニカの方へと戻ってゆく。

 老婆はそのまま傘を広げ、青年と女の子とを覆う。


「すたあ……キエタ……ドコナノ? ママノコエガ……キコエ……ナイノ? ハヤク……オオドオリヘ……シンゴウナンテイイカラ……ハヤク……ママノトコロヘ……ママハ……ココヨ……」


 黒い影はユラユラと上部を揺らし始める。


「なにあれ。あの黒いの、自分の子どもを殺そうとしているの?」


「そんな……ありえない。美空さん、すたあちゃんのことあんなに大切にしていたのに」


 老婆はシュウトとゆっちのそばへと戻ってくる。


「殺そうとしているわけじゃない。寂しくて寂しくて寂しくて……何も見えなくなっちまっただけ……わたしたちにはもうどうすることもできない」


「ほっておくの?」


 ゆっちが老婆を睨みつける。


「あれはもう『メリーさん』ではない。わたしたちには関係ない」


「だって、誘ったのはオバーサンでしょ?」


 少女はシュウトにつかまっていた手を片方放し、右手の中指を立てたポーズを老婆に向かってつきつけた。


「あんたは強いね。あんたのような子が『メリーさん』になってくれるとありがたいんだけど」


「ちょ、この後に及んで勧誘? あんたらみたいな」


「ゆっち」


 シュウトは、ゆっちが立てた中指を優しく握り直させると、その手に自分の手を重ねて握りしめた。


「……あの、いったい『メリーさん』とはなんなんですか? 教えてください」


 シュウトが老婆をまっすぐ見つめると、老婆の顔からシワが消え始めた。それだけではない。顔自体も若く、幼く、美しく変化を続け、同時に体全体が縮んでゆく。

 あっという間のことだった。

 老婆だったものは、白いドレスをまとった小さな西洋人形へと変わっていた。


「わたしは、メリーさん。大好きな人に忘れられてしまったお人形」


 老婆によく似た声……しかしかなり幼い声のように聞こえる。

 シュウトとゆっちは、目の前の人形を静かに見つめ、それからお互いに視線を交わし、再び人形を見つめる。


「わたしは大好きな人に思い出してもらいたくて、電話をかけたの。大好きな人と一緒に巡った想い出の場所から。大好きな人は電話の好きな女の子だったから。でも大好きな人は私を思い出してくれない……だってわたしは声をもたない人形だったから。わたしが一生懸命呼びかけても、大好きな人は聞こえなくて、電話をすぐに切ってしまうの」


 白い人形はドレスのすそをなびかせて、くるりと回った。その顔は無表情のままで。


「でもあるとき、わたしの声が聞こえる人と出遭ったの。その人は人形ではなく、死んだ人間。わたしの手伝いをしてくれるって言ってくれた。わたしの代わりに、大好きな人に声を届けてくれた……だけど。大好きな人は、聞いたことがない声だからって気味悪がって切ってしまったの」


 人形はシュウトたちの方を向いたまま、淡々と語り続けている。

 口は動いていなかったが、声はずっと響き続けていた。


「わたしは手伝ってくれたその人にお礼をしたわ。その人が声を届けたい人のところへ声を運んだの。その人の声は届けたい人のところへちゃんと届いて。その人はありがとうって言って、そして天へと召されていったの」


 人形はその場にぺたんと座り込む。


「いろんな人にお願いしたわ。手伝ってくれる人も、手伝ってくれない人もいた。結局どの声も、わたしの大好きな人には届かなかったけれどね。手伝ってくれた人にはもちろんお礼をしたわ。あの人たち、わたしと一緒だと声を届けられるって喜んでくれて……でもね。そうやって想いが通じた人たちを観ていると、わたしは悲しくなった。わたしはずっと思い出してもらえないままだったから」


 人形は左手をすっと肩の高さまで持ち上げた。


「ある日、わたしの袖がちょっとだけ黒くなったの。その黒さはどんどん全身に広がって、わたしの中に大事にしまってある大好きな人の名前を隠してしまったの。わたしはもう、自分がどうしてここにいるのかすら見えなくなりはじめていた」


 シュウトは、自分の足首をつかんでいるゆっちの手に力がこもったのを感じていた。


「メリーさん、可哀想」


「そんなわたしを救ってくれたのは死んだ人間たちだった。人間たちはそれぞれの大切な人へと声を届けたいから、と、わたしの力を望み、わたしの名前を呼んだ。メリーさん、声を届けてよ、って……わたしは名前を失わずに済んだのよ」


 人形はふたたび立ち上がる。


「わたしはたくさんの声を届けた。そのうち、わたしと同じように『メリーさん』になりたいと言ってくれる人が現れた。わたしはその人たちに力を貸した。わたしがそうしてあげたいと思ったら、できたの。だけどできたのは、その人たちが『メリーさん』という名前を使っているときだけ、だった」


 語り続けるメリーさんの向こうで、女の子と黒い影とが、お互いに見えない相手に向かって呼びかけ続けている。


「きっと、届けることが出来る力は、わたしの力じゃない。『メリーさん』という存在を信じる多くの人たちの願いが叶えた、そういう力」


「……そうだよね……やっぱりそうだよね。メリーさんだから届けられたんじゃなく、届けたい気持ちが強かったから届けられたんだよ、きっと!」


 ゆっちはシュウトの足首をぐいぐい揺らそうとする。


「手伝ってくれる『メリーさん』たちが誰かを助けると、わたしの服についたこの黒いシミが薄くなることに気付いたの。『メリーさん、ありがとう』という声を聞く度に、わたしは昔の姿を取り戻していった。でも、助けるのに失敗すると、影はまた増えた。わたしは、失敗を減らすために、ルールを決めたの」


 人形はトコトコと再び傘のもとへと歩み寄り、傘に触れた。

 人形は一瞬のうちにあの白いドレスの老婆へと変わる。


「見た目はもうだいぶ白いけれどね。わたしの大好きな人の名前はまだ黒い靄に覆われたまま」


 老婆はため息をつく。


「だったらなおさら……美空さんを失敗なんかにさせるわけにはいかない!」


 シュウトはゆっちを小脇に抱えると、老婆の近く……青年と女の子と黒い影のすぐ近くへと駆け寄った。


「シュウトさん、何するつもり?!」


「声を、届けるんだ!」


 黒い影から伸びる細いナニカは相変わらず、白い傘に隠された女の子を探し続けている。

 その細いナニカを、シュウトはおもむろにつかんだ。


「何をするんだい! アンタまで闇に取り込まれるよ!」


「だ……大丈夫! こう見えてもアシストは得意なんです!」


 シュウトがつかんだ細いナニカは、次第に人の手のカタチを取り戻す。

 しかし代わりにシュウトの腕が次第に黒ずんてゆく。

 そのシュウトの腕を、ゆっちがつかんだ。


「こーゆーの見たことある。大きなカブっての? 皆でやればやれるってやつだよね!」


 黒い影は、その輪郭もすでに女性と分かるくらいにまで人の姿を取り戻している。

 だがシュウトの腕も、ゆっちの腕も、二の腕まで黒ずんでしまっている。毒々しいまでに。


「しょうがないね。メリーさんの底力、見せてあげるよ!」


 老婆が叫ぶと、傘の内側から何本もの白い手が湧き出し、シュウトとゆっちの手をつかんだ。

 つかまれた二人の手から黒ずんだ闇が祓われてゆく。

 黒い影は霧散し、そこには美空が立ち尽くしていた。


「アンタのカード、まだほんの少しだけ力が残っている。どう使うかはアンタ次第だよ」


 美空は放心状態だった。

 まだうわ言のように娘の名前をつぶやいている。


「美空さん!」


 シュウトは美空の腕から黒いカードをいったん引き抜き、それからまた美空の手へと挿し直した。

 美空はようやく自分を取り戻す。


「あああ……あ……あれ、あたし……」


「美空さん! 時間がない! 一番大切なことを、届けて!」


 美空はハッとして、あたりを見回す。

 老婆が白い傘を閉じると、美空はようやく愛娘の姿を見つける。

 ずっと闇の中に居た美空にとって、愛娘は一番星のようにひときわ明るく輝いていた。


「もしもし、私、メリーさん」


 美空がそう唱えると、彼女の手首から先が飴細工のように細く長く伸びてゆく。

 その伸びた先には、女の子の玩具の携帯電話があった。


 リン。


 玩具の携帯電話が鳴ったのと同時に、女の子はそれを耳へとあてる。


「ママ?」


「もしもし、私、メリーさん。いま、あなたのすぐ近く」


「ママなの? すたあ、まってたよ。ママのいうことぜんぶ、きくってやくそく、したから、まってたよ。すたあ、ママのところにいくよ」


「大丈夫よ。ママはね、すたあのすぐ近くにいるって言ったでしょ?」


「でも、ここにこないと、ママにあえない」


「すたあ、お空を見上げてみて」


「おそら?」


 すたあは空を仰ぎ見た。


「ママの名前にはね、空っていう字が入っているの」


「すたあ、わかるよ! みそら、のそら!」


「そうよ。だからね、ママに会いたくなったら、ここまで来なくても大丈夫なの。お空を見上げてくれたら、ママはいつでもそこに居るのよ」


「ママは……おそらに?」


「そうよ。いつだって、すたあのこと、見守っているから」


「……ママ……ママにぎゅっとしてほしい……」


「すたあ……」


 美空はすたあを抱きしめる。

 しかし、その手はすたあに触れることは出来ない。


「美空さん! すたあちゃんに頬ずり!」


 シュウトの言う通り、美空はすたあに頬ずりをする。


「あ……ママのにおいがした」


「どゆこと?」


 ゆっちがシュウトに耳打ちする。


「こぼした涙は……なんか届いちゃうみたいなんだ……気付いたのはさっきなんだけど」


「え、それすごい発見じゃない!」


「すたあ……」


 美空の体が淡い光を纏いはじめる。


「ママぁぁぁ」


「すたあがママを思い出してくれたとき、ママはいつでもすたあをぎゅってしているわ。それを、覚えておいて」


「ママ! ママ! ママ!」


 光はどんどん強くなる。


「すたあ、あいしてる。だいすきよ」


「それから、ありがとう。ほんとうに……」


「ママぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 美空の体が光の中に透け始め、湯気のように揺らいで消えた。

 美空の居た場所に何かがポトリと落ちる。

 あの黒いカードだ。

 老婆はそれを拾い上げ、耳元で軽く振ってみる。


「ああ、いいね。一時はどうなることかと思ったが、アンタらの頑張りでしっかり再チャージできたようだよ」


「良かった……」


 シュウトはその場にへたりこむ。

 老婆は彼に近寄り、その手に今拾ったばかりのカードを手渡した。


「アンタにメリーさんはやっぱり無理だよ。今限りでやめてもらう。そのカードはせめてもの餞別だ」


「ちょ、ちょっとオバーサ……メリーさん! シュウトさん、あんなに活躍したのに!」


「活躍し過ぎだよ。あんな大技、そう何度も使えるもんじゃないんだから」


「だからってクビは」


「いいんだ、ゆっち……ありがと。力になってくれて……メリーさん、ありがとうございます。そういうことならこのカードはいただけません。このカードは、メリーさんが大切なことを思い出すための力が」


「あー、察しが悪いね、この子は。そのカードはもともと手に入るはずもなかったものだから、メリーさんにとっては何の損失もない。だからやるって言ってるんだ。それにアンタはもうメリーさんじゃないんだ。そのカードを使おうが何しようが、もうメリーさんだとか名乗る必要ないんだよ」


「わぁ! メリーさんっカッコイイ!」


 ゆっちはシュウトの肩をバンバン叩く。


「それからアンタ。アンタもいい加減、自分の足で歩きなさいな」


 老婆が白い傘を再び開くと、そこには制服のスカートをミニ目に詰めた少女の下半身が立っていた。


「あ、あ、あ、ゆっちの足!」


 ゆっちはおそるおそる、久しぶりの下半身の上へと移る。


「いいかい。イメージするんだよ。轢かれる前の自分を。気合を入れりゃね、自分が一番輝いていた時の姿を取り戻せるんだからね」


「き、気合? ……ゆっち、やってみる!」


「じゃあ早速実践だ。ほら、歩いてごらん。わたしらの仕事はもうおしまいだ」


「え? あ、待って……あー……そーゆーこと?」


 老婆が傘で指した方向から自転車で全速力で走ってくる男が居た。

 自転車の荷台部分には、子ども用の座席が設置されている。

 男は青年の元に駆け寄ると、女の子を抱きしめた。


「ありがとうございます。ありがとうございます。うちの子がいつの間にか抜け出してたみたいで……娘のママ友から、娘が車道に飛び出そうとしているところをあなたが助けてくださったのを見たっていう連絡があって……」


 老婆とゆっちがその場を去り、到着した救急車にトラックの運転手が運び込まれる。

 父娘と青年も、やがてかけつけたパトカーへと乗り込み、その場を去る。

 遠ざかるそれらの光景を漫然と眺めていたシュウトが、ようやく口を開いた。


「……みんな行っちゃった」


 シュウトの手の中には、一枚の黒いカード。


「……名乗っていいって言われても……」


 ため息を一つついて、彼はまた歩き始めた。




<つづく>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る