第二話「明け方の声」
夜が終わる。
東の空から色が次々と変わってゆく。
黒から濃紺、そして群青、蒼へと。
やがて空の色に光が満ちてゆく。
朝の光から生まれた靄がまだ空気に溶け込む前の静かな道を、老婦人が杖をつきながら、ゆっくりと歩いている。
数歩進んでは休み、また数歩。
何度目かの休みの時に天を仰ぎ見た。
上空は風が強いようでいくつもの千切れ雲が流れてゆく。
雲は老婦人の背後から次々と現れ、その進む道の先へとぐいぐい追い越して行く。
「ああ……私はいつも置いてきぼりだねぇ」
そのため息が途切れる前に。
後ろから中年の女性が走ってきて老婦人の手をつかんだ。
「母さん! どこ行く気よ!」
「おや知美かい」
「おや知美かい、じゃありませんよ。母さん、一昨日転んで腰痛めたでしょ。まだ良くなってないんだから無理しないで」
「……でも」
老母の顔を覗き込んだ娘はヤレヤレと肩をすくませる。
「あー……今日はあの人の命日かぁ」
「なんだい。自分の父親を『あの人』呼ばわりするなんて」
「母さんには悪いけど、あの人には働いたお金を家に納めた以外に何ひとつ、父親らしいことはしてもらった記憶ないから」
「何言ってんだい。お父さんがどれだけ家族のために尽くしてくれたと思ってるんだい」
「もちろん感謝はしているわよ。でもね、学校行事に一度も来た試しもなければ、日曜日に遊んでもらったことも一度もない。食事を一緒に食べたことだってほとんどない。同じ家に住んでいるのによ? もし結婚式、来てなかったら『あの人』ですらなかったわよ」
「……あなたには悪いことしたって思っ」
「だ、か、ら! 母さんじゃないの。母さんを責めてるんじゃなく! あの無関心な人のやらなかったことを言っているだけ」
「でもね……」
「でもじゃないの。母さんはあの人を甘やかし過ぎ。だいたいあの人、生きてる間に一度も母さんに『愛してる』って言わなかったんでしょ? 私それ初めて聞いたとき絶句したわ」
「今と違うのよ。そういう時代だったのよ」
「何が時代よ。赤信号みんなで渡れば怖くないって? よそがどうとか、皆がどうとか、そういう言い訳、大っキライ。伝える意志が、本人にあるかどうか、じゃない!」
「お父さんは、ちゃんと伝えてくれたわよ。ただ言葉にしなかっただけ」
「言葉にしないでどう伝えるってのよ。結婚記念日に死ぬことが『愛してる』の代わりに」
「知美!」
「……ごめん。言い過ぎたわ。でも母さん、家に戻って。お墓参りは身体の具合が治ってからでもいいでしょ?」
老母は静かに目を閉じると、こくりと頭を下げ、すっと娘の手を取った。
今度は風を背ではなく額に受けて、手をつないだ二人はゆっくりと道を戻ってゆく。
ゆっくり、ゆっくりと進むその一歩ごとに、朝靄はぼんやりと晴れてゆく。
その背中を見守る二つの姿。だが射しはじめた陽はその影を作らない。
「奥様のほうですね?」
若者の問いかけにうなずきかけた老人は、ふと動きを止める。
「二人それぞれに、というのは……」
「……あ、えーと」
若者は周囲を見回す。
「かける相手は一人のままなら……多分、大丈夫だと思います」
「すまんのう」
「いえ」
若者は笑顔で応えた。
「では、お届けの契約をします。よろしいですね?」
「頼む」
若者が老人の手を取ると、老人そして若者とが続けて目を閉じる。
やがて若者は深く息を吐き……手を強く握り締めた。
「母さん、朝ごはん準備できたよー。そっち持ってくー?」
台所で叫んでいるのは先ほど「知美」と呼ばれた女性。
「ちゃんと、歩きます、よ」
老婦人は上半身を起こしてから一呼吸おき、ゆっくりと布団から這い出る。
近くにあったカーディガンを羽織り、手すりにつかまりながらゆっくりとリビングへと移動する。
知美は食器を洗うのを中断し、冷蔵庫からガラスの器を取り出してテーブルへ置いた。
ヨーグルトとフルーツが入っている器の横、大きめのマグカップからは湯気が朝靄のようにわきあがっていた。
「お茶は熱いから気をつけてね」
「ありがとうね」
「いえいえ。こちらこそごめんね。後回しになっちゃって。男連中、自分たちではなんにもできやしないんだから」
「いいのよ。会社や学校がある人優先で」
「母さん、ごめんね」
知美が立ち去ろうとした時、リンと電話が鳴り始めた。
「私取るから。母さんは食べていて」
知美は近くに置いてあった子機に手をのばす。
電話番号の表示はなかったがとりあえずと通話ボタンを押し、耳元へとあてた。
「もしもし、私、メリーさん。いま、あなたの家の前」
知美は怪訝そうな顔をして子機を耳から離すと、通話終了のボタンを押す。
「嫌だわ、何かのイタズラみたい。気味が悪い」
だがすぐにまたコール音が鳴り響く。
「こっちにお貸し」
母の伸ばした手を掃うように片手をひらひらさせた知美は再び通話ボタンを押す。
「もしもし、私、メリーさん。いま、坂を登り始めたとこ」
通話はすぐに途切れた。
「あれ、離れていっちゃった……」
「知美? 何の電話?」
「んー……分からない。女の人の声でイタズラだと思うんだけれど、うちの前から坂を登るって……それ駅の方に行く坂だよね?」
それを聞いた老婦人の表情が緊張する。
そしてすぐにまた電話。
今度は通話ボタンを押してもいないのに声が流れた。
「もしもし、私、メリーさん。いま、高台の公園の中を通り抜けているとこ」
その声にかぶり気味に知美は怒鳴る。
「イタズラはやめ」
「知美!」
しかしその怒鳴り声は母により中断させられる。
「……知美、今度はどこだって?」
「えーと……公園の中を通り抜けってとこは聞こえたけど」
「そう。高台の公園ね。次も教えて」
「次って……なんで」
しかし母の真剣なまなざしに気圧されたのか黙ってしまう。
そしてすぐに次のコール。
「もしもし、私、メリーさん。いま、梅の樹の角を曲がって、藤棚の家の前」
知美は自分が聞いた言葉を繰り返す。
「もしもし、私、メリーさん。いま、桜のお屋敷の横を抜けて、まだ咲いていない紫陽花の垣根の前」
老婦人は目を閉じて、ただうんうんとうなずいている。
「もしもし、私、メリーさん。いま、小さな川を渡って、幼稚園の前」
「知美の行っていた幼稚園だよ」
その幼稚園はお寺の境内にあった。
そして、そのお寺とは、知美が「あの人」と呼ぶ父の眠る墓があった場所だった。
「今通ったコースはね。お父さんが私にプロポーズしてくれた日に一緒に歩いた道なのよ」
「え? ……えー!」
「お父さんなりに私を喜ばせること考えてくれたのよ」
老婦人はにっこりと微笑んだ。
「私が花が好きだろうって一生懸命探してくれたのね。プロポーズしてくれた時にはね、もう知美がお腹の中に居たから……ここに通わせようねって」
「なにそれ聞いてない! デキ婚だったの? っつーかそれなのに『告白』なし?」
「違うのよ。言葉にしちゃうと、言い切ってしまうとね、言い終わった途端にその言葉が逃げて行ってしまいそうで怖かったんだって」
「そ、そんなの言い訳でしょ」
「そういう人なのよ。本当はロマンチストなんだから……結婚記念日にはね、毎年、その道を一緒に歩いたのよ」
「あの仕事の鬼が?」
「仕事に行く前、二人で早起きしてね。それだけは必ず毎年」
「……なんだ。二人ってばそんなデートをずーっと隠してきたの? え、私だけのけ者?」
「隠していたわけじゃないんだけれどね……知美は覚えてないだろうけれどね。お父さん、帰ってきたらまず知美の寝顔を見に行っていたのよ。毎晩毎晩」
「そんなの私知らないもん」
「それに授業参観も運動会も、そりゃ毎回じゃないけれど本当にちょっとだけは顔出しにきていたのよ」
「わ、私が気付かなかったら意味ないじゃん!」
その時、鳴り止んでいた電話がまた鳴った。
「もしもし、私、メリーさん。いま、かけっこで転んだとこ」
……知美は思い出す。
運動会のかけっこで転んだこと。
そういえば運動会の翌日、枕元に可愛い絆創膏が置いてあった。
てっきりお母さんが買ってきてくれたと思っていたけど。
「もしもし、私、メリーさん。いま、発表中に携帯電話が鳴ったとこ」
知美は思い出す。
授業参観で自分の発表のときに、鳴らしちゃった父兄が居て、怒られていたこと。
知美が振り返ったときにはもう、その人は廊下に出ちゃっていた。
「あのときもあのときも……来ていた……の?」
「そうだよ。中途半端にしか行けなかったから、知美に『嘘つき』って言われても否定できなかったって」
「……そんな……だって、だっていまさら!」
知美は鼻水をすする。
そんな娘に手を伸ばした老婦人は娘を抱き寄せると、優しく頭をなではじめた。
嗚咽をもらす娘の頭を、ずっとなで続けるのであった。
「……母さん……」
「なんだい?」
「プロポーズのデートのとき、私、お腹の中に居たんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあこれからは一人で行かないで。プロポーズのデートのときと同じように、三人で歩きましょ」
老婦人は娘の頭をなでるのと同じ優しさで微笑むと、一言だけもらした。
「そうだね」
「終わりました」
老人はそう言うと、若者の手を離した。
「ありがとう。あなたに会えて良かった」
笑顔の老人の姿がだんだん薄くなってゆく。
「……」
その消え行く姿に声をかけそびれた若者は、唇をきゅっと噛んだ。
「なんだい。未練は消えましたか、とでも声をかけたかったのかい?」
全身白い西洋人形のような衣装に身を包んだ老婆が、いつの間にか若者のすぐ後ろに立っていた。
「あ、いえ」
「アンタは優等生だが欲が薄いね。未練を抱えているから留まっているのだろう?」
「……僕の、未練……」
「アンタ自身は居ないのかい? いいよ、一回だけ許してあげるよ」
老婆はそう言って微笑んだ。
だがその微笑みには、即座に素直に受け入れる気にはなれない含みを、若者は感じていた。
「煮え切らないね。まあいいさ。期限は今から二十四時間」
そう言って老婆は黒いカードを取り出し、若者に手渡した。
「使うのは三回目だ。もう注意事項はいらないね」
「はい……あの」
立ち去りかけていた老婆は若者に向ける。
「あの……もし、使わなかったら」
「アンタは使うよ」
老婆はそのまま行ってしまった。
「……僕の未練…………先輩……」
若者はまだ昇ってゆく途中の太陽を眩しそうに見つめた。
<つづく>
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