怒髪天観炉の獄
丸めた新聞紙を空中で振って、それに当たった蠅がどうなるのかあんたは見たことがあるか。蠅は一瞬に絶命か気絶かをして、脚を上にして床に転がる。どこを見ているのか、見ていないのかわからない、何か茫漠としたものを内に秘めた目をする。俺は蠅を退治した後も少しそれを見ていた。今思えばあれは未来予知だったのかもしれない。夕闇の浸すマンションの部屋の中、俺はあの蠅と同じ体勢で部屋の真ん中に転がっていた。薄い外の明かりに照らされて、機能を果たしていない電灯の紐が物寂し気に揺れている。冷たい外気が部屋の下のほうを流れてくる。俺の体はそのつんと張った空気に沈んでぶるっと震えた。そうか、俺の体は動くのか。そう思って体をその流れがやってくるほうへ向けた。ベランダにつながる縦長の大きな窓が開いていた。網戸の向こうにきれいなまんまるのお月様が見える。それが穴に見えた。この夜空はまやかしだ。煌々と照る高天原が下界の生き物の目を焼き切らないように神々が張った暗幕だ。あれはそのわずかな綻びだ。俺は天上への歩みを進めた。網戸をあけてベランダに出ると、透明なオートスロープがかかっていた。それはベランダの柵からあの穴へとつづいている。俺はそのスロープに乗った。胡坐をかいている下には風に揺れる木々や電線が見える。顔を上げると世界が滅んだみたいに静かな町が水平線の向こうまで見える。俺は何か歌でも歌いたいような気分になった。どこで知ったのかわからないブルガリアの古い歌を口ずさんだ。二つ星空に光り、小鳥たち部屋に憩う、花びらの夢を見て、おやすみ安らかに。水色につつまれて、おやすみ安らかに。夜の歌われに満ちて、音もなく君は揺れる。まどろみも灯火も、おやすみ安らかに。ひそやかなせせらぎも、おやすみ安らかに。月影に大地眠り、やわらかな光流れ、明日の日のなかまたち、おやすみ安らかに。幸せを夢に見て、おやすみ安らかに。歌い終わると不思議に心地よい疲れがあった。もうすぐスロープは終わる。その時気づいた。これはただの穴じゃない。口だ。いや違う。なんだこれは。見たことがある。でも遠い。奥の奥の底の記憶にある。これは、母親? ああ、わかった。わかったぞ。これは女陰だ。ヴァギナだ。ああそうか、俺はいま体がないのか。天からのささやかな贈り物を俺は体積のないひとつの点として享受した。びかびか光るあれに包摂されんとする瞬間、遠くで蠅の羽音が聞こえた気がした。
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