生命の躍動と飛翔

 かしましいアラームのわめきと共に最悪の朝を迎えた。頭の横の方がずきずきするし軽い吐き気もする。昼に起きた休みの日みたいに身体がだるくて、昨日のことが随分昔のことに思えてくる。でも、この鉛みたいに重い疲労感と手に残るぐにっとした感触は、厭になるほど新田さんを殺したってことを私に思い出させてくる。


 カーテンを開けると、朝方のぼんやりした薄明かりが部屋に差し込んで汗臭い制服を照らした。昨日部屋に逃げ帰ってから引きこもったっきりだ。ほの暗い洗面所で顔と歯を洗って、雪だるまのマグカップに注いだ生ぬるい水道水をぐびっと飲み干した。このカップも使うの最後とかなのかなとか、そんなようなくだんないことを考えて家を出た。見飽きた家の先の海岸にバイクを走らせる。今日の空は快晴だ。自分が夏なのを忘れてしまったかのように涼しい、乾燥したぴんと張った風が頬を刺す。来たる一日は雲の向こうに朝日を煌々と滾らせて、かけらも残さず自分を使い果たそうとしている。まるで私を送り出してくれているような、静謐なはじまりの、まだちょっと暗い朝5時だ。私にとってはさよならの朝5時だ。ていうか朝5時に付き合ってくれるのいい友達だな。


 海岸にはもう澪がいた。錆びた柵に寄りかかってるのが妙に絵になってて、なぜだかちょっとだけ話しかけづらかった。

「おはよ。」

「おはよう。」

「どうしたのこんな時間に。てか制服。そんな早く行くの今日。」

「ううん、今日休む。」

「休むのに制服?相変わらずわけわかんないね沙綾は。」

「ふふっ。うん、なんかもうわけわかんない。」

「なに、なんかあったの。まあなんかあったからこんな時間に海で会おうなんて言ったんでしょ。」

「うん。まあいいじゃん。」

「よくないよ。誘われた手前、朝日も昇らないうちに起きないとってめっちゃ頑張ったんだよ。なんで目覚まし2つもつけて、最悪の目覚めを迎えなきゃいけなかったのか、ちゃんと説明責任果たしてもらうよ。」

「それは澪が起きれないからじゃないの。」

「うるさい。そうだけどそうじゃなくて。」

「わかった。じゃあさ、海入ろうよ。」

「へ」

「海入ったら教えてあげる。」

「私パジャマだよ。」

「私も制服だよ。」

「今日休むんじゃん。」

「澪も休めばいいじゃん。」

「意味わかんな。」

「あーーー」

ざぶーん。大きな音を立てて海に着弾した。鼻にめっちゃ海水入って痛い。

「がばっが」

「ちょっと、沙綾!」

「ごぼっへっ、ああ、ははっ。」

「沙綾、あんた、ひゃっ!」

「あははっ。」

「うひゃっ、こんのやろ。」

ざばっ。また一人海に着弾した。沖の方の太陽が雲間から不毛な塩水のかけ合いをぎらぎらと照らし始めた。

「あはっ、ぐぁ。」

「おら、さっさと吐け!」

「まって、吐く、言うからまって。ああ、ははっ。」

「はっ、何。」

「私さ、昨日の夜連絡つかなかったでしょ。」

「え、ああ、うん。」

「人殺しちゃった。」

口に出した瞬間、周りの時が止まった。けど、びっくりするほどすらりと口から出た。泣いたら恥ずかしいから隠そうと海に入ったのに、頬をつたるのは海水だけだ。

「…新田さん?」

「…うん。」

「………ははっ。」

「え。」

「いや、なんかさ、沙綾全然後悔してるふうじゃないから。」

「あ、いや、そんな」

「だって、してる?」

「…わかんない。けど、なんか、今はすうっとする。」

「あははっ。沙綾やばいよ。やばい殺人犯だ。」

「ふっ、ははっ、ほんとだ。」

「ははっ。いや、なんかさ、沙綾がそんな満足気なら敢えていろいろ聞かないけど、その…、それで、どう…するの、これから。」

「これから…バイク乗って、海岸線飛ばす。」

「え、あ、え?だって、その」

「逃げるの見られちゃった。ブレザーとか、血だらけでだよ。多分もう新田さんも見つかってると思う。」

「…じゃあ、あたしもさ、一個、犯罪させてよ。」

「え、どういう。」

「そのバイクさ、2ケツさせて。できるよね、沙綾の。」

「あ、うん、たぶん出来る。」

「じゃあ早く行こ。時間は待ってくれないでしょ。特に沙綾は。」

「なんでそんな。」

「だって、こんなお別れやだよ。沙綾はあたしの親友だし、引っ剥がされるまで一緒にいたい。いさせて。」

「……犯罪者め。」

「どの口が、あははっ。」

「離さないでよ。」

「離さないよ。」


 それからいつもより少し重くなったバイクは、わずかに朝もやのかかる海岸線を飛ばした。あれだけ口達者だった澪はバイクに乗ると一言も喋らず、ただずっと私を抱きしめていた。澪の体温と心臓の鼓動が、新田さんのそれと対照的に感じた。背中にのしかかる質量と温度と、おそらくは最後のここの海風が頬を撫でていくのを感じながら、なぜだか私はこのどこまでも広がっている青空を飛んでいるような気がした。その時さらに、その感覚も新田さんのそれと対のもののように思えて、なんだか笑ってしまった。聞きかじりのエラン・ヴィタールという言葉を思い出していた。私が新田さんのせいで笑うなんて、この世はなんて予想もしないことが起こるのだろう。ゲラで名の通る澪は、私が笑うとつられていつも私の倍は笑っていたが、今はまたきつく、私を抱きしめるだけだった。私はバイクをふかした。私は満たされていた。パトカーのサイレンの音がした。

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