第4話 尻尾に恋して

 俺は、かつて武闘家としてリングにはじめて上がった日の高揚感を思い出して、人知れずほほ笑んでいた。


 バルコニーは舞踏会の心地よいざわめきに包まれ、目を閉じれば、いまも満員の観客席から声援が聞こえてくるみたいだった。


 俺は男子高校の在学中に、プロの格闘家としてデビューした。

 最初はSNSを中心に活動していたが、事務所ともドラフト契約を交わし、将来の道もはっきりと見えていた。


 狭い正方形のリングの上が、俺の戦場だ。

 格闘家の寿命が長くないことも分かっていたし、試合では危険と隣り合わせであることは覚悟の上だった。

 だが、それでも自分が予測できる最短の道でその道を断たれることになるとは、考えていなかった。


 それは普段、だれも意識していないものだ。

 炭素と水でできた細胞には、物理的にあらがえない限界が存在する。

 その限界を超える環境で生きていくことなど、想定してはいない。

 サイボーグにでもならない限り、5tトラックを持ち上げることは出来ない。

 俺は自分の体がいかに強靭だろうと、しょせん生物の域を出ない事を思い知った。


 死ぬことこそなかったものの、俺は10代の時間の10分の1ぐらいを病院のベッドで過ごす重傷を負った。

 リングの端から端までぐらいの距離を、補助付きで一往復するのが俺の戦いとなった。


 かつてのライバルたちは、次々とリングに上がり、勝ち上がり、勝ち誇り、敗れ去り、栄光の階段を上り下りしていた。


 姉貴がお見舞いに持ってきてくれた小さなゲーム機に向かって、俺は一体なにをやっているんだ? と問いかける毎日。


 俺は送られてきた花を、花瓶ごと床に投げつけた。

 チューブを引き抜いて、弱った筋力を体幹の動きでカバーして、なんとか外へ。


 外に出て、ひたすら走って、日が沈むころに力尽き、道路で横になって眠った、それから記憶がない。

 気が付くと、俺は姉貴のゲームの登場人物として、第二の生を受けていた。


 俺がこの世界に生を受けた理由など知らない。

 どんな役割をになって生まれてきたかも知れない。

 もう一度動くことが出来る、俺にはそれだけで十分だった。


 俺は来る日も来る日もトレーニングに明け暮れ、家来を相手に剣では負けなしの令嬢になった。

 だが、家来たちは俺を相手に手加減していた。

 それが見え見えで不満だった。


 特注の30キロのドレスを着せられ、むりやり連れてこられたパーティ会場で、公爵家の陰口を言っていた国王派の貴族の男子(貴族連中は、公爵派と国王派の2派にわかれていた)と殴り合いで勝利を得た。


 これに怒った国王派の貴族たちは、次々俺に戦いを挑んできた。

 直接決闘を挑んできたものもいれば、代理人を雇ってきたものもいたが、全員返り討ちにしてやった。


 俺の敵ではなかった。

 どいつもこいつも、公爵家の威風に内心では怯えていたのだ。

 俺の10年をぶつけるには、弱すぎる。


 だが、レイモンド王子は違う。

 こいつは本気で俺を潰しに来るだろう。

 俺はそれを、本能で感じ取っていた。


 心臓がばくばくと高鳴って、笑みがこぼれた。

 そんな俺を微笑まし気に見つめて、レイモンド王子は言った。


「君はダンスが好きなんだってね? だが、あまりに下手で、公爵領では足を踏まれた男どもが数知れないという」


「それは違うな、わざと踏んだだけだ」


「本当の武勇伝くらい、僕の耳にも届いているよ、国王派のことならなんでも知っている……最近は公爵派に寝返る連中が後を絶たない。みんな公爵令嬢クラリスに叩きのめされたせいだ、とね」


 レイモンド王子は、軍服の上着を脱ぐと、ネクタイを外した。

 ラフな格好になることで、炎のマナがいっそう膨らみ、彼の鍛え抜かれた上半身が、さらに迫力を増したように見える。

 人間の皮膚の姿かたちをしたそれから、炭が燃えさかるような熱波が押し寄せてくる。

 本当に炎の化身のようだな。王子の燃え盛る両目以外のすべてが、漆黒に染まって見えた。


「巨象殺し、俺は言い訳をするつもりは毛頭ないが、聖皇国はお前の好きにしろ、派閥争いには興味がない……貴族どもが俺に寝返ったところで、最後にはどうせお前の物になるのだろう」


「そうとも限らないよ。たとえ君がどう思おうと、国の流れというものはたった1人のリーダーが決めるものではない。リーダーの後ろをついてゆく人の流れそのものが国なのだ。僕が恐れているのは、君という巨星の背後から、よからぬ人の流れが生じかねない、ということだよ」


「ふん、暗愚かと思ったが、さすがにただの仮面だったということか?」


「買いかぶりすぎだね、俺はただの小心者だ。今、ここで君を僕の物にしておかなければ、怖くて仕方がないだけさ」


 俺は、羽織っていたショールを脱いで、その下に着こんでいた重さ8キロ相当の鋼鉄のビスチェを外した。

 スカートを膨らませる骨組み(クリノリン)を外すと、地面に置いたそれは、がしゃん、という機械的な音を立てて、バルコニーのど真ん中に鋼鉄のかまくらを形成した。


 露出した両肩と2本の脚は、極限まで肉をそぎ落とし、アスリートのように引き締めてある。

 この肉体が女である以上、成長には限界があった。

 身体づくりの際はそれを考慮し、成長期の前から目標点をあらかじめ見据えて、トレーニングの内容を決めた。

 可能な限り身長を伸ばし、なおかつ速度を重視する。

 理想の形に作り上げた悪役令嬢の肉体は、まごうことなき俺の傑作だ。

 レイモンド王子は、表情を変えずに俺を褒めたたえた。


「クラリス、君は美しい」


「お前こそ」


 対するレイモンド王子は、骨格からすでに武人として完成していた。

 同じ15歳とはとても思えない、爆発と形容するしかない筋肉の成長。

 直立した熊のような上半身は、自然界が編み出した、強者の設計図そのものだ。

 王子の両腕は、女の俺に対して上から下に覆いかぶさるように、外から内に握り込むように、最低限の自然な動きで相手の急所が狙える、理想の位置に配備されているのだ。


 対する俺と言えば、体は丸くなる一方だ。

 いくら身長を伸ばしても、女の体つきになることから逃れられなかった。

 顔も小さく、いまも歯を食いしばる力が弱い。

 真正面からぶつかって戦える相手ではないだろう。


 だが……この世界には、魔法がある。

 物理の限界が、あと少しだけ伸びる、奇跡が起こせた。


「……来い、夜の剣ヴェトラント


 右手を夜の闇にかざすと、風を切る大きなうなりと共に、一本の剣が宙を舞い、俺の手に飛び込んできた。

 細い刀身を握りしめ、軽く振るうと、柄や鞘に絡みついていた金色の糸がほどけ、空中にふわりと弧を描いて、解けるように消滅する。


「魔弦か……これもまた美しい魔法だ」


 レイモンド王子は、腰に提げた長剣の柄に手を添えたまま、構えも取らず、余裕ぶった笑みを浮かべていた。


 魔弦は、糸の形をした力のある弦だ。


 まだ『場の力学』の概念がなかった時代。

 18世紀のニュートン力学では『遠隔力』と呼ばれていた、遠くの物に一瞬で波及する神秘の力である。


 一本一本は脆弱な力の線を束ねることで、筋線維が動物の筋肉を形作るように、目に見える力を持った強靭な弦を生み出すことができる。


「巨象殺し、国守が階段から転げ落ちたのでは、民が不安がるだろう……お前は足を踏むだけで許してやる」


 夜の剣を構えた俺は、自分のつま先を指さした。

 俺を見つめるレイモンドは、いっそう目を輝かせた。


「もし私が勝ったら……私の事をレイモンドと呼んでくれないか?」


「死ね」


 そういえば、ゲームでもこういう軽薄な男だったな、こいつは。

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