第31話 ついにきた


 湯屋に行ってからというもの、ヒルネの風呂に入りたい欲求は高まっていた。

 聖女の業務を抜け出しては、度々癒しの湯へ繰り出している。


 また、人をダメにする椅子の開発にも余念がなく、素朴な家具屋の娘リーンに「やわらかくて伸び縮みする生地を。中に入っている素材はもっと軽く」などと指示を出していた。さびれていた商店街は浄化のおかげで客足が戻り、椅子は噂になりつつあった。


 さらには寝具店ヴァルハラにも顔を出し、「新作のお試し」と言ってはぐうぐうと昼寝をしている。


 ヒルネを捜索するジャンヌ、ワンダはほとんどのパターンを把握していた。


「ヒルネさま。今日という今日はどこにも行かせませんからねっ」


 聖魔法で何度も出し抜かれているジャンヌがぷりぷりと怒っていた。


「ジャンヌ、ごめんなさい」


 ジャンヌに怒られて、わりと本気で落ち込むヒルネ。


(衝動的に行動してしまう……なぜだろうか……)


 謝ったそばからふあっと大きなあくびをして、ジャンヌを見つめた。


「今日も気持ちのいい朝ですね」

「……そうですね」


 落ち込んでもすぐに穏やかな顔になるヒルネに対して、ジャンヌは妙な安心感を覚える。

 あまり強く言うわけにもいかずに矛を収めて笑顔を作った。


 ヒルネがベッドから下り、万歳をポーズを取ると、ジャンヌが手際よく聖女服を着せていく。


「今日の朝ご飯はなんでしょう?」

「パンとスープではないでしょうか? 西教会から聖女さまあてにジュエリーアップルが届いていますよ」

「ジュエリーアップルさん……今年も実を作ったんですね。ジャンヌにも半分あげますから、一緒に食べましょうね」


 ヒルネがにこりと笑って言うと、ジャンヌが嬉しそうにうなずいた。


 朝の準備をしていると、あわただしい音が廊下に響いた。


 何かあったのかとヒルネがジャンヌと顔を見合わせると、ヒルネの部屋のドアがノックされた。ジャンヌがドアを開けると、女性司祭が一礼した。


「聖女ヒルネさま、急いで礼拝堂にお越しください。由々しき事態でございます。本日の業務はすべて中止でございます」

「かしこまりました」


 ヒルネが答えると、女性司祭が深々とお辞儀をしてドアを閉めた。どうやら隣の聖女も呼びに行くらしい。


「何かあったんでしょうか?」


 ジャンヌが不安げな顔をする。


(本教会の人があんなに狼狽するとか……とにかく急ごう)


 ふああっ、とあくびをしてから、ヒルネがうなずいた。


「早く行きましょう」

「わかりました」


 ジャンヌが急いでヒルネの髪の毛を整えると、二人は礼拝堂へと向かった。



      ◯



 礼拝堂にはメフィスト星教の重役が集まっていた。


 教皇、大司教ゼキュートス、大司教ザパン、司教十名、その他幹部が多数。

 そして現在王都で活動している聖女十二名も招集された。その中にはヒルネとホリーのあとに聖女へ昇格した、西教会出身の聖女も二人いる。


 ヒルネは教育係ワンダと話しているホリーを見つけて輪に加わった。ジャンヌは何も言わずに後ろにひかえる。


「ワンダさま、何かあったのですか?」


 ヒルネが聞くと、背の高いワンダが瞳をやわらかくした。


「これから大司教さまからお話があります。それまで静かにしていなさい」

「わかりました」


 しばらくして、聖女見習いの少女たちも本教会に集まった。

 全員が揃った姿を見届けると、大司教ゼキュートスが額の中ほどまで走る皺を一層深くさせ、口を開いた。


「皆、集まってくれたことに感謝する。落ち着いて聞いてほしい。今宵、王都に皆既月食が現れる」


 その一言で、ほぼ全員が息を飲んだ。

 よくわかっていないのはヒルネぐらいだ。


(皆既月食、めずらしいね)


 ただ、異世界エヴァーソフィアの皆既月食は地球と違うらしい。

 話を聞いてヒルネは腰が抜けそうになった。


「南方の瘴気が一ヶ所に集まって黒い柱になる姿を見た者がいる。天文部によれば、月にかげりが見えるそうだ。今宵、皆既月食が必ず起こり――大量の瘴気が王都を襲う」


 さすがは神に仕える者たちだ。誰一人として声を上げたりはしない。

 張り詰めた空気が礼拝堂に流れた。


(皆既月食で瘴気が王都を襲う? どういうこと?)


「王国には東西南北の門に兵士を詰めてもらい、我々は王都結界魔法の準備を行う。聖女、聖女見習い、聖職者、すべてで力を合わせ、この局難を乗り越える。結界の儀についてはザパン殿を責任者とし、その他実務は私が責任者となる。よいな」


 ゼキュートスの言葉を聞いた全員が聖印を切った。


 この場合、教皇が陣頭指揮を取るべきであるが、かなりのご高齢であるためゼキュートスが指揮に当たっていた。


 早速、礼拝堂内が動き始めた。

 皆既月食はここ百年で、一度も起こっていない凶事である。

 誰しもが初体験であり、ゼキュートス、ザパン、その他幹部から指示が飛ぶ。


「聖女と見習いはこちらへ――」


 元聖女であり、数々の瘴気を浄化してきたワンダが聖女のまとめ役となった。


 ワンダの号令で、少女たちが女神像の前へ集まる。


 ヒルネ、ホリーも集まり、ジャンヌは先輩メイドに呼ばれて本教会の奥へ駆けていった。どこも人手が足りないらしい。


 ワンダは落ち着いた口調で話し始めた。


「授業ですでに習っているかと思いますが、おさらいです。皆既月食は瘴気が集まって起こります。浄化の力を増幅する月を隠すことにより、瘴気が増え、不幸を撒き散らそうとするのです。人が多く集まる場所で起こる現象です。ここまでは大丈夫ですね?」


 はい、と少女たちが返事をした。

 約一名、ぼんやりと口を開けている。


(月が瘴気で隠れて、さらに瘴気が増える。そういうことか……恐ろしいね)


「瘴気を防ぐため、本教会を中心とした結界魔法陣を起動させます。それには聖女の力が必須です」


 ワンダが言うと、純白の聖女服を着た聖女たちがこくりとうなずいた。

 ヒルネもワンテンポ遅れてうなずいた。


「現在、南方浄化のために多くの聖女が王都から出払っておりますが……私たちの力で、一晩結界を維持する必要があります。王都の民を守るのは私たちの役割です」

「はい」


(みんなを守らなきゃね)


 ヒルネが一人だけ返事をすると、他の聖女、見習いたちも大きな声で返事をした。

 ワンダがそれを聞いて笑顔になる。


「あなたたちに不可能はありません。女神さまのご加護があるからです。結界の隙間から入り込んだ瘴気は兵士さまが倒してくださいます。ですから、私たちは私たちにできることをすればいいのですよ」


 ワンダの言葉に少女たちは力強くうなずいて、仲間の顔を見て、視線を交換した。

 ヒルネとホリーも視線を交わす。


「祈祷は夕方の五時から開始です。それまでは自室で眠りなさい」

「寝てもいい。なんて素敵な言葉でしょう」


 ヒルネがのんびりした口調で言うと、周囲から小さな笑いが漏れた。

 緊張が少しやわらいだ。


「こら、こんなときまで……ですが、そうね。ヒルネを見習って、夕方までよく寝ておきなさい。今日は徹夜になるわ。食堂に行けばいつでもご飯が食べられるからね」


 ワンダが言うと、少女たちが顔を見合わせた。


「では、聖女は自由時間。見習いは私と一緒に来なさい」


 ワンダの話が終わり、各自が行動を開始した。


「ヒルネ……あなたちゃんと起きれる?」


 ホリーがヒルネの袖を引いた。

 大きな吊り目が不安で揺れている。


 ジャンヌが必ず起こしてくれるので、この質問はホリーの不安の現れだった。

 皆既月食は恐ろしい現象として絵本にも描かれ、国民に知られている。


「ホリー、お願いがあります。一緒に寝てくれませんか? 二人で寝れば寝坊もないと思うので」


 ヒルネが笑顔で言うと、ホリーがぱあっと笑みを浮かべ、すぐに恥ずかしくなったのか、おほんと咳払いをした。


「そうね。うん、それがいいでしょう。緊急だから仕方ないでしょうね」

「一緒に寝ましょうね、ホリー」


(ぬくぬくだよ。ホリーありがとう)


 ヒルネはマイペースに喜んでいる。

 彼女と手をつないで自室へ戻ると、ジャンヌがヒルネの部屋からちょうど出てきたところだった。


 二人に気づいたジャンヌが「あっ」と跳び上がって、すごいことが起きました、と言いながら走ってきた。


「どうしたんです、ジャンヌ」

「ヒルネさま、大変です! 大変なことが起きました!」

「落ち着いてね」

「はい」


 ふう、ふう、と呼吸を整えてジャンヌが顔を上げた。


「寝具店ヴァルハラのトーマスさまが、な、なんとですね、ヒルネちゃんは今夜は徹夜だろうからと、金品でなく恐縮ですがと事付を残されて、お布団を――お布団を寄付すると――先ほどピヨリィの羽で作られた掛け布団を持ってきてくださいました!」


 その言葉を聞き、ヒルネは眠たげな碧眼を大きく見開いた。

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