第30話 お風呂で聖魔法
お風呂の気持ちよさに「ほわぁ」と声を漏らしていると。ヒルネはふとカーラの曲がっている腰を思い出した。
(あとで腰を治してあげようかな……でも、せっかく温泉があるんだから、お湯の効能で治ったほうがいいかも。それならみんな元気になるよね)
ヒルネは天井で粒になっている水滴を見ながら、これは名案だと眠たげな目を大風呂へ向けた。
「気持ちいいわね。ジャンヌ、お風呂に入ったことはあるの?」
ヒルネ越しにホリーが聞いた。
「一度だけ入ったことがあります。南方は山奥に温泉が湧き出ているので、有料の案内人がいて、隊列を組んで温泉に入りにいくんですよ」
「へえ、それは面白いわね」
「はいっ。南方が安全になればまた行けると思います」
「いいわね〜」
ホリーとジャンヌが笑い合っていると、真ん中にいるヒルネから突然、魔法陣が展開された。
魔法陣が大風呂を輪切りにするように浮かび上がる。
「え?!」
「ヒルネさま?!」
二人がすぐさまヒルネの顔を見る。
湯につかってのほほんとしていたご婦人たちも、「きゃあ!」「こりゃなんだい?!」と血相を変えて立ち上がった。
(聖魔法――癒やしの力――継続的にカーラさんの湯屋に効果が続きますように……)
ヒルネが目を閉じて祈ると、シャラシャラと渦を巻いて星屑が躍り、石造りの大風呂に飛び込んでいく。星屑は男湯にも向かって飛ぶ。星屑が湯の水面で遊ぶようにして跳ねた。
「星屑が躍ってます」
ジャンヌが驚いて指を差した。
「本当ね。こんな聖魔法……聞いたことがないわ」
聖女であるホリーが驚きの表情でヒルネを見る。
星屑が大風呂に吸い込まれると、今度は天井へと駆けていく。
我先にと天井にくっついては消えていった。
「あたしゃ見たことあるよ! こりゃあ聖なる魔法だよ!」
先ほどヒルネたちに声をかけたおばちゃんが風呂場にいる全員に聞こえるように言って、魔法陣の中心にいるヒルネを見つめた。中にいた人たちが一斉にヒルネを見る。
「お、お嬢ちゃん……まさかとは思うけど、その子、聖女さまかい……?」
恐る恐るおばちゃんがジャンヌに聞く。
「はい。この方は歴代で一番大きい聖光をお出しになって聖女になられた、聖女ヒルネさまです」
ジャンヌが誇らしげに胸を張った。
するとおばちゃんや他の客たちが、「なんてこった」と頭を垂れて何度も聖印を切った。
信心深い女性は涙まで流している。
湯屋に来る聖女など一人もいないので、驚きは相当なものだった。
「……ふう、これでいいでしょう」
ヒルネが魔法を止めると星屑が躍りながら霧散した。また呼んでくれよな、と言っているみたいだ。
「あれ、皆さんどうかされましたか?」
「ヒルネ、いきなり聖魔法を使わないでよね」
ホリーがヒルネの二の腕をぐりぐり押した。
「ああ、すみません。思いついたら即行動がこの身体に染み付いておりまして」
「よくわかんないけど皆さんびっくりしてるわよ」
ヒルネが周囲を見ると、女性客全員が頭を垂れていた。
「皆さん大変お騒がせいたしました。カーラさんの湯屋がとても素敵なお店だったので、何かお礼ができないかと思いまして……このお風呂に入ると元気になるように魔法をかけておきました」
にこりとヒルネが笑うと、おばちゃん客が「あれ」と肩を回し始めた。
「怪我してから肩が上がらなくなったんだけど……肩が軽い……あれ? あれぇ?」
おばちゃんが登板前の投手のように右肩をぶん回している。
やがて、驚きは感激に変わり、すぐさま風呂を飛び出していった。
「カーラばあさん、入りなよ。ほら、ほら」
おばちゃんは常連客らしく、女主人のカーラを連れてきた。
腰の曲がったカーラが困惑した顔で「あたしは毎日入ってるよ」と苦笑している。
「聖女さまがお風呂に聖魔法をかけてくださったんだよ! あたしの肩を見てよ、ほら!」
得意げに肩を回す常連客。
それを見てカーラも驚いた。
「あんた屋根から落っこちて肩が上がらなくなったはずじゃ? じゃあ本当に聖女さまが聖魔法を使ってくださったのかい……?」
「だからそう言っているだろう。ほら早く服を脱いで入んな。あたしが店番やっとくからさ」
常連客は颯爽と風呂場から出ていった。
カーラが年季の入った石造りの大風呂を見て、中に入っているヒルネ、ホリー、ジャンヌを見た。皺のあるまぶたがせわしなく動いている。
「カーラさん、勝手に聖魔法をかけてしまいました。ごめんなさい」
(困らせちゃったかな……?)
ヒルネが眉を下げて謝った。
すると、カーラが「とんでもございません」と礼をして急いで脱衣所に行き、服を脱いで手ぬぐいを持って大風呂へ入った。
「ああ……染みる……」
カーラがつぶやくと、天井についていた水滴がぽちゃんとお湯へ落ちた。
水滴は跳ねると星屑に変わり、パッと輝いた。
「あらま、水滴が星屑になったよ」
「私が聖魔法を使ったからです」
ヒルネが嬉しそうに笑うと、ヒルネの鼻先にぽちゃりと水滴が落ちてキラキラと星屑が舞った。
「あっ。ちょっと冷たい」
「ほんとねぇ」
「綺麗です」
ホリーとジャンヌがそれを見て楽しげに笑う。
ヒルネは鼻先を指でこすって、えへへと白い歯を見せた。
カーラはなんだかその光景が尊いものに見え、自然と顔に笑みが浮かんでいた。
「カーラさん、腰が……」
お客の一人が気づいたのか、カーラの背中を指さした。すると他の客も気づいたのか、あっと驚きの声を上げる。
「あたしの腰がまっすぐになってるよ! ああ、こりゃあ……驚いたねえ」
毎日一人で風呂掃除をしていたせいで腰が曲がっていたが、カーラの腰は嘘みたいにピンとまっすぐに伸びている。
「よかったですね、カーラさん」
(カーラさん、ずっと元気でいてほしいなぁ)
ヒルネが嬉しげに首を小刻みに左右に振った。
その仕草が可愛らしくて、カーラはつい孫を見るような目になった。幸せそうなヒルネを見ていると、聖女とかそういった肩書がどうでもよく思え、本音の言葉が漏れた。
「ヒルネちゃん、ありがとねぇ」
「こちらこそありがとうございます。素敵なお風呂ですね」
「いつでも入りに来なね。お友達もね」
皺のある目を細めて、カーラが母親のように笑う。
「はい。また来たいです。カーラさんの優しさに感謝いたします」
「ありがとうございます」
ホリーとジャンヌもあらためて礼を言った。
「んあ」
ヒルネはすでに話を聞いておらず、のんびり口を開けて落ちてくる水滴を食べようとしている。
それを見て、ホリー、ジャンヌ、カーラはくすくす笑った。
「のんびり屋な聖女さんだねぇ」
カーラが言うと、ホリーが「いつも困ってるんです」と苦笑いをした。
周囲の客たちも微笑ましいものを見る顔をして「あらあら」と笑みを浮かべている。
ぽちゃん、とヒルネの小さな口に水滴が入り、星屑が舞った。
「今見ました? 口に入りました。ジャンヌ、見てました?」
(お風呂楽しいな……また来よう)
大きな碧眼をぱちぱち開閉させるヒルネを見て、ジャンヌが見てましたよ、と笑顔でうなずいた。
ホリーがため息まじりに肩をすくめ、カーラは一人息子が幼かった頃のことを思い出して、幸せな気持ちになった。
(カーラさんの息子さん。帰ってこれるといいな……女神さま、彼にご加護を……)
ヒルネは口を開けながら、カーラを見てそんなことを祈った。
キラリと星屑が光る。
天井の端で星屑が舞ったことに、誰も気づいていなかった。
◯
北の大地には迷いの森が存在している。
瘴気に覆われ、入った者を出られなくする魔法の一種がかかっていた。
「……」
一人の男が迷いの森をさまよっていた。
ぼろぼろになった兵士の鎧。
腰には乾燥させた獣の肉がぶら下がっている。
男は森を歩いていたが、また同じ場所へ戻ってきてしまい、ため息をついて大木へ寄りかかった。
(部隊からはぐれて一年……ああ……風呂に入りてえなぁ……)
部隊長であった男の精悍な顔は、今は見る影もなく汚れている。
美しい泉を発見して水を確保し、どうにか迷いの森から脱出しようと試みたが、何度挑戦しても元の場所へ戻されてしまう。彼の心をつなぎとめていたのは妻と子ども、そして湯屋をやっている母親の存在だった。
(王都に帰ったら母さんの跡を継いで湯屋をやろう……今思えば親父が死んですぐに……継いどけばよかったな……)
希望と後悔が頭の中を何度も行き来する。
(泉の水も枯れそうだ……こいつがなくなるまでは……あきらめねえぞ)
男は泉のそばに立っている大木から背を離し、腰を上げた。
(噂じゃ迷いの森には脱出できるルートが存在するって話だ……ん? なんだ?)
暗い森に、キラキラと輝く何かが飛んでくるのが見えた。
魔物かと腰の剣へ手を伸ばすも、それが星屑だとわかって力を抜いた。
(星屑が人形の形になってる……?)
淡く発光している星屑が集まり、小さなヒルネを型取っている。
男にはそれが人形に見えた。
星屑の人形は空中にふわふわ浮いたまま、森の中を指さしている。
(……この星屑……聖女さまが聖魔法を使ったときに出てた……)
出陣前に見た聖魔法を思い出し、男の背中が伸びた。
(出口を示してくれてるのか?!)
男の胸から熱いものがこみ上げてきた。部隊からはぐれて一年。迷いの森の脱出に幾度も挑戦し、すべて失敗している。何度あきらめようと思ったかわからない。
男が一歩前へ足を踏み出すと、星屑人形がふわりと進む。
(星屑を……信じよう……)
男が地面を踏みしめた。
その日、彼は迷いの森から脱出を果たした。
◯
ヒルネが湯屋に行った一ヶ月後、一人の兵士が奇跡の生還を果たして王都で大きな噂になる。
やがて兵士の物語は吟遊詩人に語り継がれる逸話となった。
帰還した兵士は湯屋を継ぎ、聖女の加護で大繁盛する。吟遊詩人の歌物語はそんなハッピーエンドで終わるらしい。歌物語には変わり者の聖女が現れるのだが……その聖女は時を経ても老若男女から大人気で、愛される存在だそうだ。
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