第28話 湯屋にて
聖女二人とメイド一人が湯屋の前に着地した。
歩くのが面倒だったヒルネが、兵士宿舎からここまで浮遊魔法を使ったのだ。
ヒルネが感慨深げに赤レンガの建物を見上げた。
(銭湯。これは銭湯だよ……ちょっと洋風な感じの……生前は頑張ったご褒美で入りにきたなぁ……)
王都の外れにある湯屋『癒やしの湯』は庶民的な銭湯であった。銅貨三枚――日本円だとおおよそ三百円くらいだろうか。手頃な金額で入れる地元民憩いの場である。
暖簾が垂れているのは奇しくも日本と同じ文化であった。
金髪聖女ヒルネ、水色髪聖女ホリーが並んでいるとこの上なく目立った。
昼過ぎの通りには人が往来しており、「聖女さまだ!」「居眠り姫ですわ」などの声が上がっている。誰もが恐れ多いと思っているのか二人に声をかける者はおらず、遠巻きに見て聖印を切って通りすぎていく。聖女がいかに大切にされているかがわかる光景であった。
「ヒルネ、早く戻りましょう。お仕事の休憩中に湯屋に行ったなんて知れたら千枚廊下掃除じゃ済まないわよ。ワンダさまが頭を抱えるわ」
ホリーがヒルネの裾を引いた。
「大丈夫です。ささっと入れば問題ありません」
「戻りましょうよ〜」
ヒルネが一度言い出すと聞かないことを知っている。主に睡眠欲に発揮されるのだが、今回は風呂に入りたいという欲求に突き動かされていた。ホリーは半ばあきらめ気味にジャンヌを見た。
「ジャンヌ。ヒルネを止めて」
「ヒルネさまはこうなると他が見えなくなるので……無理かと……」
申し訳なさそうにジャンヌが言い、ホリーがだよねぇと言いたげに肩を落とした。
ジャンヌがいちおう言ってみようとヒルネの肩を叩いた。
「あの、ヒルネさま。聖女さまが湯屋に行くなど聞いたことがなく――」
「ジャンヌ、とっても楽しみですね! 一緒に入りましょうね!」
振り返ったヒルネの瞳がまぶしい。
南方に咲くヒマワリ草のようである。
ジャンヌはヒルネの「一緒に」というフレーズを聞いて嬉しくなってしまい、無意識に「はいっ! 一緒に入りましょう!」と快諾してしまった。
言ってから鳶色の目をびっくりさせて、しまった、という顔をしても遅い。
「ハァ……あなたは何の抑止力にもならないわねぇ……」
「失敗しましたぁ……」
やれやれとホリーが肩をすくめ、ジャンヌが情けない声を上げた。
「どうしたんです二人とも。早く入りましょう。休憩時間がなくなってしまいます」
ヒルネが首をかしげた。
そのときホリーが何かを思いついたのかポンと手を叩き、自信の満ちた顔つきで口を開いた。
「そう。そうだわ。ヒルネ、残念だけど私たちはお金をもっていないわ。湯屋に入るには銅貨三枚が必要なのよ。だから湯屋に入ることはできないわ」
ふふんと得意げにホリーが言うと、輝いていたヒルネの顔がみるみるうちに暗くなっていった。
ヒマワリ草は萎れて、ダイコンの干物のようになった。
「そうでした……聖女はお金を持ち歩いてはいけないんでした……なんということでしょう……せっかくお風呂に入れると思ったのに……」
本気で落ち込むヒルネ。
転生してから二年半。一度も風呂に入っていない。
毎日朝晩、ジャンヌが丁寧に身体を清めてくれており、夏場は水浴びをしたりしているが、風呂に入るのは元日本人として格別な思い入れがある。落ち込むのも無理はなかった。
悲しげな顔をしているヒルネを見て、ホリーは息を詰まらせた。
「……ッ」
なんてことを言ってしまったのだろうと後悔する。
ホリーはなんだかんだ面倒見がよく、いい子であった。彼女はあわてて両手を広げた。
「だ、大丈夫よ! 私が湯屋にお願いして入れるようにしてもらうわ! だから元気出して。ねっ?」
「そうです! 私も頼んでみます! 聖女付きのメイドに不可能はありません!」
ホリーに加えてジャンヌも、ヒルネを励ました。
「そうでしょうか……? でも、お金を払わないというのはよくないと思います。湯屋の方にも生活がありますし……」
もとが貧乏だっただけあり、ヒルネはどうにも気になってしまう。
「私にまかせなさい。二人とも、ここにいるのよっ」
ホリーがこれ以上ヒルネを悲しませないぞという気概で、店の暖簾をくぐっていった。
完全に趣旨が変わっていた。
しばらくしてホリーが得意満面な表情で出てきて、「無料で入っていいそうよ」と言った。
「本当ですか?! さすがホリー! ありがとう! 大好き!」
ヒルネが笑顔になってホリーに飛びつき、嬉しさのあまり身体を左右に揺らした。
(お風呂ーーっ! ホリーありがとう!)
「まあ、別にいいわよ……別に……」
ホリーが照れているのか頬を赤くして、なすがままにされている。
それを見たジャンヌはハッピーエンドな映画のエンドロールを見ているかのように、笑みをうかべておもむろに何度もうなずいていた。さっきまで止めようとしていたメイドはどこに行ったのか。
周囲にいた人々も抱き合う聖女二人を見て、何かいいことがあったのかと嬉しそうに聖印を切っている。微笑ましい光景だった。
「仕方ないから湯屋に入るわよ。行きましょう、ヒルネ」
最終的にはホリーがヒルネの手を引く形になった。
「行きましょう。ほら、ジャンヌも」
ヒルネがジャンヌの手を握り、三人仲良く湯屋へ入っていった。
◯
湯屋は清潔に掃除されていて、男湯と女湯に分かれていた。
(広いなぁ。銭湯っぽいけど壁が石造りなんだね。風呂上がりの人が椅子に座って涼んでるよ。あ、服が干してある)
ヒルネはきょろきょろと首を動かして湯屋を観察した。
「……!」
一方、店番をしていた年寄りの女店主は聖女がウチの風呂に入るのかと半信半疑であったが、楽しそうなヒルネ、ホリー、ジャンヌが暖簾をくぐったのを見て両目をかっぴらき、尊さと申し訳なさで変な汗が出てきた。
彼女は腰が曲がっているにもかかわらず、素早い動きで番頭台から降りると、何度も礼をして聖印を切った。
「聖女ヒルネさま、聖女ホリーさま、湯屋の店主カーラと申します。こんなボロくて長く続いていることしか能のない湯屋に来ていただき……恐縮でございます……嬉しくて曲がった腰が伸びそうです……死んだ主人もきっと喜んでいると思います」
カーラの話を聞いて、ホリーが彼女の手を取った。
「突然の訪問申し訳ございません。三人も無料にしてくださって、本当に感謝申し上げます。あなたの優しさは女神ソフィアさまもきっとご覧になっているはずですわ」
真面目なホリーの心からの言葉が、カーラの胸を打った。
ストレートな感謝に彼女は目から涙をこぼした。
「主人が死んで、兵士の息子も一年前に魔物討伐に行ってから帰って来なくて……一人で湯屋をやってきました。もうやめてしまおうと何度も思ったんですけど……息子の帰ってくる場所を残しておきたくて、こうしてまだ未練がましく湯屋をやっていたんですよぉ。聖女さまに来ていただけるなんて、あたしは……あたしは……」
ヒルネが一歩前へ出た。
「カーラさん、ありがとうございます。私が湯屋に入りたいとわがままを言ったのです。本当に素敵な湯屋ですね。入るのが楽しみです!」
ヒルネがカーラの瞳を覗き込み、碧眼をくしゃりと横にして笑った。
カーラはそんなヒルネを見て喉を震わせ、おいおいと声を上げて泣き始めた。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
曲がった腰のカーラが泣いているのを見て、ホリーとヒルネが彼女の背中をゆっくりと撫でた。
風呂上がりの常連客からは「ばあさんよかったな!」とか「カーラさん、これは幸運なことだよ」とか「いつもありがとね!」などの声が上がる。ジャンヌはポケットからハンカチを出して涙を拭いていた。
(カーラさん……このお店が小さな幸せをみんなに配ってるんだね……)
ヒルネが曲がった背中を見て瞳を潤ませた。
カーラが落ち着くのを待ってから、ヒルネ、ホリー、ジャンヌはタオルを受け取って女湯の暖簾をくぐった。
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