七日目・蒼の過去

 蒼を疑う桔梗の言葉を断固として否定しつつも、苦し気な声を漏らす宗正。

 そんな二人のやり取りを見守っていた百元は、眼鏡の縁を抑えながら先程宗正が発したある一言に食いつく。


「宗正、君は今、蒼くんのことを蒼司と呼んだね? それが、彼の本名ということかい?」


「……ああ、そうだな。そういうことになるだろう」


「どうして偽名を名乗っている? 彼の過去に後ろめたいものがないとするならば、どうして本名を名乗らない?」


「……からだ。蒼は、己が名を憎んでいる。いや、正確には……その名を付けた者を、か……」


 意味深な宗正の言葉の真意を探るように、桔梗と百元が彼へと視線を向ける。

 旧友たちからの視線を受ける彼は、悩みに悩み抜いた後、今、この場で伝えられる蒼の過去の一端について二人へと語った。


「奴の名のうち、蒼の名は母が与えた。それ以外の名は、父である男が与えた。あいつは、蒼司は……この世の誰よりも、父を憎んでおる。燈と真逆だ。あいつは、父から与えられた蒼司という名を心の底から嫌悪している。それが故に、母が与えた蒼の名だけを名乗るようになったんじゃ」


「父を、憎む? それほどまでに実の親を憎む理由とは、いったい……?」


「……考えるまでもないだろう。己の名前のうち、どうしても捨てられない蒼の名を付けた人物……母親がそこに関わっている。違うかい?」


 確認をするかのような百元からの問いかけに、宗正が瞳を閉じたまま頷く。

 そうした後、難しい表情を浮かべながら、彼は淡々と語れるだけの情報を二人へと語り聞かせていった。


「蒼司の父は、自身の伴侶である彼奴の母を……皐月さつきを死なせてしまう原因を作った。そうなると理解した上で母を死なせた父親のことを、蒼は心底憎んでおる」


「直接殺したのではなく、死なせる原因を作ったって言い方が妙だね。その辺りにあんたたちが秘密にしたい何かが隠されてるってことかい?」


「ああ、そうだ。詳しいことは今は語れん。だが、これで一つお前たちにもわかったことがあるのではないか?」


「蒼くんがあそこまで強くやよいさんへの想いを否定するその理由、だね?」


 再び、百元の言葉に大きく頷く宗正。

 父が母を殺す要因を作ったという蒼の過去を朧気に聞かされた二人は、ようやく蒼のその頑なさの理由を理解し始めた。


「実の父が、愛する人であったはずの母を殺した。そこにどんな理由があったのかは私たちにはわからないが、蒼坊やが受けた心の傷の深さは計り知れないね」


「間接的にとはいえ、母を殺した父親を蒼くんは憎んだ。しかし、それと同時に彼は自分に憎むべき相手である父親の血が流れていることへの苦しみを抱いてしまった……」


「だからこそ、あいつは愛と自分自身というものを信じられず、憎んでいるのさ。愛し、夫婦になったはずの母を殺した男の血が、自分にも流れている。もしかしたら、自分もいつか父親と同じような真似をするかもしれない。恐ろしいんだ、蒼は。自分が、本当に大切に想う人を裏切って、父親と同じ人間になってしまうことが」


 父は、母を愛したはずだった。

 だからこそ夫婦になり、愛の結晶として自分が生まれ、二人は幸福の絶頂にあるはずだった。


 だが、父は母を裏切った。

 その裏切りの果てに母の死が待つと理解しておきながら、彼は母を捨てる道を選んだ。

 愛とは、そんなに脆いものなのか? 愛した人を裏切るというのは、そんなに簡単なものなのか?


 その答えが是であるというのならば、愛などというものを自分は信じない。

 どれだけ心が狂おしくその女性を求めようとも、どれだけ心がその人を大切な存在だと認めようとも、そんな感情を信じることは出来ない。


 そして、その答えが否であるというのならば……自分は、

 誰よりも大切で、その間に子を成すほどにまで愛した人を裏切った父が特異な存在だとするのならば、その男の血が流れている自分もまた、彼と同じことをする可能性がある。

 故に、自分は誰かを愛さない。愛してはいけない。

 その人物のことを真に大切に想うのなら……自分のような男が、誰かを愛することなど許されるはずがないのだから。


「……それが、蒼が抱えた心の傷だ。深く、詳しく話すことは、あいつ自身が自分の過去と向き合い、決着をつけるまで許されない。少なくとも、わしの口からはこれ以上のことは語れん。身勝手だとはわかっておるが……どうか、あいつのことを理解してやってくれ。頼む」


 畳の床に頭を擦り付け、宗正が桔梗と百元に許しを請う。

 春画が見つかった時とは比べものにならないほどの真剣さを見せる彼の姿に口を閉ざした二人は、これ以上は彼の口から蒼の過去を聞き出すことはしない方がいいと判断したようだ。


 しかし、宗正が息子のように思う蒼を気遣うように、桔梗もまた娘として育ててきたやよいに対する愛情というものがある。

 それはそれ、これはこれという形で踏ん切りをつけた彼女は、小さく息を吐いてから宗正へとこう告げた。


「……蒼坊やと話がしたい。二人きりでだ。あの子を、ここに呼んでおくれ」

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